男は鬼を怒らせた



に襲い掛かった男の拘束は容易かった。
妓夫太郎は即座に男を彼女から引き剥がし、凄まじい勢いで顔面を殴りつけた。そのまま殺すこともまた容易かったが、の部屋を血の海にする訳にもいかない。一撃で気を失った男を肩に担ぎ、手早く撤退しようとしたその瞬間。

彼女の方に視線を投げたことを、妓夫太郎は深く後悔した。
は布団の上で着物の前を強く押さえ、身を硬くしている。思えば、堕姫を介さず直接と向き合ったのはこれが初めてのことで。
突然の恐怖に怯えるその表情が、若干乱れた着物の下から覗く細い足が。彼女の何もかもが、妓夫太郎の目に強烈に焼き付いて離れない。喉の奥がひりつく、心臓の鼓動が酷く煩い。
一刻も早くここを離れなければ。その一心でまずは扉を内からしっかり閉め、妓夫太郎は窓から勢い良く飛び去ったのだった。



* * *



そして今、貯蔵庫の穴で男は猿轡を噛まされ磔にされている。
気を失っている間に見知らぬ場所へ運び込まれこの有様だ、加えて異形の者が二人もこちらを射殺すように厳しい目を向けてくる。理解が追いつかない状況に男は呼吸もままならない様子だったが、知ったことではない。分離していた堕姫は、妓夫太郎の合図を聞き即座に駆けつけた。

「・・・どういう事?」
「どうもこうもあるか」

苛立たしい顔を隠そうともしない堕姫に対し、身動きの取れない男は震え上がるしかない。まるで無力な男の頭を、妓夫太郎は遠慮の欠片も無く片手で強く掴んだ。恐怖に目を見開く男を正面から睨みつけ、低い声でこう告げる。

「目の見えねぇあいつを、一方的に犯そうとしたんだよなぁ?ご主人様の名を語れば、簡単だと思ったんだよなぁ?そうなんだろ?おい」
「・・・・・・はぁ?」

たっぷりと間を置いた後、堕姫の米神がびきりと音を立てた。

目の前の男は、自分の名前を利用し、を犯そうとした。奥田屋の新顔の下働き、堕姫にとっては何の価値も無い塵屑以下の家畜。そのような屑が、よりにもよってを犯そうとしただなんて、到底許してはおけない。
その美しい顔を憤怒の色に染め、堕姫が男の傍へと一歩近付いた。心得ているように手を放した兄に代わり、その男の耳を引きちぎってやろうと手を伸ばし。

しかし、彼女は寸前で考えを改めた。

「・・・今すぐ八つ裂きにしてやりたいところだけど、今日は止めておくわ」

これには妓夫太郎が怪訝な顔をしたが、堕姫は何てことは無いかのように微笑んでいる。
八つ裂きにはしない。その言葉に多少安堵したような男の耳元で、甘い声色で彼女はこう告げる。

「お兄ちゃんに任せた方が、アタシなんかよりもーっと酷い殺し方をしてくれるだろうから」

安堵から一転して男の顔が絶望に染まる。その様を満足気に眺め、堕姫は男に背を向けた。そのまま本当に去ろうとしている妹を、妓夫太郎は小さな舌打ちと共に引き止める。
は堕姫の所有物では無かったのか。自分の物を勝手に害され、果たして黙っていられるような女だったか。それ故わざわざ呼び出したものを、全て兄に任せると本気で言っているのだろうか。

「おい、お前・・・」
「アタシ感謝してるのよ、お兄ちゃん」

けれど、堕姫はほんの気まぐれで兄に制裁を譲った訳ではなかった。
を軽んじている訳でも、男を許した訳でもない。

「アタシと分かれた後、あの子を守ろうとしてくれてたのよね?助けてくれたのよね?もう笑ったりしないわ、お兄ちゃんの考え方は大体わかったから」

と触れ合う甘やかな感覚の共有に耐え切れず、音を上げただけだと思っていた。
彼女の前には姿は晒せない、例え見えない目であっても。そう言っていた兄が、人知れず様子を伺いを守ろうとしてくれていた。
やはり兄もまた自分と同じくを気にしており、堕姫が考えていたよりも彼女を大事に思っているのだろう。それゆえ慎重になっていた兄の心境が少し理解できたようで、堕姫は素直に嬉しく思う。

「さ、まずは可哀想なあの子を慰めてから・・・旦那さん達に、家畜の躾について色々指導してあげなくちゃねぇ」

後半に明確な悪意を滲ませた言葉を残し、堕姫は音も無くその場から姿を消した。
残された妓夫太郎はと言えば、妙に満足気な顔をしていた妹の去り際が可笑しくて笑うしか無い。
まったく、あの美しい妹はわかった様な口を叩いてくれる。考え方は大体わかっただなんて、どこまで信用できるものかわからないけれど。
色々考えた末に、あの妹はこの場を自分に譲ったのだ。

「ヒヒっ・・・こりゃあ奥田屋の連中は、暫く安眠出来ねぇだろうなぁ」

他人事のように軽く笑い、妓夫太郎は男の猿轡を解き放り投げた。恐怖に歪む男の目を見据え、これから起こることが楽しみで仕方が無いといった調子でその口角をニヤリと上げる。

「同じ“妓夫”のよしみで、右か左かどっちが良いか選ばせてやるよ。さあ、どっちだ?」

猿轡を外した今、いくら力任せに殴った影響で頬が腫れていようとも、男は声を出せる状況の筈だった。しかし、度重なる恐怖心が彼の声帯を凍らせたようで、一切言葉は出てこない。
妓夫太郎の表情が、途端に不機嫌そうに歪んだ。

「チッ、答えねぇのかよ・・・折角の親切を台無しにされるとよぉ、気分が悪いよなぁ?」
「がっ・・・!!!!あ、あああああああ!!!!」

まずは右手首。人間の脆いそれを、妓夫太郎は糸もあっさりと粉砕した。途端に響いた絶叫に、声出せるんじゃねぇかと余計に眼光を鋭くする。

「まぁ、どっちにしろ右も左も・・・手も足も何もかも潰すけどなぁ」

胸糞悪い出来事が未だ頭に焼き付いている。
あの下卑た笑みで、を犯すつもりでいたのだろう。目の見えない彼女を、妹の名を使って拘束し、好きにいたぶるつもりだったのだろう。

反吐が出る。まるであの平和な白昼夢の中を土足で踏み荒らされたような気分ですらある。
恐怖に怯えるの表情を思い出す、それだけで溢れんばかりの怒りが込み上げるのを感じる。何故こんなにもこの男を憎く思うのか、何故こんなにもを害されたことを許せないと感じるのか。
そこに答えを出すことは今の妓夫太郎には難しかったが、それでも今は成すべきことがある。

「あァ、けど失敗したなぁ・・・最初に目から行けば良かったよなぁ」

そうだ、最初に目を潰せば良かったのだ。失敗した。

「暗闇の中でいたぶられる感覚を、お前だって味わってみてぇ筈だもんなぁ?」

だが、今からでも遅くは無い筈だ。

「覚悟しろよ、テメェは絶対に・・・楽には殺してやらねぇからなァ」

本能が告げる、決して許しはしないと。
男が生涯最後に目にしたものは、狂気と怒りに歪む鬼の顔だった。



* * *



新入りの男が、を襲った。未遂で済んだが、彼女は酷く怯え傷ついている。珠姫自ら語ったその衝撃の事実に、奥田屋の店主及び従業員たちは一斉に顔を青くした。

ここ二月の間非常に機嫌の良かった珠姫が久々に見せた怒の表情は、その場にいた誰もの心臓を凍りつかせるほどの威圧感を放っていた。店主や教育を担当していた従業員達は一様に額を床に擦り付けひたすら詫び、今後二度とこのような事を起こさないことを誓った。

問題の男がどうなったのか、今何処にいるのか。それは誰もが一度は思い浮かべ、そして誰もが口にすることを諦めた事だった。珠姫本人がこう言っているのだ、裁きは既に下されているに違いない。これ以上この花魁の機嫌を損ねる訳にはいかない、新顔は最悪生きてはいないかもしれないが、それでも知らぬ存ぜぬを通すしか無い。

店主はに直接詫びさせて欲しいと懇願したが、珠姫はそれを許さなかった。彼女の心の傷を抉ることは決して許さない。これより先の前でこのことを口にした者は誰であれ容赦はしないと言い放った。
ところで、二度と繰り返さないという誓いを違えた時は、わかっているだろうね、と。
珠姫はまさしく鬼の形相で店主を屈服させたのだった。



* * *



「珠姫、様」
「なぁによ。ようやく諦める気になった?」

突然の出来事に動揺して眠れなくなっていたを、堕姫は自室へと引き入れていた。
気丈に振舞ってはいるが、今回ばかりは未遂とはいえ彼女が傷ついたことは疑いようが無い。幸い既に夜の狩は済ませた後だ、そうでなくとも今夜はの傍にいるべきだろう。堕姫はそうして一晩中に寄り添うように過ごした。

しかし、やはり人間は眠らなければ生きていけない生物だ。
この部屋にいてはわかりはしないが、外は朝日が昇り始める頃。ようやく眠気にうつらうつらとし始めたは、堕姫のとある提案に何とか抵抗しようと必死だった。

「やはりいけません、珠姫様のお召し物が・・・」
「下らないこと言ってると怒るわよ、大人しく言う事を聞きなさい」

普段はがしていることへのお返しに、堕姫の膝を枕に寝かされようとしているのだ。気持ちは大変に有難いけれど、主にこのようなことをさせる訳にはいかず。は眠気と理性の間で懸命に抗い続けていた。根から真面目な彼女らしいと言えば彼女らしい。
けれど堕姫としては、滅多に無い機会を取り上げられる様で面白く無い。

「折角このアタシが寝かせてあげるって言ってるのよ、こんな時くらい甘えなさいよ、強情なんだから」

ぶつぶつとそう呟きながら、普段彼女がしてくれる様に頭を撫でる。
の様に上手くはいかないかもしれないが、極力優しく、極力柔らかく。
そうしていると、少しずつ膝の上のの力が抜けていくのを感じるのだった。

「今日はもう何もしなくて良い。とにかく、少しでも眠りな」
「です、が・・・」
「アタシの命令が聞けないっていうの?」

盲目のにはわからないことだけれど。
言葉は刺々しくとも、堕姫の表情は今とても柔らかい。
自身の膝の上で今、眠りに落ちようとしているが愛しくて仕方が無い。

「珠姫様・・・ありがとう、ございます」

抗えぬ眠りの海へ、あと一歩。

「助けて下さった方、にも・・・お礼、を・・・」

その一言を最後に、は深い眠りへと落ちていった。
彼女が愛らしい寝息を立て始めたことを確認し、堕姫はそっと囁く。

「・・・聞いてた?」
「・・・あぁ」

返事はすぐ傍から聞こえてきた。
律儀に仕切りの屏風の向こう側にいる兄は、の寝顔すら直接見ようとはしないのだろう。
こんなに愛らしいものを直接愛でずしてどうするのか。けれど堕姫は今夜、兄が自分とは違う形でを大事にしていることを知ったばかりだ。
あの白昼夢が影響しているせいか、兄がを大事に思ってくれることが無性に嬉しい。
やはり自分たちは出逢うべくして出逢ったのだと、運命のようなものを感じてしまう。

たとえ、が人間であっても。

「良かったわね。誰かに助けられたこと、ちゃんとわかってる」
「わからねぇで良いんだよ、馬鹿が」

素直でない返事ですら、どこか愛を感じるのは何故だろう。

「・・・どんな夢、見てるのかしらね」

自分たちが見る白昼夢と同じように、彼女の夢の世界にも自分達がいれば良い。
堕姫は心の底からそう願った。


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