命に替えても



に気配を察知されている。
妓夫太郎は新たな頭痛の種に悩まされていた。
本人にはわからない様心掛けていたつもりだったのだが、何度か危なっかしい場面を手助けした際、確かに彼女が気になる挙動をしていた時もあった。見えない目なりに辺りを見回し、何かを探している、そんな素振りだった。けれどその度に妓夫太郎は素早く姿を消し、露骨にを拒絶してきたのだ。

彼女を気にしていることは認める、危なっかしい時には無意識に助けてしまうことも認める。けれど、そこまでだ。妓夫太郎はに対し、堕姫の様な距離感では接せられない。露骨な拒絶は、それを固く誓っていたための対抗策だった。に直接声をかけられたりした日には、どんな思いをするかわからない。
けれどそれは、あの月夜の晩に危うく崩れかけた。
すっかり夜半の頃には起き出した。彼女が窓辺に手をかけ、夜風を感じている様を屋根の上から感じていた。
その時だ。



『・・・そこに、いますか?』



心臓を、鷲掴みにされたような心地がした。

は妓夫太郎の位置までは把握していない様ではあったが、確かにそう口にしたのだ。その後すぐ、諦めたように布団へ戻ってくれたことは幸いだった。
心臓が痛い程に高鳴った。が、妓夫太郎の気配自体を察知しようとしている。彼女は目が見えないからと侮っていた甘い認識を呪い、妓夫太郎は歯を食い縛ったのだった。
だからと言って、彼女にもう近付かないという選択肢を取れないところが痛手な点だ。どうしたって妓夫太郎はを気にしてしまうし、彼女が危なければどうしたって手が出てしまう。

「・・・っあ・・・」

よって、これは不可抗力だったと思いたい。
奥田屋の店内で、の杖が段差を捉え損ねたのだ。このままでは段差を踏み外す、階段の終点は何段も先だ。周りには誰もいない、それなら取る手はひとつしか無かった。
の腕を掴み、その落下を防ぐこと以外に、方法は無かったのだ。
遂に彼女の腕に触れてしまったこと、また、にしてみれば初めてその身に触れられたこと。これまでに無かった接触に、は目に見えて動揺し、同時に覚悟を決めたような顔をして妓夫太郎の方を振り返った。
盲目の彼女と目が合うことは無い。けれどは懸命に気配を読むように、妓夫太郎の方を向いている。

「・・・」

しかし妓夫太郎は、が口を開くその前に姿を消してしまった。
の方も、間に合わなかったことを悟ったのだろう。
気落ちした様な彼女の背中を、離れた場所から妓夫太郎は見守った。うっかり掴んでしまったの腕を傷付けなくて良かった、そして、あまりに細く脆い腕だったと。その手に残る感触を噛み締めるように、目を閉じたのだった。



* * *



「お兄ちゃん、アタシ思うんだけど」

妹と直接顔を合わせたのは久々のことだった。
人間を食い、その腹を満たし貯蔵庫を出ようとした時のことだ。
すれ違い様に兄を引きとめ、堕姫は突然こう口にした。

「表立って仲良く出来ないならそれでも良いわ。けどせめて、少しくらい優しくしてあげたら?」
「あぁ・・・?」
「お礼の一言も言わせてくれないって、あの子多分傷ついてる」

一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。
まるで何もかもを知っているような口ぶりでは無かっただろうか。
妓夫太郎は眉間に皺を寄せ、美しい妹を睨みつける。

「・・・お前」
「嫌だ、何も気付いてないって思ってた?アタシだって何回か、あの子の危ない場面見てるわよ」
「はぁ?だったらお前・・・!」
「だけどアタシが動く頃にはぜーんぶ終わってるんだもの」

だったら何故助けないと声を荒げようとした妓夫太郎を、堕姫はあっさりと切り捨てた。
そう、知っていた。が何かと危ない目に逢いそうになっている事を知っていた。
けれどその度に、見事としか言いようの無い速度で事態は収束するのだ。妓夫太郎はの危機を察知する速度も速ければ、行動も格別に速い。堕姫は何もしなかったのではなく、単に出る幕が無かったということだ。

「あの子のこと助けに入るとき、自分がどんな顔してるか。お兄ちゃんに鏡で見せてあげたいくらい」

事実だった。堕姫の目から見て、兄は見たことも無いような顔をしての元へ駆けつける。
焦ったような、危なっかしい彼女に呆れたような。それでいて、無事救えた時には優しい顔をするのだ。

堕姫としては、兄の新たな一面を褒め称えるような気持ちで口にした言葉だった。
けれど妓夫太郎にしてみれば、妹から馬鹿にされた様に思えて仕方が無い。これまでの葛藤を全て冒涜された様な気になり、急速に頭へと血が昇る。

「ふざけんなよなぁ!お前の所有物だろうが、責任取って自分で何とかしろよなぁ!俺はもう何も手ぇ出さねぇぞ!」
「・・・本気じゃないわよね?」

しかし、妹のやけに冷静な返答を受けては黙り込むしか無い。
血液が沸くような怒りは成りを潜め、代わりにどうしようも無い悔しさにも似た感情が顔を出す。

彼女に何があっても何も手を出さないだなんて、出来る筈が無い。
本能としか呼べない、自分では制御出来ない、を放ってはおけない。
そんな思いに戸惑っているのは、他でも無い自分自身だ。
妓夫太郎は眉を潜め、堕姫から目を逸らした。

「・・・ねえ、お兄ちゃん」

何もそれほど、負けを認めたような顔をしなくても良いだろうに。堕姫は努めて優しい口調を心がけ、兄の手を握った。
それほど難しいことでも無い筈なのだ、ほんの少し戒めを緩めて欲しい、それだけだ。

「アタシからも本当にお願いよ。あの子を助けてくれるのはアタシも助かるけど、一言お礼くらい言わせてあげて。そんなに力いっぱい拒絶しないであげて」

妓夫太郎はその懇願に対し、何とも言えない顔で眉を潜めるばかりだった。



* * *



「それでは珠姫様、行ってまいります」

が奥田屋に移ってから初めて、外出を願い出た。
行き先は元いた平坂屋だ。店に昔から馴染みの客が来るという話を耳にしたは、大変世話になった御仁のため、一度きちんと珠姫に買い取られたことを報告するとともに挨拶がしたいのだと、自ら今の主に深く頭を下げた。

堕姫としてはあまり面白くない話だったが、我儘など一度も口にしたことの無いからのたっての願いだ。渋々承諾し、当日の今日を迎えたのだった。
噂の客とやらは老体らしく、昼の内に平坂屋へ現れ夕刻には帰宅するのだと言う。それに合わせ明るい時刻に出発するを、堕姫は部屋の中から見送ることにした。

「早く帰って来なさいよ。・・・それからアンタ、に何かあった時は容赦しないからね」
「は、はいっ・・・!!」
「珠姫様、大丈夫です。すぐに戻りますので」

介添を務めるのは、店の若い男だった。悪さをするような男には見えないが、先日の一件があるため奥田屋の人間は信頼に値しない。序列の上では頂点に君臨する珠姫からの威圧を受け、男は早くも腰を抜かしそうであったが、が上手に間に入り取り成した。

「お手数をおかけしますが、平坂屋までよろしくお願い申し上げます」
「承知しました、必ず」

そうしては男に連れられ部屋を後にした。
ここから先、堕姫は彼女が店に戻るまで何も出来ない。
癪に触ること、この上無い。

「お兄ちゃん・・・お願いできる?」
「おい・・・昼間だぞ」
「でも・・・アイツ信用出来ないわ」

忌々しげに堕姫が眉を顰めるのを認め、次の瞬間には兄の気配は天井裏から消えていた。流石だ。堕姫はの早い帰還を願った。



* * *



人遣いが荒いにも程があるのではないだろうか。妓夫太郎はそう悪態をつきながらも、外套を頭から纏い暗がり沿いを進む。遊郭は入り組んだ路地が多い。日中でも陽光の射さぬ道はいくらでもあった。外見を隠すための外套は邪魔臭かったが、騒ぎを起こさず尾行するにはこれしか手段が無い。なるべく人気の無い闇の中から、妓夫太郎はを見遣る。

介添の男は恐らくこうした世話は初めてなのだろう、歩調が合わず二人して額に薄く汗をかいている様子が伺え、妓夫太郎は眉間に皺を寄せた。あれでは何も無い場所でを転ばせかねない。奥田屋はとことん碌な男手が無いのではないか。そうして妓夫太郎が目の端を吊り上げ苛々と腕を組んだその時、一人の初老の男がたちに声をかけた。

「ちょっとあんた、奥田屋の人?」
「はい?」

男は奥田屋の紋入りの服を着ていた、そこで特定されたのだろう。初老の男は大袈裟に手を叩き笑い、介添の男に手招きをした。

「丁度良かった。今そこの茶屋で今夜の宴の話し合いをしてんだ、人数が多いんでね、大型の座敷を予約させてくれよ」
「あっ・・・申し訳ない、今はちょっと・・・」

店側としては大型の予約は有難い話だが、今は間が悪い。介添の男は、のことを気遣い眉を下げる。しかし、その反応を見るなり初老の男は露骨に態度を変えた。

「はぁ?こっちは客だろうが・・・あっそう、それなら違う店に行くよ」
「えっ・・・?」

不機嫌そうに背を向けられ、介添の男は困ってしまった様だった。今の彼の務めはの介添役だが、店の人間としてはあまりこの手の客を逃したくも怒らせたくもない。瞬間悩んだ末、男はを申し訳なさそうに見遣った。

さんすみません、少しだけこちらでお待ちいただけますか?」
「勿論です。まだ時間はありますから、ご心配なく」
「ありがとうございます・・・すぐ、戻りますから!」

そうしてを茶屋の軒先に立たせ、男が店へ入っていく様を、妓夫太郎は信じ難いことの様に見送った。

一体何を考えているのか。たかが一団体の売上よりも、店で一番の花魁から任された介添を最優先すべきではないのか。しかも杖しか頼りの無いを、こんな場所に立たせたままだ。頭痛のする様な有様に妓夫太郎は思わず舌打ちをしたが、まさか自分がこの場面で助け舟を出す訳にもいかず、更には彼女のいる場所は陽光を遮るものが少ない。仕方無し、日向と日陰の境目付近まで前進して彼女を見守ることにした。

は突然この様な場所で一人置き去りにされたにも関わらず、嫌な顔ひとつせずその場に佇んでいる。目の見えぬ状態でその様なことをされれば、不安がるか憤ってもまるで不思議ではない筈だ。お人好しが過ぎるのか、呑気なのか。妓夫太郎は怪訝な顔での顔を見つめた。

「・・・」

改めて、彼女の顔を見つめていると痛感する。あの『』と姿形が似ていると最初に感じたが、もはや瓜二つと言って良い程に彼女と白昼夢の女は同じ顔をしていた。
加えて、恐らくはその性分もそう違いが無い。あちらの世界で触れ合うはいつも笑顔だ。穏やかであったり、嬉しそうであったり、その種類は様々であるが基本的には常に微笑んでいる印象が強い。それは今目の前にいる芸者の彼女にも同じことが言えた。彼女の浮かべる穏やかな笑顔は否応無しに、白昼夢の中の優しい記憶と被ってしまう。

一体、あの白昼夢は何なのだろうか。兄妹揃って同じ女を見ていることも、更には鬼の身でその様な体験をしている事自体が異質と言える。記憶に無い筈の女を、理由も無く大切な存在へと昇華させるに至る白昼夢。そしてその頃合いで本人を見つけてしまった奇跡。妹はそれを運命と呼んでいるが、本当のところは何がそうさせているのだろう。頭に流れ込むあの映像は何だ、とは誰で、目の前の瓜二つの彼女とどう関わりがあるのだろう。そして何故、こんなにも彼女に惹かれてしまうのか。

そこで妓夫太郎はふと我に帰る。辺りが妙に騒がしい。

「何だ・・・?」
「随分騒がしいな」

街行く人間たちも明らかな違和感に騒つき始めた。当然の耳も騒ぎを拾い、その表情を曇らせている。介添の男は未だ店から出てこない。嫌な予感に妓夫太郎が眉間の皺を深めた、その時だった。
辺りに響き渡る蹄の音、馬の鳴き声。

「暴れ馬だ!!!」

誰のものともわからぬ大きな声が木霊する。大きな荷台を引いた馬が、御者もつけず大きく前脚を掲げこちらへ駆けてくる様に、妓夫太郎は目を見開いた。
馬の進路上にいる人間たちは当然我先にと逃げるだろう。しかし、目の不自由なにはそれが叶わない。

「っ・・・!!!」

は陽光の真下にいる。妓夫太郎は飛び出しては行けない。けれどこのままでは、は間違い無く馬と荷台に轢かれてしまう。息が浅くなる。どうすれば。








脳裏に再び、断片的な映像が流れ込む。
長屋の前にうつぶせに倒れる女。
酷い暴行を受けたであろうその遺体を抱き締め、泣き叫ぶ声は、誰から発せられたものだろうか。




『何でだ・・・。何もかも取り立てるために、俺に幸せを与えたのか・・・』




前回の比では無い、頭が割れそうになる程の痛み。
妓夫太郎の魂が叫ぶ。駄目だ。彼女は失えない。例え、何を代償にしたとしても。








妓夫太郎は外套を深く被り、陽光の下へと駆け出した。馬より速くの元へ駆け付け、彼女の身を抱えその場を飛び退く。馬を避けるように暗がりへと戻ろうとしたその瞬間。
妓夫太郎の頭を覆う外套が、風に靡く。
首から上が、ほんの一瞬陽光に晒される。

「っぐ・・・あああああ!!!」

業火の炎に焼き尽くされるような激痛に、堪らず叫び声が上がる。その悲痛な声に、の肩が跳ねた。








けれど次の瞬間、は一人きりで日陰に座り込んでいた。
一体何が起きたのかと言うのか。
既に暴れ馬の件で大騒ぎとなった街中でひとり、高鳴る鼓動を抑えつけながら懸命に考える。
ただ、あの人の気配がしたということ。今度は間違い無く命を救われたということ。一瞬の間に、彼の気配が掻き消えたこと。
茶屋の方から、慌てた様子でを呼ぶ声が聞こえる。介添の男だ。は必死で気持ちを落ち着け、杖も無くした状態だったが壁伝いに起き上がった。
抱き抱えて救ってくれた彼の悲痛な叫びが、耳に酷く残る。怪我をしたのだろうか、何があったのだろうか。はただ、彼の無事だけを祈った。



* * *



琵琶の音が一度聞こえたかと思えば、妓夫太郎は異空間へと投げ出されていた。上下左右がまるで無秩序なその場所を、妓夫太郎は知っている。
激痛に藻掻き苦しみながらも、彼は遥か高みから自身を見下ろす冷たい視線に、心臓を握り潰されんばかりの圧を感じ這いつくばった。
嗚呼、駄目だ。

「上弦の鬼が、陽光の下に自ら飛び出すとは―――これは一体、どういう事だ?」

妓夫太郎は、自身の命運が尽きたことを悟った。



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