屋根の上の用心棒



が奥田屋へ移ってから早二月が過ぎた。
当初こそ珠姫による陰惨な専属芸者虐めが心配されていたものだが、その様なことは一切無い。むしろが来てからというものの珠姫の機嫌は頗る良く、店主を始め奥田屋の従業員たちは胸を撫で下ろし、皆がに感謝した程だった。
彼女の機嫌の良さは、日々に好きに甘やかして貰えることに直結していた。

「疲れたぁ!、ここ」
「はい、ただ今」

今日も今日とて、催促をすれば即座に自分専用の膝枕が準備される。加えて、頼まずとも頭を優しく撫でてもくれる程に至れり尽くせりだ。この二月で珠姫はすっかりに心を許していたし、もそれは同じ様なことが言えた。

の瞳は、珠姫がどんな美女かを映すことは叶わない。しかし、夢に時折出てくる梅ちゃんと呼んでいる少女に、この美しい主が似ている気がしたのだ。そんなことは失礼に当たるのでとても言えないけれど、一度断りを入れてから許された甘やかしは継続するようにしている。膝枕は基本、疲れている様であれば頭を撫で、機嫌が良ければ彼女の好きな唄を口ずさみ、逆に機嫌が悪ければ肩をそっとさすることにしている。
弱者を虐げる権化の如く酷い言われ様の珠姫であるが、実際に二月接した印象は随分違う。確かに素直でない時もあるが、心を許した相手には優しいことも言えるし、言動や態度がとても愛らしい女性だ。はすっかり奥田屋での生活と、珠姫という主のことが好きになっていた。

しかし、ここでひとつ問題が浮上する。
との触れ合いにより珠姫、つまり堕姫の機嫌が良くなることと反比例するかの様に、妓夫太郎の調子は落ちていく一方だったのだ。
今この瞬間も、膝枕に頭を撫でられご満悦な堕姫の体内で、妓夫太郎は必死に感覚を遮断しようと神経を擦り減らしている。の細い指先が優しくその頭を撫でる度、が若干身を捩りその柔らかな膝枕が僅かに動く度。血が出るまで唇を噛み締めてしまう程に妓夫太郎が疲弊していることを、誰も知らない。

限界だ。彼はひとつ心を決めた。



* * *



「俺は暫く、お前と距離を置くからなぁ」
「はぁ?」

奥田屋の地下深くに、帯に取り込んだ人間を貯蔵している空間がある。深夜に食事を終えるなり、兄が口にした言葉に堕姫は首を傾げた。彼女は暫く間を空けたのち、耐えられなかったように勢い良く噴き出し大笑いをする。

「・・・ふふふっ!あははは!!お兄ちゃん、意地張らなければ楽なのに。あー、おっかしい」
「あぁ?何だと?」

これには妓夫太郎が眉間の皺を深くして凄んだが、堕姫にはまるで効果が無い。兄が暫く身体を分離して過ごしたいという、その理由が手に取るようにわかっている為だ。

「お兄ちゃんの意地っぱり。アタシ何度も言ってるわよね、ちゃんと紹介してあげるって」

皆まで言う必要も無い、のことだ。妓夫太郎はぎくりと肩を強ばらせたが、負けじと言い返す。

「俺も何度も言ってるよなぁ?俺の存在は周知されてない事に意味があるってよぉ」
「そんなのわかってるわ。でもあの子は大丈夫よ。アタシの言うことには絶対服従だもの、秘密にしろって言えば死ぬまで言う事を聞くわ」

死ぬまで。その単語に心臓が嫌な音を立てたような気がしたが、妓夫太郎は気付かない振りを貫く。
この問答は初めてではなかった。堕姫がすっかりに心を許してすぐの頃、彼女に妓夫太郎を兄として紹介したいと言い出したのだ。

当然妓夫太郎は猛反対した。理由は言わずもがな、彼の存在は表向き知られていないためだ。そこに意味がある。これまで鬼狩り達の裏をかき、柱を何人も葬れたのはこの戦法があったからこそとも言える。妓夫太郎は必要なその時までは影に忍ぶべき立ち位置の鬼だ、それは彼本人が一番理解していることであった。
けれどこの愛らしい妹は、まるで簡単なことの様に言って退けたのだ。三人だけの秘密にすれば良い、と。

「目が見えないんだから、お兄ちゃんの外見だってわからない。鬼だなんてわかりっこないわ」
「・・・」

店の人間は誰も知らないことだけれど、珠姫には兄がいて、更にその兄は妹に何かあった時のためにいつも傍に控えているのだ、誰も彼に気付いていないが、勿論彼は至って普通の人間である、などと。
そんな都合の良い話が通じる筈があるものかと妓夫太郎が噛み付いたところで、堕姫はケラケラと笑うばかりだった。アタシの所有物なんだから大丈夫よと、そればかり。妓夫太郎の葛藤など知る由も無く、楽観的に笑う。

「お兄ちゃんだって、あの子のこと頭の中で何回も見てるんでしょ?そう言ったわよね?だったらもう、いっそ普通にアタシの部屋で三人一緒にいれば良いのよ。誰も急には入って来れないし、お兄ちゃんだったら、アタシ特別にあの子の膝枕貸してあげる」
「・・・いらねぇよ、俺はとにかく暫く距離置くからなぁ」

これ以上の問答は不毛でしかない。妓夫太郎は厳しい顔で溜息を吐き妹に背を向けた。

「変なお兄ちゃん。気になるなら傍でずっと構ってあげた方が絶対楽しいのに」
「・・・ほっとけよなぁ」

この考え方の差が問題なのだと、妓夫太郎は内心苛立たしい気持ちを抱え込む。気になるなら傍に置いて構いたいというのが妹の主張だが、妓夫太郎は違った。
気になるという表現は間違い無い、けれど彼女が人間である以上、傍に置くことには必ず危険が伴う。

が空想の存在でいる内はまだ良かった、しかし今は現実に、極めて近くに存在しているのだ。
白昼夢で見た自分自身を見ていればわかる、彼女がいかに眩しい存在かということ。もしその眩しい存在に現実で絆され、その後何かあったなら。果たして、今まで通りの自分でいられるのだろうか、と。

「あらそう、まぁ良いわ。鬼狩りには気を付けなきゃいけないし、定期的に顔見せてよね」
「あぁ、そうする」

失って後悔するくらいなら、いっそ知らないままの方が良い。
その恐怖心の根源に何があるのか、分かりたくもない。
とにかく今は距離を置きたいのだと、妓夫太郎はその場から姿を消した。




* * *



は珠姫専属の芸者であり、一日の殆どを珠姫の傍で過ごすことを義務付けられていたが、寝室だけは彼女と別に個室を用意されていた。
それは表向き、目の見えないが陽の光の寒暖で時間を判断し易い様、日の届かない珠姫の部屋ではそれが難しいだろうという珠姫の気遣い、と言う事になっている。
実際は、夜の狩りをする間彼女を遠ざける必要がある為だ。
如何にお気に入りの所有物であっても、鬼と人間である以上は四六時中一緒にはいられない。
よって夜も深まる頃、は自室に一人になるのだ。

「・・・」

何故自分はこんなことをしているのか。

妓夫太郎は彼女の部屋のすぐ上、屋根の上に佇み続けている。道行く人間に見つかるようなへまはしない。しかしここ数日、彼は夜が来ると長いことここで何をするでも無く時間を潰し続けていた。こんなことが妹にバレたなら大笑いをされそうなので気は抜けないが、堕姫と分離した生活は行く宛が少ないのだ。昼間と違って天井裏や暗がりに潜む必要は無いが、堂々と街中を歩ける筈も無い。気付けば、彼女の部屋の上に来てしまっていた。

今夜のは静かに三味線の調整をしている様だった。彼女は大抵、寝る支度を整えた後に何らかの楽器を触ってから床に就く。遊郭で夜にどんな音がしようが気にする者などいないだろうに、それでもは毎夜音が必要以上に響かぬ様そっと楽器に触る。芸者としての意識の高さと彼女の気遣いな一面が混ざり合い、妙に可笑しな光景だ。妓夫太郎は小さく口元を緩め、屋根の上に横になった。僅か耳に届く三味線の音が、何故か心地良い。

妹に言われたことを思い返す。
存在を秘密にしろと彼女に命令して、人間を装い一緒にいれば良いのだ、と。きっと楽しいわと笑う堕姫の言葉には、頭を抱えてしまったものだ。

「んなこと、出来るかよなぁ・・・」

独り言にもならないような囁きが夜空へ溶けて行く。
のことが気にかかる、あんな白昼夢を度々見ているのだからそれはそうなのだろう。こうして無意識に近くに落ち着いてしまうことがその証拠だ。
しかしと妓夫太郎の距離は、ここが限界だということもわかっているつもりだった。いくらが盲目とはいえ、人間に擬態も出来ない妓夫太郎が傍に行く訳には行かない。人間は脆い上に弱い。この尖った爪がもし彼女の薄皮を裂いてしまったら。この身に流れる猛毒が、もし彼女に何か悪影響を与えたりしたら―――そこまで考え、思わず自嘲の笑みを零してしまう。

何をそんな必死に、具体的な理由を用意しようとしているのだろう。これでは、本当にを案じているかの様ではないか。
彼女の部屋に、異変を感じたのは丁度その時だった。
妓夫太郎は瞬時に息を殺し、身を低く屈める。

さん、まだ起きてますか?」
「はい・・・?」

新顔の下働きの男だった。ほんの数日前、まだ妓夫太郎が堕姫と分離していなかった頃に、店主に連れられ珠姫の部屋へ挨拶に来た。新入りの“妓夫“だと聞いたためだろうか、記憶に残っていた。それにしても、もうかなり遅い時間だ、も返事はするものの流石に戸を開けはしない。
一体この男は何をしに来たのか。妓夫太郎は眉を顰め、状況を注意深く観察した。

「珠姫花魁から、さんに預かり物をしています。開けては貰えませんか」
「珠姫様から?はい、すぐ開けます」

妹が、こんな新顔に遣いを任せる筈が無い。まさか。呆気なくが戸を開けるその瞬間、鬼である彼の目は、訪問者の男がニタリと笑っている様を捉えた。

「・・・っ馬鹿が・・・!」








その刹那、妓夫太郎の頭の中に断片的な映像が映り込む。
深い雪景色。
二人の男に嬲られる寸前の少女。
目の前が赤く染まりそうになる程の怒り。
獣の様な咆哮、投げ付けた鎌。








瞬間感じた尋常ではない頭痛に顔を顰め、しかし妓夫太郎はそれでも壁を蹴り屋内へ突入する。

「っきゃ・・・!」
さん、俺あなたのこと―――」

男はを強引に抱きしめ、その想いの丈を伝えようとした様だったが、叶わなかった。は一瞬の拘束で布団へと押し倒され身を硬くしたものの、いくら怯えてもそれ以上の追撃がやってこない。

「っ・・・え・・・?」

聞こえたのは、人を殴るような鈍い音が一度。
更に、扉を閉める音が一度。
窓から空を切るような音を最後に、部屋は静まり返った。




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