魂が惹かれ合う
麗らかな春の昼下がりのことだ。
着物の袖口をそっと引かれ、妓夫太郎がを振り返る。
『どしたぁ?』
『しぃー』
彼女は指先を口元にあて、声を潜めるように微笑んでいた。
何か良いものを見つけたのだろうか、嬉しそうな顔をして妓夫太郎を見上げている。
導かれるまま縁側へと移動すると、目当てのものはすぐ見つかった。
『・・・妓夫太郎くん、見て見て』
温かな陽の光を全身で楽しむかのように大の字になって、梅が昼寝をしていた。何処から潜り込んだのか、二匹の猫と寄り添うように眠りについている。
舞い踊る桜の花びらが妹と猫たちの眠る日向を程よく彩っており、とても平和な光景だった。
が妓夫太郎に見せたかったのはこれなのだろう。
『ふふ、可愛いねぇ』
梅を見守るの横顔は、いつも慈しみや愛情に満ちていて穏やかだ。
妓夫太郎のとても好きなその横顔に、ひとひらの桜が舞い降りてきた。彼女の黒髪に着地し、それは青い簪の傍で存在を主張している。は気付いていない。妓夫太郎はそっとその髪に手を伸ばした。
悪いけれど、何であれそこに触れる権利は譲れない。
『・・・そうだなぁ』
花びらをそっと取り去り、その滑らかな頬に触れる。
梅が可愛いという発言への同意だった筈が、その手つきがあまりに優しいことから、対象が摩り替わっていることは流石のも気付いたのだろう。
僅かに頬を赤くして、しかし嬉しそうに笑ってこちらを見上げるの瞳は、幸福と期待の色に染められている。
まずはそっと彼女の瞼に口付け、くすぐったそうに身を捩ったところをしっかりと掴まえ、戯れのようにその柔らかな唇を食んだ。
暖かな春の陽の光に包まれ、愛おしい存在をこの腕に抱きしめておける今この瞬間。
妓夫太郎が感じていたのは、紛れも無く幸福そのものだった。
三味線の音が、妓夫太郎を現実へと引き戻した。
他の芸者の奏でる音は耳障りでしかないものが、不思議とこんなにも心地良い。妹の部屋の天井裏に寝転びながら、妓夫太郎は
の三味線に耳を傾ける。
主である妹が好きだという曲を、こうして求められるままに演奏するのが彼女の務めだ。今日も今日とて上機嫌に目を閉じて聞き入る妹の姿を天井の隙間から見遣り、妓夫太郎は
の方へと視線を移す。
あれから少し日が経ち、彼女は突然の恐怖に見舞われた夜から立ち直ろうとしていた。
珠姫からの厳命により
の寝室の周りは即日空き部屋とされ、男女問わず夜間に彼女を訪ねることは固く禁じられた。
そうまでして自身を守ろうとする主の心遣いを強く感じたのだろう、
も努めて普段通りに振舞っているし、実際に妹と接する時の彼女の柔らかな表情に嘘は無いように思える。
少しずつでも元気を取り戻してくれれば良い―――しかし、いつの間にかその様なことを考えている自分自身に、妓夫太郎は度々はっとさせられる。
折角妹と身体を分離して感覚の共有を絶てたというのに、結局のところ気付けば
を見守れる位置に身を落ち着かせてしまう自分がいる。気にし過ぎなのだと強く目を閉じる。即座に先ほどの白昼夢が思い起こされ、妓夫太郎は頭を抱えた。
柔らかな温もりも、彼女の唇の感触も何もかも、現実ではないにも関わらず鮮烈に脳裏に焼き付いて仕方が無い。それだけでも戸惑うというのに、今は
本人がこうして目の前に存在しているのだ。白昼夢の中でのみ甘く触れ合っていた存在が、妹の専属芸者として近くで生きている現実。
何故こんなことになってしまったのか、一体自分はどうしてしまったと言うのか。
自身の心の内で、日毎
の占める割合が大きくなっていくのを感じる。これは宜しくないとわかっている筈なのに、身体は自由でも彼女の元を離れることが出来ない。
「ありがと。もう良いわ、こっち来て」
「はい、珠姫様」
演奏を止めさせ今度は膝枕を所望する妹は、彼女の主として権力を最大限に活用して甘えきっている。
天井を向いて満足そうに寝転がる妹と、不意に目が合ったような気がした。
「アンタの膝枕、柔らかくてとっても気持ち良い。アタシが独り占めするのが、ちょっと悪く思えちゃうくらい」
幸せそうに笑い、妹はそう呟く。
「ふふ、そうですか?嬉しいです」
柔らかな
の声が、耳に優しく沁みて仕方が無い。
妓夫太郎は深く溜息を吐いた。
* * *
突然、足元の段差に躓くような感覚に息を呑んだ。
けれどその身は軽々と受け止められ、覚悟していた痛みや衝撃は訪れない。目を開けなくてもわかる、妓夫太郎が助けてくれたのだ。
『・・・っと。気を付けろよなぁ』
苦笑する彼の青い瞳と目が合い、もまた困ったような笑みを返す。
妓夫太郎の腕は細いがしっかりしていて、とても頼もしい。危うく転びそうになったところを助けられたのだ。優しい彼には感謝してばかりだ。
『ごめんなさい、ありがとう』
『良いけどなぁ、怪我はよくねぇぞ。俺と違って、綺麗な身体してるんだからなぁ』
『ふふ、何それ』
思わず小さく笑って聞き返してしまう。すると、乱暴でない程度の力で髪を撫で回されてしまった。その末、彼の両手に頬を包まれる。
『俺が困るんだよ、ばぁか』
妓夫太郎の青い瞳が、やけに真剣なものだから。思わず、笑みが引っ込んでしまう。
『に何かあったら、どうすりゃあ良いんだよ。怪我ひとつでもなぁ、俺が困るんだ。それくらいはわかれよなぁ』
最後の方は彼もまた照れ臭くなったのか、目を逸らされてしまった。けれど、は嬉しく思う。
愛されている。この優しい彼に、自分は心の底から愛されている。それが痛いほどに伝わってきたからだ。
堪らなくなって、の方から妓夫太郎に抱き着いた。温かくて優しい彼のことが、大好きだ。
『いつも守ってくれて・・・ありがとう』
こんなにも優しい人がいつも守ってくれているだなんて、自分は世界一の幸せ者だ。
がそうして感謝の言葉を口にすると、応えるかのように彼の腕が背中へと回された。
『当たり前だろうが・・・それが、俺の役目なんだからよぉ』
「・・・」
は目を覚ました。未だ夜明けは遠く、夜半の匂いがする。
相変わらず夢で度々逢瀬を重ねているような気分だが、今しがたの夢の内容には心当たりがあった。
最近、ふとした瞬間に誰かに助けて貰っている気がするのだ。
例えばそれは、大きめの箏を誤って倒しそうになってしまった時。大きな音も壊れる音もせず、何事も無かったかのようにその楽器がそっと横にされていたり。
はたまた、かなり柄の悪そうな客の前を通らざるを得なくなった時。明らかに声がかかった様な気がしても、それ以上の追求がぴたりと止んだりする。
誰かが自分を陰ながら見守り、助けてくれている。そしてそれは、珠姫ではない誰かだ。
最早気がするどころの話ではなく確信にも似た思いだったが、
はそれを口に出せずにいた。
その人物は
のことを助けはしても、決して
に声をかけては来ない。瞬間何かしらの手を貸しても、次の瞬間にはすぐさまその場を立ち去ってしまう。
せめて、感謝の気持ちを一言でも伝えられればと思ってはいるのだけれど。相手からの明確な拒絶の意思を感じ、
は何度助けられても声をかけることが出来ずにいた。
彼女は目が見えない代わり、ある程度は気配で人の判別が出来る。一度では難しくとも、何度か接すれば相手の匂いや気配を覚えることが出来た。
今声をかけられずに悩んでいる相手が、あの夜自分を助けてくれた存在と同一人物であることは、ほぼ間違いない。あの夜も窓から出入りをしていた様だし、音も無く現れ音も無く去るだなんて、まるで忍の様だけれど。
は未だ月夜が続いていることは承知の上で身を起こし、窓際へと立った。手探りで縁へと手を着き、あの夜ここから助けに入ってくれた相手のことを思う。感謝の言葉すらまともに言わせてはくれない、しかし度々助けてくれる存在だ。
夢の中の“彼“の様に、助けられた時は素直に礼くらい言わせてくれれば良いのに。
「・・・そこに、いますか?」
ポツリと呟いた言葉に、夜風の吹く音以外の返答が返ってくる筈も無い。当たり前だ、ここは最上階なのだ。あの人の気配がした様な気がするだなんてどうかしていると
は小さく苦笑を零し、再度床へと就くべく身を翻した。
「・・・」
屋根の上でその相手が息を呑んでいることなど、気付く由も無かった。