芸者の憂鬱



三味線の音が途絶えてから、どれほど間が空いただろう。
普段なら演奏後は必ず一礼をして締めるが、ぼんやりと虚空を見つめている。心ここにあらず、しかし曲自体は普段通りに演奏しきるあたりが彼女らしい。
このままにしておいても構わないけれど、長引けば長引くほどは余計に自己嫌悪に陥ることになるだろう。



堕姫の声は、特別苛立ったものではなかった。
しかし、我に返ったは一拍の間を置いた後素早く顔色を変える。

「・・・っ申し訳ございません、珠姫様!」

最早三味線を手放すこともせずに深々と頭を下げる彼女は、どう見ても普段通りとは言えない。
否、ここ数日と言った方が良いだろうか。確かにここまで顕著になったのは、今日が初めてだけれど。
怒ってはいないことを知らしめるように堕姫はの方へと近付いた。傍に腰を下ろし顔を上げさせ、彼女の手から三味線を抜き取る。

「どうしたのよ、調子悪いんじゃないの?」
「いいえ、その様なことは・・・」
「嘘。アタシを誤魔化そうなんて百年早いわ」

堕姫がの顎を軽く掴み、顔を近付ける。芳しい香りに彼女は僅かに赤面し、二三度の口の開閉を繰り返したかと思えば、小さく俯いてしまった。これには堕姫も小さく溜息をついて頬を膨らませてしまう。
しかし、考えようによっては話を聞きだす良い機会かもしれない。お気に入りの所有物がこの様に元気を無くしている様は、堕姫としてもあまり面白く無い。

「この前の騒ぎで、平坂屋に行けなかったこと?」
「いいえ、あれはもう大騒動でしたから。大旦那様へのご挨拶は、またの機会でお願いをするつもりです」

が外出先で暴れ馬の騒動に巻き込まれた日から、半月が経過していた。
あの日は件の馬が落ち着くまでに様々な方面に影響が出る大騒動となり、結局平坂屋での宴会も無くなり、もまた汚れた着物のまま奥田屋へとんぼ返りすることとなった。
世話になったという相手にも、また別の機会で話せる場を設けたいとは希望していた。それは堕姫としても構わないけれど、いっそ奥田屋で引き合わせる方が安心というものかもしれず。
それはともかくとして、これは気落ちの原因では無いと言う。

「じゃあ馬に轢かれかけたこと?まさかアンタどこか痛めてるんじゃ・・・あの屑、やっぱり叩き出してやる!」
「そんな、滅相も無いことです・・・!私はこの通り、怪我などしてはおりません・・・!」

肝心な所でを置き去りにした介添えの男が未だに奥田屋で働けているのは、の必死の嘆願があってこそだ。店のための営業で席を外した男に責任は無く、結果も怪我はしなかったのだからそれで十分だと。そのため首の皮一枚繋げてやったのだ、万一にもがどこか痛めているのなら今度こそ容赦はしない。そうして憤りそうになる主人を必死で宥め、は今度こそ不安そうに肩を落とすこととなった。

そうだ、は怪我などしていない。それよりも。

「・・・私よりも、あの方の方が・・・」

悲痛な叫びが、今でも鮮明に耳に残っている。
そうして言葉を途切れさせるを前にして、堕姫の口角が小さく上がる。

今も自身の中で回復に努める兄が、ぎくりと肩を揺らした気配がした。

「はー・・・成程ね」
「た、珠姫様・・・?」

これは今、この場で話を聞く必要がある。
この場で、話を聞かせる必要がある。

「ふふっ。命令よ、アンタ今思ってること全て、今ここで洗いざらい吐きなさい」
「・・・珠姫、様」
「言っとくけど、適当なこと言って誤魔化そうなんて思わないことよ。アンタのことはお見通しなんだから」

二人とも逃がさないと言わんばかりに、堕姫は楽しげに目を細めた。



* * *



「・・・どんな方かは存じ上げません。ただ、危ないところを度々助けていただいている方で・・・恐らくは、あの夜も。同じ方だと思います、いつもすぐ立ち去られてしまうから、余計に意識するようにしていたので・・・私、あの方の気配は、恐らく間違えません」 

考え得る限り、最悪の状況だ。妓夫太郎は妹の策略に陥落してしまった現実にきつく目を閉じる。
よりによって逃げ場の無いこの状況で、の本音を聞かされる羽目になろうとは。
彼女に気配を感知され始めていたことは察していたものの、今の話を聞く限り最早最初からばれていた様なものではないか。
状況はかなり厳しい。
は見えていないからこの様に赤裸々に語れるのだ、妹は今酷くニヤニヤと笑っている。

「お礼を言わせてもいただけない方なので、あまり私とは関わりたくないのだろうとは・・・わかっては、いるのですが・・・。先日は間違いなく、この命を救っていただきました。今度こそ、お礼を伝えたいと思っています」

こちらに話しかけようとしては失敗し気落ちする彼女の姿を見てはいたが、改めて本人の口から聞くと酷く罪悪感に駆られてしまう自分がいる。

とは、直接関わるべきではない。そう言いつつも何かと気にかけ手を出してしまうのは妓夫太郎の方だが、この一線は譲ることは出来ない。のためにも、そうするべきなのだから。
そうして必死に自身の考えを正当化しようとする妓夫太郎の胸中など、彼女は知る由も無く。
の見えてはいない目が伏せられ、その眉が辛そうに下がる。妓夫太郎は再び、酷い自己嫌悪に苛まれた。

「ただ、あの日以来気配が感じられなくて・・・最後にお会いしたあの時、私を庇ってどこか怪我をされたようなお声もしたので、心配で・・・」

が気落ちしている原因は、紛れも無く妓夫太郎の身を案じているが故だ。
ろくに言葉も交わさず、彼女のことを露骨に拒絶し続けたような自分を、それでもは案じてくれている。
妹の身を通してそれを正面から突きつけられ、妓夫太郎は堪らなくなってしまう。

「どこかで、ご無事でいらっしゃると良いのですが・・・気になってしまって・・・」

今の妓夫太郎の状態が“無事”かと言えば、そうとも言えず。陽光に焼かれた痕は何とか回復には向かっているが、その速度は非常に遅い。
毎夜人間を食らっているため除々に体力自体は回復しつつあるが、それでも以前の様に妹と分離して単独で動くには未だ不十分だ。
出来ることなら気配だけでも察知させ、ひとまず無事であることを知らしめてやりたい気もするが、それにも時間はかかるだろう。
の話はそこで一区切りついた様だったが、これはお手上げな状況だ。

「・・・ふーん、成程ねぇ。そう、そうなんだ」

そこで妹が意味有りげに相槌をうつのを、頼むから勘弁してくれという思いで妓夫太郎は聞く羽目になった。
その様な言い方をすれば、とて彼女が何かを知っているのではと思うに決まっている。

「あの、珠姫様は何か、ご存知では」
「さあ、どうかしらね?」
「珠姫様・・・」
「そんな可愛い顔したってだぁめ。ふふ。でも、そうねぇ・・・」

この状況を完全に面白がっているであろう妹は、一体何を言うつもりなのか。気が気ではない妓夫太郎だったが、今の状態では成す術が無い。
堕姫は思い切っての方へと顔を近付けた。急に近くなった白梅香にが顔を赤らめる。

「相手は、殿方なのよね?」
「えっ?・・・はい、恐らくは」

全てを知っていながら、今更何を言っているのか。
妓夫太郎が疑念を抱くと同時に、妹は不意に彼女から視線を逸らす。

「だったら、アタシは余計なこと言いたくないわ」
「・・・はい?」

話の流れが変わった。
妓夫太郎とは、時を同じくして同じような反応をすることとなる。
意外な返答にが見えない目を瞬く。それを見た堕姫は、少し拗ねたような表情で彼女の頬を指先で突くのだった。

「だって、アタシのを攫って行くかもしれない殿方よ。敵に塩を送るようなこと、したくないもの」

アタシの
所有物であると何度も言われていたにも関わらず、彼女がこの主からそう呼ばれたことは今日が初めてのことで。更には、何処にもやりたくないと、そう言っている様に伝わったのだろう。
の心の内に、小さな温かさが宿る。気落ちしていた彼女の表情が、少し色を変えた。

「・・・私は、いつまでも珠姫様だけの物です」
「あら、可愛いこと言ってくれるじゃない」
「本心です・・・珠姫様には敵いませんね」

話の矛先は、すっかり妓夫太郎から逸れた。
そのことに彼は暫し呆然とし、次の瞬間苦笑を浮かべることとなった。散々気恥ずかしい思いもさせられたが、最終的には妹に救われることになるとは。
けれど、根本的に解決はしていない。逃げの一手を続けてきたが、限界が近い。
すっかり主の術中にはまり赤面をしているを見て、妓夫太郎は困ったような溜息を吐いた。


* * *




妓夫太郎がのことを大事に思えばこそ、あえて接触を避けていることは堕姫も知るところだった。しかし彼女は兄の存在を気配で把握しているのだから、礼の一言くらいは受け入れてやって欲しい。あの淋しそうな背中を見て、そう思わない様ではの主とは呼べないだろう。堕姫はそう考えていた。

それに加え、は今妓夫太郎の安否が気掛かりで酷く気落ちしている。今日は強引に話を逸らし表情を明るくすることも出来たが、結局のところ解決には至らない。兄の気持ちは知ってはいるが、そこを何とか柔軟に対応出来ないものだろうか。

「ねえお兄ちゃん」
「・・・気が進まねぇんだよなぁ」
「まだ何も言ってないのに」

深夜の貯蔵庫で、兄の横にぴたりとくっついて座る。食事を終えたあと、会話にならないやりとりに堕姫が頬を膨らませた。そしてふと気付く。

「え?待って。気が進まないって言った?断るとかじゃなくて?」
「・・・」

恐らく妓夫太郎は、堕姫が言わんとしたことをわかっている。わかっていて、否ではなく気が進まないと答えた。つまり、ようやく願いが叶うということだ。
堕姫は瞳を輝かせて兄の腕に絡みついた。

「アタシ、お兄ちゃんのそういう優しいところ大好きよ」

何だかんだと言いつつも、こうして願いを叶えてくれる。優しい兄が好きだ。

「・・・回復したら、気配読ませて、言いてぇことを言わせてやるだけだ。俺はあいつに近寄らねぇし、余計に絡んだりはしねぇからなぁ」
「それでもきっと大喜びよ、あの子の部屋は夜絶対誰も近寄れないから安心してね」
「・・・」

眉間に皺を寄せ、困ったように目を伏せている。そんな兄を至近距離から見上げ、堕姫は幸せな吐息と共に暫し目を閉じる。ふわふわとした感覚に、意識がまた落ちていくのを感じた。








ひぐらしの鳴き声が、夏の夕暮れ時を告げている。
風通しの良い場所で、梅は文机に伏せるようにして眠りについていた。
意識はあるのに、身体が動かない。そういう時もある、今日はこうした見方なのかとどこかでぼんやりと考える自分がいた。
ふわりと、薄手の上掛けが優しく背中へと掛けられる。
時を同じくして、引き戸が開く音がした。

『あらあら、梅ちゃん寝ちゃったのね・・・すみません、連れて帰ります』

の声だった。買い物の帰りに立ち寄ってくれたのだろうか。連れて帰るという言葉は、梅に対して掛けられた台詞では無い。上掛けを掛けたであろう近くに佇む人物が、少し言い淀む気配がした。

『あの、良ければもう少しこのままで。とても良く寝ているので、起こすのも忍びないと思っていたところなんです』

優しい声だった。柔らかな男性の声。

『梅殿、今日は普段以上に頑張っておられました。沢山考えて、沢山筆を使って、疲れたんだと思います。妓夫太郎殿のお帰りまでには、私が責任を持ってお送りしますので』
『・・・そうですか。では、お言葉に甘えますね。よろしくお願いします』
『はい、お任せください』

そうしてはすんなりと男の希望を受け入れ、一足先に家へと戻る。引戸が閉まると、文机の向かい側に男が掛ける気配がした。

『・・・本当に、今日はよく頑張りましたね、梅殿。花丸です。ですから今はこのまま、もう少しだけ。ゆっくりお休みなさい』

泣きたくなるほどに優しい手に、そっと頭を撫でられている。ああ、なんて温かい。兄ともとも違うその感触に、今ひとときだけでも酔いしれた。



 Top