再び繋がる縁



妓夫太郎が部屋の窓に手をかけたその瞬間、控えめな筝の音がぴたりと止んだ。
気配を読めるというのは、確かなのだろう。の顔がこちらに向けられている。目は合わずとも、彼女は確実に妓夫太郎の位置を捕捉している様だった。
見られている、穴があくのではないかと思うほどに、盲目の瞳に捉われている。妓夫太郎は何とも言えないような困り顔で窓枠を乗り越え、屋内へと入った。そのまま壁へと寄り掛かるようにして腕を組む。これが限界だ、そう自分に言い聞かせた。

あれから更に半月、陽光をこの身に浴びてからゆうに一月。
想像を絶する苦痛と損壊は凄まじく妓夫太郎を消耗させたが、何とか元の通りに回復した。
妹の願いを叶えるため、そしての気落ちの原因を取り去るため。
今夜彼は覚悟を決めて、ここまでやってきた。

「あっ・・・あの・・・!!」

来た。明確に自身のみへと向けられたの言葉に、妓夫太郎は身体を硬くする。
夜はこの部屋に近付く人間はいない。妹が店に厳しく言いつけてある為だ。ついでに言うならば妹本人も現れない、今夜は上客の相手をしている。今夜決して邪魔は入らないという事実が、逆に妓夫太郎の緊張感を高める。高鳴る鼓動を抑えようと、妓夫太郎は懸命に眉間の皺を深めた。

目的はふたつ。
ひとつ、に自身の気配を察知させ、無事であることを伝える。
ふたつ、彼女がずっと気にしていたであろう、礼の言葉を口にさせる。
言葉を交わす必要はない、ただ礼の言葉を受け入れる、それが大事なのだ。そしてひとつは叶ったのだから残りはひとつ。それが叶えば足早に帰る、それだけだ。

「お怪我は・・・あの時のお怪我の具合は、いかがですか・・・?」

しかし現実はそう甘くはなく、は想定外の言葉を口にした。そう来るかと妓夫太郎は内心で頭を抱えてしまう。
は筝を脇へと押しやり、懸命に気配を探りこちらを見ている。その表情は疑う余地もなく、心配の色一色に染まっていた。

「あれからもう一月です・・・私を庇ったせいで、大怪我をされたのではないかと・・・本当に、申し訳なく思っていて・・・」

僅かに声を震わせ、が眉を下げながらそう口にする。
そんな顔をさせるつもりは無かったというのに。今夜ここへ来た、何も言わずともそれが無事の証明になると信じていた。
しかしが今望むのは妓夫太郎本人の言葉だ。逃げられるものなら今すぐ逃げてしまいたいが、それではここまで来た意味が無い。
それに、何よりも。このように必死なを目の前にしては、足が縫い止められたかのように一歩も動かない。

「あの・・・貴方様が私を遠ざけていらっしゃるのは、承知しているのですが・・・どうか、何かお言葉を・・・聞かせては、いただけませんか・・・?」

は眉を切なく寄せて、懇願するようにそう告げる。そんな顔で見るな、そんな声を出すなと、妓夫太郎は否応無しに高鳴る鼓動にきつく下唇を噛み締める。

やはり来るのでは無かった、と直接向き合えば正常な感覚でいられなくなることくらいは、わかっていた筈では無かったのか。
話したいが話したくない。触れたいが触れたくない。この一線を越えてしまえば、確実に何かが変わってしまう、その確信がある。
血管の脈打つ音が煩い、何もかも投げ出せたならどんなに楽か知れない。
妓夫太郎が拳を強く締めた、その時。

「やはり・・・私の様な者のせいで酷い怪我を負われて・・・怒っていらっしゃいますか?」
「・・・んな訳あるか、ばぁか」

心に秘めるべきその声が、漏れてしまった。
しまったと目を見張るがもう遅い。
は呆然とした顔でこちらを見ていた。その見えない筈の目で妓夫太郎の方を見つめ、何度か瞬きをした後。

見る見る内にその瞳に涙が溜まる様を、妓夫太郎は信じられないような思いで見つめることとなった。

突然何かの栓が壊れたかのように、は大粒の涙を流している。
訳の分からない動揺の波に、妓夫太郎はすっかり足を取られてしまった。

「おい・・何だってんだよぉ」
「・・・っ・・・すみ、すみません・・・」

自身でも制御の利かない涙に咽ぶ、その痛ましい姿が妓夫太郎に刺さる。
理由はわからない、けれど。

「は、初めてお声を・・・っ聞いたのに・・・何故か、胸が痛くてっ・・・急に、涙が・・・止まらなくて・・・」

の涙が、こんなにも美しいだなんて。
もう一瞬たりとも、目が離せない。
彼女は話したことの無い妓夫太郎の声を聞き、胸が痛いと言う。
涙を止めようと懸命に目を擦るの姿に、激しい動揺と狂おしい気持ちが込み上げる。
ああ、駄目だ。

「・・・おい、勘弁しろよなぁ」

時刻は夜も遅い。
すっかり敷かれていた寝具から掛け布団を引っ掛け、妓夫太郎はの顔にそれを押し付ける。突然のことには驚いていたようだったが、この手ではまともに人間の涙など拭ける筈が無い。まして、鋭い爪でその脆い目元に触れられる筈もない。
掛け布団を壁のようにして、妓夫太郎はの正面に屈み込んだ。彼女は顔の上半分を布団から出しているのでこちらには丸見えだが、それくらいなら許容範囲だろう。

「良く聞き分けろよなぁ。俺はお前に、極力近寄らねぇことを決めてる」
「・・・」

会話ひとつ、涙ひとつでこんなことになるとは思いたくなかったが、仕方が無い。
悲しませたくない、泣かせたくない、抗えぬこの気持ちがある限りは、この場はこれ以外に出来る事が無いのだ。突然のことに困惑するを傷付けぬ様、妓夫太郎は懸命に言葉を選び言い聞かせる。
頼むからその涙を止めてくれと、再度布団を彼女の顔へと軽く押し付けた。
妹の言う様に、自身を人間と偽り堂々と傍にいることは、どう考えても無理がある。ならば、ある種の賭けだがこうする以外に方法が無い。

「近寄りたくねぇとは言ってねぇぞ。ただ、俺とお前とは距離を取る必要がある。理由は色々あるが、それをお前に話す訳には・・・」
「・・・構いません」

何故だろう。
自分の考えを彼女が汲んでくれた様な錯覚に、妓夫太郎は小さく息を呑んだ。
は未だ涙に鼻を啜っていたが、押し付けられた掛け布団を抱き締めるようにしてこちらを見ている。
その瞳の真剣さに射抜かれ、妓夫太郎は何も言えなくなってしまった。

「言えないこと、聞かせられないことは、何も話していただかなくて結構です」

都合の悪いことは知らせなくて良い、言えないことなら言わなくて構わない。そうして妓夫太郎に都合の良い条件を肯定し、は続ける。
再度小さく震えるような素振りに、またひとつ彼女の目から涙が零れ落ちた。

「ですから、お願いです・・・どうか、私を遠ざけないで下さいませ」

今度こそ心臓を鷲掴みにされたような感覚に、妓夫太郎は目を見開いた。

今、は何と言っただろう。
何も知らせず、何も言わずとも構わない、都合の悪いことは全て黙っていても良い。
それら全てを呑む見返りとして、遠ざけないで欲しい、と。

「危ないところを度々助けていただいて、先日は命まで救っていただき、心から感謝しております・・・いただいてばかりの身だと、承知しております。ただ・・・」

綺麗な涙が、ぽろぽろとの瞳から零れ落ちていく。
自身に遠ざけられることを恐れ、彼女は泣いている。

「ただ、貴方様に遠ざけられると・・・酷く、悲しくて・・・」

信じられない程、妓夫太郎にとって都合の良い展開だ。
けれど同時に、信じられない程に―――心が、満たされていく。
妓夫太郎はこの時、自身の敗北を悟った。
もう無理だ、蓋をして見て見ぬ振りの出来る段階など、とうに過ぎてしまった。目の前で泣いている人間が、眩しく思えて仕方が無い。彼女が誰かもろくに知らず、これまでろくに話したことも無かった間柄だと言うのに。
それでも、不思議と強く思ってしまう。

―――ようやく、会えた、と。

途方も無い喜びに似た気持ちを押し殺し、妓夫太郎は小さく溜息を吐く。
の目が見えていなくて本当に良かった。こんな表情は、見せられたものではない。

「・・・余計なことは、何ひとつ教えねぇからなぁ」
「はい・・・」
「俺の名前も、何処のどいつなのかも、教えてやらねぇぞ」
「はい・・・ですが、ひとつだけ・・・」
「あぁ?」

彼女の望んだただひとつ、それは。

「お怪我は、もう大丈夫なのでしょうか・・・」

それはとても、彼女らしい質問だった。
心から心配そうなその表情を正面から受け止めて思う。
何故だろう、こんなことが以前にもあった様な気がする。

「・・・何ともねぇ」
「そう、ですか・・・良かった・・・」

安堵したような笑顔も、何もかも。度々体験する白昼夢と被るのか、はっきりとはわからない。懐かしさに似た感情は、まるで覚えの無いものだ。戸惑うように妓夫太郎はに布団を押し付け、立ち上がった。
途端にの表情が不安に歪んだが、恩人の気配は部屋から消えていない。元いた窓側の壁へと座り込み、妓夫太郎は胡坐の上で肘を着く。

「・・・何か、適当に弾いてろよなぁ」

瞬間、は何を言われたのか理解できないような顔をした。それが妙に可笑しくて、妓夫太郎は小さく笑いそうになってしまう。

「どうした、ここの花魁に買われた芸者だろ?」
「・・・っ・・・ここに、いて下さるのですか?」

頼むから、そんな縋るような顔をしてこちらを見ないで欲しい。
堪らなくなる気持ちをひた隠し、妓夫太郎は眉を潜めた。

「・・・気が向いた夜はなぁ」

不安から緊張へ、緊張から期待へ。
そして期待が花開き、の笑顔が生まれる。
その瞬間が、何か酷く尊い光景の様に思えて仕方が無い。

「っ・・・ありがとうございます・・・嬉しい、です」

涙の痕もろくに拭かず、それでも彼女の笑顔は愛らしい。
照れ臭いような、胸の奥が苦しくなるような、それでいて温かいこの気持ちは何だろうか。

「・・・うるせぇ、いい加減涙の痕くらい拭けよなぁ」
「あっ・・・すみません・・・あの、何かお好きな楽器は・・・」
「・・・三味線」

無愛想に呟いたその回答に、が柔らかく笑う。
涙はもう止まった様だった。

「・・・良かった、一番得意な楽器です」

知っている。
今度こそ口にはせずに、妓夫太郎は口の端を小さく上げた。



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