その声が導く



珠姫の着物はこの遊郭において最も高級品であり、その一着一着は裏地に至るまでかなりの手間と金をかけて作られる特注品である。反物屋たちは各々の店で最高級の品を持ち寄り、遊郭最上位の彼女の眼鏡にかなうような商品を提案する。珠姫の着物新調と言えば、彼らにとって年に何度かの大勝負の日と言っても過言ではないだろう。

この慌ただしい日、彼女の傍に近付くことを許されているもまた、忙しい一日を送っていた。何しろ反物屋達は、珠姫に直接目通りが許されていないのである。玄関口から店の男手によって控えの間へ運ばれてくる夥しい量の反物を次々に珠姫の元へと渡る様に手配し、彼女の気に入ったものがあればそれを男衆に伝えるのがの役割だ。
無論、杖を付きながら大きな反物一巻きを抱えて歩くようなことは出来ないけれど、今日は運搬補佐として禿たちにも手伝いを依頼している。注文の多い珠姫の意向を間違いなく伝えるため、は忙しく控えの間と珠姫の部屋を行き来していた。
反物の山が凄い速度で積み上がっていく様は、見えない目にもわかる気がして。反物屋たちからの熱意を無駄にしないためにも、とにかくしっかりと務めを果たさなくてはいけない。そうして疲れを感じつつも踵を返した、その直後。

思いもよらぬ場所に飛び出ていた反物の一巻きに、足を取られ。
よろけて直接手を着いた先が、立て掛けてあった反物の一角だと気付き、の血の気が引いた。

反物を積んだ山の片側に体重をかけてしまえば、下手をすれば雪崩が起きかねない。禿たちの気配は無いので巻き込む心配は無さそうだが、これは非常にまずい。そうして思わず口に手を当て、最悪の事態を覚悟した。
しかし、いくら待っても覚悟していた雪崩れの音はせず。おまけに、今しがた落としてしまった杖が手元に戻って来た。
禿たちの気配は確かに無い。

代わりに、別の見知った気配をすぐ近くに感じる。
彼だ。途端に覚えてしまうのは、心からの安堵の気持ちだった。

「・・・気ぃつけろよなぁ」

呆れたような小さな溜息と共に、囁くような音量ではあったが言葉までかけられた。他に誰もいないからだろうか、日中では珍しいことには新鮮な驚きを感じ、小さく頷き返す。

「・・・ありがとう、ございます」

当然それに対する返答は無く、すぐさま彼の気配は掻き消えた。
がその不思議な存在と言葉を交わした夜から、もう季節がひとつ動こうという頃だ。彼が何処の誰なのか、は何も知らない。それが最初の約束だからだ。しかし、神出鬼没に現れてはこうして度々助けてくれる彼の存在に、は思わず頬を緩めてしまう。

が行くところ何処にでも音もなく現れ、部屋には窓からやって来るような相手だ、不思議な存在には変わりない。しかし、彼が何者か、などと言うことはにとって瑣末なことだ。

「・・・?何してるの、早く」
「あっ・・・はい!ただ今!」

襖ひとつ向こうから主が呼ぶ声に、は慌てて返事を返した。


* * *



あの夜、其の人物の声を聴いた時に覚えた気持ちを、は生涯忘れはしないだろう。

途方もない懐かしさに、胸が締め付けられるような思い。涙が独りでに溢れ止まらなくなる程に、切なく狂おしい熱さ。どれも初めて言葉を交わす相手に覚えるには不可思議な感情だったが、自身の力ではどうにもならない気持ちだった。
日頃何かと助けられつつも、礼の言葉ひとつ言わせて貰えもしない程に避けられていたためか。
それとも、自身を庇ったために大怪我を負わせてしまったと気に病んでいたためか。

あの時の苦痛の叫びからは結び付かなかったものの、改めて耳にした彼の声が―――夢の中の”彼”の声と、ぴったり重なったためか。

初めて言葉を交わせたという嬉しさが、の中の何かを壊したのだろうか。そう思える程に、強い感情の波に翻弄された夜だった。
彼から最初に贈られた言葉は呆れたような色を含んでいたが、それでもどこか優しい響きがして。掴みかけたこの糸を離したくない、ようやく繋がったこの縁を断ち切りたくない、その様な強烈な思いに支配されて。気付けば、どうか自分を遠ざけないで欲しいと彼に懇願していた。彼が何者であっても構わない、余計なことは何一つ教えてくれなくても良い。それでも構わないから拒絶しないで欲しいと心の底から強く願った、あの不思議な夜を忘れはしない。

は今宵もこうして眠る支度を整え、楽器を触りながら夜を満喫する。化粧のひとつもせず、薄い着物一枚という本当に眠る前の姿ではあるが、心が弾んでしまう。

窓辺に彼の気配が生じるその瞬間を、待ち侘びているのは何故だろう。
宣言通り気が向いた時だけなのだろうが、それでも比較的頻繁に訪れてくれる彼に対し覚えるこの気持ちは何だろうか。
例え訪問の無い夜でも、何処かで彼がこの音を聞いてくれている様な気がするのは、何故だろう。
いつも彼に見守られているような気さえする、温かな気持ちの正体は、一体。
そこまで考えたところで、の手が止まった。

「・・・こんばんは、良い夜ですね」

間違える筈も無い気配を、窓際に感じる。
夜風とともに、その人が今宵も来てくれたことを悟る。知らず知らずのうちに頬が緩んでしまうが、隠すことも無いだろう。は穏やかに微笑んで訪問者を迎え入れた。

「良い夜も何も、お前見えてねぇだろうが」
「ふふ、見えなくてもわかります。夜風の優しい、良い夜です」
「・・・そうかよ」

最初の夜から時間が経ち、彼との会話も少しずつ慣れて来た様に思う。名前も知らないその人は基本的に無愛想ではあるが、の話をいつもきちんと聞いてくれる。の奏でる音に耳を傾ける夜もあれば、取り留めのない話に相槌を打ってくれる夜もある。この夜の訪問者を受け入れる時の穏やかな心地は、珠姫を膝枕で甘やかしている時に通ずるものがあって、今夜も良い夜に違いないとは小さく微笑んだ。忘れない内に、彼へと頭を下げる。

「昼間は、ありがとうございました」
「あんま世話かけさせんなよなぁ」
「すみません・・・なるべく、善処します」

ほんの小さなことから命に関わることまで、彼には世話になってばかりだ。この目に光が宿っていたなら、少しは違っていただろうか。しかし、それではこの縁自体が無かった可能性も否定し切れない。それを淋しく感じてしまう自分自身が可笑しくて、は小さく苦笑を浮かべた末に彼の気配を辿った。

「あの、今宵は何の曲を・・・」

妙な違和感に気付いたのはその時だ。
普段は窓際の壁に寄り掛かるか屈んでいる筈の気配が、今日は少し近い。

「寝ろ」
「えっ・・・?」
「良いから、寝ろって言ってんだろうが」

突然の言葉に疑問符が浮かぶ。けれどの方に少し寄った位置に屈み込んだ彼の声には、僅かな苛立ちと呆れの色が滲んでいることに気付いた。
これはもしや、悟られているだろうか。

「店の連中の目は誤魔化せても、俺は騙されてやらねぇからなぁ」

今朝からほんの少し、体調が優れない。それは珠姫を始め店の誰にも申告していないし、申告する程のことでも無いと自身が感じていたためだ。ほんの少し調子が悪い日などいくらでもある。今日は偶然にも、そこに忙しい務めが重なっただけのことだ。忙しいのは皆同じなのだから、僅かな不調など訴えられる筈も無い。

そうして珠姫にすら一日ひた隠しにしてきたことを、目の前にいる彼はあっけなく看破し、休めと告げている。は見えない目を丸くし、暫し間を空けてから頬を緩めた。何故だろう、他でもない彼に見抜いて貰えたことがとても嬉しい。

「・・・お優しいのですね」

本心だった。そもそも、見ず知らずのを度々助けてくれることからも窺えることだが、彼は優しい。不愛想な態度や悪態を装うこともあるけれど、それでもには彼の奥底の優しさがはっきりと見える様な気さえする。旧知の仲のように気安いこんな胸の内までは、とても伝えられないけれど。

「はぁぁ?・・・別に。ぶっ倒れた時の口実に、俺を利用されたら迷惑なだけだがなぁ」

少しの間を置いてそう返される。彼がふんと顔を逸らす様子が伝わってくる様で、それすら距離の縮まりを感じて嬉しく感じてしまう。
彼が折角こう言ってくれているのだ、調子が優れないのも本当のことであるし、はその言葉に甘えることにした。本当はもう少し共に時間を過ごしたい気もするけれど、あまり彼を困らせるのも宜しくは無いだろう。

「・・・では、お言葉に甘えて今宵は早めに休ませていただきます。折角お越し下さったのに、何のおもてなしも出来ず申し訳ございません。次の機会には、きっと」
「いちいち長ぇんだよ、寝ろ」

間髪入れずに帰ってくる合いの手に苦笑を零し、は布団へと横になった。けれど、何故か彼の気配が去っていかない。普段の定位置に屈み込み、動く様子が無い。寝ろと言われているのに起き上がれば今度こそ怒られてしまいそうで、は恐る恐る小さく声を上げる。

「・・・あの・・・」
「うるせぇ、黙ってろ」
「・・・」

やはりそこにいる。
一体どうしたのだろうと思いつつも、彼に黙れと言われれば従う他無い。そうして大人しく黙るの耳が、彼の浅い溜息のようなものを拾った。

「俺を騙そうなんて百年早ぇからなぁ。お前なんかの狸寝入りじゃ誤魔化されねぇぞ」

言葉は荒いが、やはり声の調子は根本の部分が優しい。小さな期待に、はもしやと彼の方へと頭を向ける。
目は見えないのに、不思議と彼と目が合ったような錯覚がした。

「・・・お前が寝たのを確認したら、出てく。見られてんのが嫌なら、さっさと寝ろよなぁ」

体調が優れぬ心細さから、もう少しだけ一緒にいられたら良いと思っていた。眠るその瞬間まで見守っていて貰えるだなんて、それ以上の褒美の様なものだ。
は胸の内に広がる温かさを噛みしめ、目を閉じる。
疲れも調子の悪さも、この安心感の中で溶けていく様だ。

「はい・・・おやすみなさい」

は彼の姿を知らない、彼が誰なのかも知らない。
けれど今この瞬間、まるで夢の中で逢う彼が目の前にいる様な安心感がある。
あんなにも甘やかに触れ合う相手に重ねているだなんて、本人に知られたら怒られてしまうので言える筈も無いけれど。
は幸せそうな息をついて、緩やかな眠りへと誘われていった。








微睡の中で、ふと身を捩る。
細いけれど、頼もしい腕に抱かれて眠っている様だった。
が目を覚ましたことに気付いたのか、妓夫太郎もまた薄く目を開ける。寝ぼけ眼で辺りを見渡し、欠伸を噛み殺しながら不思議そうにこちらを見下ろしている。

『・・・まだ、朝には早くねぇかぁ?』

ああ、やはり。

『・・・妓夫太郎くんの声が、聞きたくなったの』
『なんだそれ』

声が、とてもよく似ている。
ぼんやりとした意識の中、そう感じる。
寝ても覚めても幸せに包まれているような心地に、は頬を緩めて再び目を閉じた。当然の様に額に降ってきた口付けから、確かな深い愛を感じた。




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