鬼の始祖



もう何をしても無駄だ。
妓夫太郎は耐え切れぬ痛みに歯を食い縛りながら、この絶対的な存在に裁かれるその時を待たねばならなかった。

鬼の始祖、鬼舞辻無惨。彼を前にして鬼は思考を隠せず、何も許されることは無く、ただただ彼の言うように事が進むことを受け入れる以外の術を持たない。
ほんの一瞬の陽光で皮膚が焼け爛れる痛みは想像を絶するものだったが、こうなってしまった以上はそれより上の、死に至る苦しみも覚悟しなければならない。自分はこのまま塵となるか握り潰されるかのどちらかしか無い。妓夫太郎はそうして全てを諦めたように平伏し続けた。

「私はお前に期待をしていたが、見込み違いだった様だ」

失望。無惨の声は、まさにその一色に染まったものだった。
彼は妓夫太郎を鬼として高く評価していた。この世を呪う怨嗟の鬼は残虐性に秀で、無惨が撲滅を願う鬼殺隊の人間たちを数多く葬ってきた。
妹の数多の欠点を補って尚余りあるその有能さを買って、これまで評価も期待もしてきたのだ。

今日、彼が陽光の下に自ら飛び出すまでは。

「人間を一匹、気まぐれに飼っていることは見逃してやっていたが、まさか上弦の鬼が陽光の下に自ら飛び出すような愚行を犯すとはな」

無惨は自身の目を疑った。まさか上弦の鬼として気に入っていた配下が、たかが人間一匹のために命を危険に晒すなど考えたことも無かった。

一瞬の陽光に顔を晒してしまったために、妓夫太郎は今も想像を絶する激痛に苦しみながら平伏の姿勢を貫いている。無惨は妓夫太郎の髪を掴みその頭を強引に引っ張り上げた。顔面の皮膚が焼け爛れ、苦悶の表情を浮かべながらも、妓夫太郎は一切の釈明もせずただされるがままだ。無惨はその赤い瞳を細め、妓夫太郎の頭を解放した。

「愚かにも程がある。たかが人間一匹のために命を張るような真似など、到底看過できぬ」

再び頭を下げ這い蹲る妓夫太郎を見下ろし、無惨は冷酷に言い放った。鬼として愚かとしか言い様が無い、見過ごしてはおけない。

しかし無惨にとって妓夫太郎は、あっけなく捨てるには惜しい駒だった。

「命乞いの算段があるなら申してみよ、私を納得させることが出来るならそれもまた一興だ」

下弦の鬼以下であったなら違ったかもしれなかった。一切の発言を許さず、一方的に葬って終わりだっただろう。無惨の側から釈明を許す、これは特例中の特例と言えた。

「・・・何も、御座いません」

しかし、妓夫太郎はそれを辞した。
彼はとうに自身の命を諦めていた。命乞いも、弁解も、意味を成すものとは考えていなかった。無惨の機嫌を損ねた、これが唯一にして全てだ。始祖たる無惨の前では何の抵抗も意味を持たない。

一人のために陽光の下に身を晒したことは、無惨の言う通り鬼として愚かな行為だ。頭ではわかっていても身体が勝手に動いたのだ。自分ではどうにも出来ない心の奥底が、を見殺しにすることを全力で拒絶した。理性とは違う部分が働いてしまったのだから、弁明のしようがない。
けれど、もし一言残すことを許されるならば。
妓夫太郎は固く目を瞑り、平伏したままの姿勢で拳を強く握り締めた。

「ただ、妹だけは・・・どうか、生かしてやってはいただけませんでしょうか・・・出来ましたら、あの人間を妹の傍に置くこともお許しいただけましたらなら・・・それ以上望むことは、何も御座いません」

妹を道連れにはしたくない。そして、今回の出来事の引き金となったのこともまた、死なせたくはない。自身が葬られれば妹は悲しむだろう。けれど、少なくとも今はが傍にいる。彼女が傍にいてさえくれれば、妹はきっと立ち直れる。その一心で妓夫太郎は頭を床に擦り付けた。

無惨は配下の頭の中を探ったが、その言葉に一切の偽りがないことを知るなり、余計に幻滅したかのような溜息を吐いた。

「・・・理解に苦しむ」

その刹那、琵琶の音が鳴る。

同時に、何も無かった場所に一体の人間が転がり落ちてきた。気を失っている様だが、それは人間の女だった。一瞬ではないかと妓夫太郎は身を硬くしたが、恐る恐る観察するとそうではないことが窺えた。年の頃はそう変わりなく、雰囲気も少し似た女だった。しかし、ではない。
一体何故このような人間を召還したのか。

「その女を、今すぐ食い殺して見せよ」

頭上から降ってきた命令に、妓夫太郎は顔を上げた。
無惨の赤い瞳が、厳しくこちらを射抜いている。

「お前が未だ上弦の鬼として機能するか、証明して見せろと言っている」

無惨がひとつ指を鳴らしたことで、女の意識が戻った様だった。もぞもぞと顔を上げ、見知らぬ奇怪な場所に連れてこられたことに怯えている。未だ背後の妓夫太郎には気付いていない。

妓夫太郎は理解した。今、自分はこの始祖たる鬼に試されているのだ。

「・・・御意」

その鋭い爪が、女の方へと振り上げられた。



* * *




どれほどの時間が過ぎただろうか。

最初の女を食らい尽くしてすぐさま次の人間を用意され、妓夫太郎は考えることを放棄した。無惨が妓夫太郎を試すべく無限城に召還した人間の数は、十体を超えていた。
老若男女、ほんの子供に至るまでその試練は続き、無惨は妓夫太郎の一挙一動を細やかに観察した。人間を襲うことへの戸惑いや躊躇いの色は無いか、獲物が女子供でも容赦無く殺害が出来るか。ほんの一瞬でも異変を見逃すまいと無惨の赤い瞳は妓夫太郎を監視し続けたが、結果としてそれは杞憂に終わった。
白骨の山が築かれるまでに行われた殺戮の数々は、どれも実に残忍で容赦の無いものだった。まったく、見事なものである。

「成程。手出しが出来ぬのはその人間一匹という話に間違いは無い様だ」

十体以上の人間を食っても尚、その焼け爛れた表皮は治癒の兆しも見えなかったが、妓夫太郎は人間の血を浴びるような有様で再度無惨へと平伏している。
ただ一人のみを例外として、妓夫太郎は人間を食うことに一切の迷いが無い、その残虐性に衰えも無い。それが今証明された。逆に今、その例外を排除した際に彼が駒として正常に機能するか。そちらの方が気掛かりですらある。

「到底理解は出来ぬが、まあ良いだろう。その人間一匹に限り、お前と妹で飼うことを許す」

無惨のその言葉を、妓夫太郎は信じ難い思いで聞いた。

許された。を傍に置くことを、鬼の始祖たる無惨直々に許されたのだ。心の内に湧き上がるのは安堵、そして喜びだ。
思わず顔を上げたその瞬間、妓夫太郎は間近でこちらを厳しく射抜く赤い瞳と対峙することとなった。その形容し難い威圧感に、痛みも忘れて思わず喉が鳴る。

「だが、その人間の命が尽きた時・・・私が血を分けその者を鬼にしてやるなどとは、考えぬことだ」

を飼うことは許す。けれど、人間である彼女の命が尽きた時までは保障しない。これは、いずれ朽ち果てる下等な人間を囲うという愚行に対する、期限付きの措置だ。
無惨の奇形に歪んだ巨大な手が、妓夫太郎の頭を鷲掴みにした。爛れた皮膚にその鋭い爪が食い込み、痛みは絶叫すら上がらぬ域まで上り詰める。悶絶とも呼べる顔で白目を剥く妓夫太郎を冷淡に見下ろし、無惨はその手を放した。

「今回はお前の今後の働きを期待し特別に許す。しかしこれはその者の命尽きるまでの特例だ。努々、忘れるな」

解放された妓夫太郎は顔を押さえ溜らぬ様子で蹲っている。
しかしこれほどの痛みを伴って尚、気を失わぬ様は見事なものだ。無惨は嘲笑とも愉快とも言える笑みを象り、妓夫太郎を見下ろした。本来ならこの様な愚か者は迷わず処分するところだが、この男は今殺すにはあまりに惜しい。

「陽光に焼かれた傷はそう簡単には治らぬ。自身の愚行を悔いて過ごすことだ」

人間を問題なく食い殺せるなら良し、鬼殺隊員を今後も葬り続けるなら尚良し。たかが人間一匹、飼育を許可することでこの逸材を駒として維持し続けられるなら、安い物だ。利用できる物は全て利用する、例えちっぽけな人間一匹であっても。

「兄妹愛に、女か・・・人間らしいことだ。お前は鬼として逸材だが、その点は実に残念だ」

その言葉を最後に、無惨の気配が掻き消える。
琵琶の音と共に、妓夫太郎の身体は無限城から妹の元へと転送されたのだった。


* * *



突如、崩れ落ちるように姿を見せた兄に堕姫は大層動揺した様だったが、尋常ではないその損傷具合にすぐさま一体となることを提案した。妹の体内に戻るのは久しかったが、あの有様では自力の回復も難しく、彼は大人しくその提案を呑んだ。

一体の身体に二つの意識を共有し、彼は体験した出来事をありのまま話して聞かせた。
が暴れ馬に轢かれそうになったこと、それを救った影響で瞬間陽の光に炙られたこと、そしてそれを始祖たる無惨に知られ異空間へ召還されたこと。結果として、を飼うことを許されたこと。
堕姫は介添えの男の無能さに青筋を立てるやら、兄の損傷の理由を知り顔を青ざめるやら忙しかったが、無惨にの存在を許された下りでは恍惚に目を細めていた。

無惨直々にを認められたことは、兄妹にとって大変に大きい。彼女に鬼であることを隠すことに変わりはないが、心持が随分と違う。
彼の気分次第では、妓夫太郎の手での処刑を言い渡される可能性も十分にあったことだろう。始祖たる無惨の命令に背くことは出来はしないが、果たして妓夫太郎がその後正気を保てていたかはわかりはしない。

どちらにせよ今日のところは許されたが、陽光の下に自ら飛び出るなど、恐らく二度目は許されない失態だ。を日中外に出すならばしっかりとした対策が必要だった。今後は一層用心しなくてはならないと、兄妹は誓いを新たにした。
陽光から受けた損壊具合は想像を絶するものだ、暫くは妓夫太郎も妹の体内で回復に努めなくてはならない。を守る役目はその間、堕姫に一任されることとなる。安心して任せてちょうだいと微笑む妹の言葉に、妓夫太郎は目を閉じた。

「珠姫花魁、さんが戻りました」
「!!・・・早く通しな、二人だけにして他の奴らは下がるんだよ!」
「はっ・・・はい!!」

慌しく人が駆ける音、少しの静寂、そして。

「・・・珠姫様、ただ今戻りました」

騒動のせいだろう、着物を若干汚したが決まり悪そうな顔で帰還した。
彼女の無事な姿を確かに確認し、張り詰めていた緊張の糸が切れる。
妓夫太郎はようやく、とうに限界を超えた疲労感に意識を手放したのだった。








手早く消毒が施され、清潔な新しい包帯が顔に巻かれていく。なるべく痛みを与えないよう配慮されたその優しい感覚に、妓夫太郎は目を開けた。
思った通り、が心配そうな顔をしてこちらを覗きこんでいる。

『・・・大丈夫?』

そっと額を撫でられ、その温かな感覚に思わず目を閉じる。
に触れられた箇所からじんわりと伝わる熱で、痛みが溶かされていく様だ。

『・・・ああ、平気だ』
『うそ』

そんなに心配そうな顔を、しないで欲しい。
笑って欲しい、妓夫太郎の好きな柔らかな笑みを、いつでも浮かべていて欲しい。

『早く、良くなりますように』

が身を乗り出した。傷に障らぬよう、遠慮がちに包帯ごしに頬へと優しく口付けられる。
それだけで十分だと、妓夫太郎は目を細めて笑った。

『お前が傍にいりゃあ、すぐに良くなる』
『もう、うそばっかり』
『嘘じゃねぇって・・・』

堪らず、その手を引いて抱き寄せる。
大人しく腕の中へ収まった彼女は、柔らかく温かい。いつまでもこうしていたいと、妓夫太郎は願った。




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