霞む記憶を垣間見る
「珠姫様、本当にありがとうございます」
先ほどから何度目かわからないその台詞に、堕姫は思わず苦笑を零す。
はよほど嬉しいのだろう、しきりにその頬を赤く染めてにこやかに微笑んでいた。
お気に入りの彼女がそのように嬉しそうにしていれば、主である堕姫も気分が良い。
「ふふっ・・・何度言えば気が済むのよ。わかったって言ってるじゃない」
「ですが、何度お礼を言っても足りない気がして・・・」
がこうして、何度も礼を述べることには理由がある。
彼女が長いこと気にしていた機会が、ようやく明日訪れることが決まったのだ。
「大旦那様とこの奥田屋でご挨拶出来るだなんて、しかも珠姫様もご一緒して下さるだなんて・・・夢のようです」
「ま、アンタを買ったのはアタシだしね。
がそこまで世話になった御仁なら、挨拶のひとつくらいはね」
もう約半年前になるだろうか。
が平坂屋で挨拶をする予定でいた男との約束が、ようやく取り付けられた。
高齢のその男はここのところ体調を崩しがちだとかで、なかなか再調整の段取りが組めずにいたのだけれど。最近になってようやく具合も持ち直し、男の方もまた
と会えることを心待ちにしていると、平坂屋の者から文が届いたのだ。
堕姫は、また
を日中外に出すことで何かしらの危険が伴うくらいならば、いっそこの店に呼んでしまえば良いと結論付けた。これは妓夫太郎も同意見の様であったし、何より
本人が大いに喜ぶこととなった。
世話になっていた相手に、今仕えている女性を紹介出来るだなんて嬉しい、と。そうして微笑む
の表情には、どうしたって敵いはしない。
「それに、なかなか良い腕の浮世絵師だって言うじゃない」
加えて、その男がこれまで数多くの依頼をこなしてきた浮世絵師であるという情報が堕姫の決断を後押しした。彼は遊女たちの絵も手がけ、評判も決して悪くないと言う。
の恩人ということも手伝い、堕姫は明日その男に珠姫として絵を描かせることとなっていた。自身の客人のことを褒められ、
の頬も嬉しそうに緩む。
「はい、平坂屋でも大旦那様の作品の評判は何度も耳にする機会がございました。きっと、珠姫様のことも素敵に仕上げて下さると思います」
「当然よ、こんな美しい花魁を描く機会なんてもう二度と無いわ」
「ふふ、仰る通りです・・・本当に、この目が見えないことが残念でなりません」
「・・・」
改めて彼女の口から告げられた盲目の事実は、今更覆りようのない話ではあるがどこか淋しげな響きがする。
堕姫は徐に
の膝を空けさせ、無遠慮にそこへ横になった。突然のことにも関わらず
は心得たように微笑んでいて、肩に優しく手を添えてくれている。堕姫はその優しげな表情を見上げ、自身の肩に添えられていた手を軽く握り返した。
「その御仁を大旦那様って呼んでるのは、何なの?」
「あ・・・珠姫様には、まだお話していませんでしたね」
思えば、彼女と過ごすようになってもう随分経つというのに、ここに来るまでの
のことを何も知らない。
彼女が盲目の芸者であるという、その変わらぬ事実以外のことを、兄妹は知らない。
恐らく天井裏に控えているであろう兄の存在を感じながらも、堕姫は彼女の過去を問うた。
「親に売られた盲目で名無しの私を、受け入れられる店が見つかるまでの間、仲介の方から暫しお預かり下さったのが、大旦那様のご一家でございます。目の見えない私でも生きることの出来る術を教えて下さり、平坂屋に芸者見習いとして推薦して下さった恩人です」
それは、決して哀しい響きは伴わない言葉だった。けれど事実としては、少々痛ましい。
この遊郭で働く女のほとんどは借金の形として売られて来た経緯を持つが、
もやはり例外では無かった様だった。加えて、親から売られた時点で名無しだったとも言う。目の見えぬ環境の中、親から満足に名前も与えられず挙句の果てには売り飛ばされたというのは、酷なことだった筈だ。
人買いの男たちの仕事は事務的で感情は無い上、基本的に遊郭で商いをするような人買いであればまず堅気の人間相手に商売はしない。遊郭で斡旋先が見つからなければ、考えたくも無い話ではあるが人間扱いもされない様な酷い場所へ売られ、
は今生きていなかった可能性もある。
そこを拾い上げ、彼女を遊女ではなく芸者見習いとして平坂屋へ送ったのが、
が大旦那様と慕うその男なのだろう。成程、悪い人間では無い様だ。
「
っていうのは・・・そこで付けられた名前?何となく、源氏名じゃないだろうとは思ってたけど」
しかし、名前の無かった彼女が今は
と名乗っているということは、その名が付けられた時期は浮世絵師に保護されていた頃ではないだろうか。
色々世話を焼いてくれた一家なのだから彼女に名前を付けるのも自然な流れであるし、
という名前はどうも芸者の源氏名とは考えにくい。
そうした理由から何気なく口にした堕姫の問いに、
の表情が瞬間遠くなった。
「・・・恐らくは」
それは思いのほか、曖昧な答えだった。
常に穏やかに微笑んでいる印象の強い
にしては、空虚な瞳がやけに際立つ。初めて目にするようなその表情を見上げ、堕姫はその手を握る力をほんの少し強めた。
「
?」
「あ・・・すみません。名前に関しては、どういった経緯で決まったのか、昔のことなので記憶が曖昧で・・・ただ、親から売られた当時名無しだったのは間違い無いので、恐らく大旦那様がお与え下さったのではないかと」
普段通りの彼女はすぐに戻ってきた。少し困ったように眉を下げてはいるが、堕姫の良く知る柔らかな笑みを携えている。幼い頃のことで記憶が曖昧だと、
がそう言うならそれが事実なのだろう。
恐らく彼女が違う名前であっても、堕姫は強引にこの芸者を買っていただろうという確信がある。どこからどう見てもこの顔は、この声は、この雰囲気は、白昼夢に見ていた彼女そのものだ。名前が違っていても間違いなくこうして囲っていただろう、けれど幸いにも彼女は今
という名で今を生きている。
彼女の名付け親にあたる浮世絵師には、感謝しなければならない。堕姫はぼんやりとそう考えた。
「亡くなられた大奥様が、平坂屋の芸者だった方だそうで・・・至らぬ点ばかりの幼い私に、本当に良くして下さりました。今の私が在るのは、大旦那様のご一家の温情あってのことです」
の話から、その浮世絵師の一家は温かい家庭だったことが窺えた。身請けされた芸者、それを娶った浮世絵師。目の見えぬ
を気にかけ、名を与え、そして妻のかつていた店へ芸者として送り出した存在。
がその男に感謝の念を覚えるのは当然の流れと言えるだろう。
けれど、その時堕姫が覚えたのは不思議な気持ちだった。妙に面白く無い、淋しさにも似た感情。
「・・・何よ」
「珠姫様?」
「別に・・・何となく、面白く無いだけ」
嫉妬と認めるのは癪なことだった。
けれど
は、そんな堕姫の胸の内を悟ったように柔らかく笑いかけてくる。
の空いている手は堕姫の額を撫で、その指先に優しく触れられる度、堕姫の中の負の感情が緩く溶けていく。敵わないなと、思わず小さく口元が緩んでしまう。
「ふふ。勿論今の私は、珠姫様の所有物です」
「・・・わかってれば良いけど」
「はい・・・珠姫様にお仕え出来る私は、幸せ者です」
それはこちらの台詞だとは、決して言わないけれど。
堕姫は柔く甘やかされるこの瞬間を噛み締めるように、そっと目を閉じた。
* * *
それは、普段の夢とは違っていた。
視界は起きている時と変わらぬ暗闇、杖も無く心細い世界。
風の吹き抜ける一室、覚えの無い匂い。
けれど、何故だろう。
昔、ここに来たことがある様な気がする。
『ああ、
殿・・・そこに、おられたのですね。』
涙を携えたようなその言葉が、はっきりと自身に向けられている。
この老いた男性の声を、
は知らない。
知らない筈の声が、こんなにも、心に深く突き刺さる。
この哀しさは、この苦しさは、何だろうか。
「・・・っ・・・!!!」
その息苦しさに、
は思わず身を起こした。
息が浅い、心臓の鼓動が妙に激しい、寝汗も酷い。音や風の温度から察するに、まだ真夜中の筈だ。夢に酷く魘されるなどここ数年経験の無かったことで、
は戸惑ったように頭を抱え込む。
心を落ち着けようと深く呼吸を繰り返し、汗を手の甲で拭ったその時。
つい数刻前に見送った筈の男の気配を、
は窓際に感じ取った。
「・・・んだよ、どうしたぁ?」
「あっ・・・すみま、せん・・・少し、おかしな、夢を」
妓夫太郎がこうして真夜中に戻って来たことにも、
は普段通りの対応で応えようとしてくる。見るからに落ち着きの無い様子にも関わらず律儀に布団から出ようとする
を、妓夫太郎は制した。
「面倒だから起き上がるなよなぁ。こんな時間に起きてる女なんざ、流石にお前くらいしかいねぇからなぁ」
比較的近くに屈み込みそう告げると、
は大人しく布団へと戻った。彼女の顔色はあまり良くないが、妓夫太郎の気配を辿りそちらに顔を向けている。
「・・・あの、どうして、また戻って来て下さったのですか?」
「何処かの誰かの、魘される声が煩くてなぁ」
「・・・そう、でしたか」
の部屋を訪れる夜も、訪れない夜も。妓夫太郎は食事を終えた後、決まってこの部屋の屋根の上で一夜を過ごしている。朝日が昇り始める少し手前の時間まで、何をするでもなく屋根の上に寝転び、彼女の眠りを見守ってしまう。事件があって以来この部屋に夜間近付く者はいないのだから、何も心配はいらないと頭ではわかっている筈が、気付けばここで一夜を過ごすことが癖の様になってしまっていた。
そんな中聞こえてきたのが、夢に魘される
の息遣いだったのだ。あまりに苦しそうなその様子に、起こしてやるべきか余計な手は出さずにいるべきかと悩んでいる内、勢い良く彼女が起き上がったことを察した。
妓夫太郎は部屋へ入らずにはいられなくなってしまった。今宵も数刻前までこの部屋を訪れ、その三味線に耳を傾けたばかりだと言うのに。
二度目の来訪に対し妓夫太郎が遣した皮肉のような回答にも、
は何ら疑問も抱かぬ様子で布団を手繰り寄せている。
何も教えないという条件が、彼女の中で妓夫太郎を超常的な存在に引き上げているのだろう。何時何処に現れても何の疑問も持たれないことは確かに好都合だけれど、
はもう少し警戒心を持っても良いのではないだろうか。
妓夫太郎がそうして小さく苦笑を浮かべたその頃、ぽつりと彼女の口が開いた。
「・・・不思議な、夢でした」
「・・・」
まさに今、魘されていた夢の話だった。
妓夫太郎が何も口を挟んでこないことを確認し、
は静かに言葉を続ける。
「見たことのない夢でした。視界は起きている時と同じ、暗闇で・・・ただ、知らないご老人の声が、聞こえて。私に、そこにいたのかと、涙に詰まった声を出されていて・・・」
彼女は見えない瞳で虚空を見上げながら、ぼんやりとそう口にする。妓夫太郎はただ黙ってその様を見守った。
は暫し間を置いた後、その手の甲を額へと当てる。記憶を手探りに彷徨うような表情は、道に迷った幼子のように心細い色に染まっていた。
「ただ、私・・・どこかで、同じことを経験しているような・・・大切なことを、忘れているような、気がして・・・」
記憶に無い筈の光景、知らない筈の相手。何か大事なことを忘れているような、曖昧な喪失感。まさに自身の経験している白昼夢と
の関係の様で、妓夫太郎は何の言葉も返せない。
しかしその沈黙を困惑と捉えたのだろう、
の表情が困ったような小さな微笑に変わる。
「すみません、こんなことを勝手に話されても、困ってしまいますね」
「・・・まったくだ。帰り辛ぇからさっさと寝てくれよなぁ」
いつぞやに体調の悪い
を夢の世界へと見送った時から、毎回ではなくとも度々このような夜がある。妓夫太郎が眠る瞬間まで傍にいると知った時の
の無防備な笑顔は、癖になってしまうので困り物だ。今この瞬間も、安堵したような
の表情を目の当たりにして思う。
勘弁してくれ。けれど、嬉しいと感じる自分もいる。
妓夫太郎は相反する自身の気持ちに戸惑うことしか出来ない。
「・・・こうして貴方に見守っていただけると、良い夢に辿り着けます」
「良いも悪いも、見分けつくのかぁ?」
「昔からよく見ている同じ夢の中では、不思議とこの目が見えているのです」
「同じ夢ぇ・・・?」
同じ夢。気になる単語に、思わず疑問符が沸いた。
けれど、それを受けた
はと言えば。暫し間を置いた後、人差し指を口元にあてて。ほんの少し悪戯な笑みを浮かべ、こう囁く。
「・・・どんな夢かは・・・秘密、です」
その表情に、どれほど妓夫太郎の鼓動が大きな音を立てたことか。その仕草にどれほど妓夫太郎が翻弄され、その拳を握り締めているのか。目の見えない
には何一つ伝わらない。見られていないことは良いものの、こちらの反応が一切伝わらないことはある意味危険かもしれず。
妓夫太郎は懸命に呼吸を落ち着かせ、自然な強がりを装い舌打ちをした。
「チッ・・・別に聞いてねぇだろうがよぉ」
「ふふ、それもそうですね・・・でも、本当に素敵な、良い夢で・・・」
不意に、
の言葉尻が弱くなってきた。人間の身には流石に遅い時間だ、魘されて起きたのだろうが、心拍が落ち着いた今はやはり眠いのだろう。
妓夫太郎は尚会話を続けたがる
を遮り、眠りを促した。
「良いから眠れ。明日は大事な席があんだろ?」
「・・・はい、とても大事な方が、いらっしゃいます・・・」
浮世絵師が明日来ることは妹の部屋の天井裏で聞いていた話題だが、それを妓夫太郎が知っていることにすら
は疑問を覚えない。
まるで全幅の信頼を寄せられているような不思議な心地に、妓夫太郎は思わず緩い溜息を吐いてしまう。
参ってしまう、けれど、嫌な気持ちではない。
の瞼がゆっくりと閉ざされ、その意識が夢の世界へと旅立つその瞬間を見守る自身の表情を、妓夫太郎は知らない。
どれほど優しい目で彼女を見つめているのか、それは彼自身もわかっていないことだ。
「大旦那様・・・鬼の、浮世絵師様、です」
妙に違和感のある単語を最後に、
はその意識を手放した。
「・・・はぁ?」
鬼の浮世絵師とは、一体何だ。
妓夫太郎の心の何処かでこの単語が引っかかるのは、自身が鬼であるせいだろうか。
けれど当の
は妓夫太郎の疑問など露知らず、穏やかな寝息を立て始めている。
「ったく・・・今度は朝まで寝てろよなぁ」
魘されて心配をかけさせたかと思えば、今度は穏やかな寝息で脱力させてくる
には参ったものだ。
思わずその寝顔に触れそうになる自身を制し、妓夫太郎は再び屋根の上へと戻ったのだった。