鬼の兄妹と白昼夢



鬼は眠らない。

けれど不意に意識が一瞬飛ぶような、これまでに無かった感覚がここ何年かで度々ある。
それは大抵現実では一瞬で、実際に人間の様に眠りに落ちる感覚とは違う。しかし、まるで人間が夢を見るかの如く、起きていながらにして違う世界を体験する。

『妓夫太郎くん』

何度も繰り返し、同じ女を見る。

頭に流れ込む映像自体はまったく同じ内容ではなく、その時により状況は少し違う。けれど出てくるのはいつも同じ女で、彼女のことを自身はと呼んでいるらしい。
らしい、というのは、その世界の中で妓夫太郎に自由意志が無いからだ。そこにいるのは恐らく自分で間違い無い筈なのに、勝手に動き勝手に喋る。時には第三者の視点で自分と彼女の姿を見ることもあったが、今回は違うらしい。

戸口に立った妓夫太郎の姿を見つけ、は嬉しそうに微笑み駆け寄って来る。当然のように飛び着いてきた彼女を、妓夫太郎もまた当然のように抱き留めた。

『お帰りなさい』
『あぁ。今日も何も変わり無かったかぁ?』
『うん、大丈夫。怪我、してない?』
『するかよ、ばぁか』

腕の中のは、とても良い香りがした。妓夫太郎はその手触りの良い彼女の髪を撫で、自然な流れで旋毛に口付ける。
がくすぐったそうに身を捩った。

『良かった』

幸せそうにそう呟く彼女を、妓夫太郎は知らない。
知らない筈なのに、途方もない愛しさが込み上げる。
本当に、知らない女、だろうか。








映像が途切れる時は意識が元に戻る合図だ。
今回も恐らく一瞬だったであろうその間の出来事と、目の前の光景に妓夫太郎は重苦しく息を吐く。

何故、よりによって白昼夢の女を現実に見つけてしまったのか。厳密に言えば同じ人間では無い筈だ。しかし姿形が非常によく似ている上、同じ名の芸者だった。そして何よりも、妓夫太郎自身が彼女の姿を目にした瞬間に強烈に感じたのだ。あの女だ、と。

まさか妹も自分と似たような不可思議な体験をしていたとは、その時まで思いもしなかった事だけれど。妓夫太郎と同じく彼女を目にした瞬間、妹の堕姫はその美しい目を見開き、その足で奥田屋の女将の元へと急いだ。
よく考えろと止めに入る暇すら無かった。奥田屋の珠姫として平坂屋のを身請けすると迷い無く言い放った時の、あの衝撃を忘れない。花魁が一人の芸者を囲うだなんて間違いなく前代未聞だ。目立つことはするなと言いたいことは山ほどあったが、妹は頑として譲らなかった。
知らない筈だが何故か知っている、何度も頭の中に現れる気になる相手なのだ。手元に置いておきたいのはそんなにいけない事かと泣いて喚く堕姫の姿に、妓夫太郎は頭を抱えた。

常識から外れてはいるが、奇跡的に兄妹で同じような体験をしている以上妹の言っている意味はわかる。わかるけれど、彼女は人間だ。専属の芸者として日夜傍に置くのは、あまりに危険過ぎる。
そこへ得た彼女が盲目であるという情報は、結果として追い風となり妹の味方をした。目が見えなければ、都合の悪いことは隠しておける。鬼であることも、人間を食らっていることも明かす必要は無い。ただ都合良く傍に置いておけるし、何も問題は無いと胸を張る堕姫の勝ち誇った顔に、妓夫太郎はそれ以上何も言えなくなってしまった。

ただし、自身は単独で彼女と言葉を交わすまいと妓夫太郎は強く誓っていた。あくまでもは珠姫専属の芸者としてこの奥田屋へ移されてきたのだ。そもそも存在が周知されていない妓夫太郎を知れば理が歪むだろうし、目が見えないのなら好都合だ。
頭の中でのみ自分と甘やかに言葉を交わす、知らない筈の女。
まさにその彼女の膝を枕に寝転ぶ妹の体内で、妓夫太郎は意識を遮断しようと懸命に歯を食い縛ったのだった。



* * *



珠姫として高圧的に接しなければならない、という堕姫の思惑は一発で崩れた。
何度も頭に流れ込んでくる映像で見ていたを勢いのまま強引に手に入れ、その顔をまじまじと見たその瞬間。胸の内に溢れ出したのは、甘えてしまいたいという強烈な思いだった。

不細工、出来損ない、下等生物、といった言葉は一切頭から消え去り、気付けばその膝に身を投げ出していたのだ。突然のことにも関わらず、はこの身を冷やさない様上掛けを気にしている様だった。そういった一面すら、何故か懐かしさに似た気持ちすら感じてしまう。

堕姫はを知らない、知らない筈だ。けれど、本当にそうだろうか。そう感じてしまう程に、目の前にいる彼女は強く堕姫の心を鷲掴みにしてしまった。刷り込みの様な不思議な感覚だったが、堕姫はこの直感にも似た感覚を信じ抜くことを決めていた。
は自分たちの所有物となるため、生まれてきた人間なのだ、と。そうして念願の玩具を手にしたような満足度を高め、堕姫は意識を落としていく。








ぼんやりとした微睡みの中目を開けると、両隣の布団が空になっていることに気付いた。
けれど、辺りを見回せばすぐそこに二人の姿があることを知っているせいか慌てたりはしない。今回だって、ほらそこに。縁側に並んで座る二人の姿に、梅は安心したように笑みを零した。

が兄の肩に寄りかかり、兄もまた彼女の頭に頬を押し当てるようにして座っている。勿論その腕は、しっかりと彼女の腰に回されていた。二人して何も語らわず、夏の夜空でも見上げているのだろうか。後ろ姿だけれど、とても絵になる素敵な光景だ、と梅は頬を緩めてしまう。
そこで、何も音を立てていないにも関わらずがこちらを振り向いた。

『梅ちゃん、起こしちゃったかな?』

その優しい笑みが、自分に向けられる。
邪魔してはいけないと思うのに、たまらなく嬉しくなってしまう。

『いらっしゃい』
『・・・でも』
『おい、なぁに遠慮してんだぁ?』

そうして空けられた二人の間に、梅はそっと滑り込んだ。
三人並んで夜空を見上げる。確かに、素晴らしい星空だった。けれど、どちらかと言うとこれは夫婦水入らずで見上げるものではないだろうか。

『お姉ちゃん、気配読むのは上手いのに、空気読むのは下手すぎ』
『え?』
『そこは、アタシのことなんて無視してて良いのに』

誘ってくれたことは嬉しかったけれど。そうしていじけた様に下を向く梅に、が優しく笑いかける。
その細い腕に横から抱き寄せられ、梅は目を瞬いた。頭に頬ずりをされるような感触が、嬉しくて仕方が無い。

『梅ちゃんのこと、無視なんてしないよ。一緒に星空が見れたら、もっと嬉しいもの』

逆側の兄からは、ぽんぽんと頭を撫でられるような感触が降ってきた。ちらりと目を向けると、兄もまた小さく笑ってこちらを見ている。

『ガキが変な気を遣うんじゃねぇよ』
『お兄ちゃん、アタシもう十四なんだけど』
『生憎だったなぁ。俺にとっちゃお前はいつまでもガキみたいなもんなんだよなぁ』
『ふふ、いつまでも可愛い妹って意味だよね』
『・・・うるせ』

意地の悪さを装っても、には一発で言い負かされてしまう。そんな兄が、そして優しいが、梅は大好きだ。

『・・・先生も、この星見てるかなぁ?』
『どうかなぁ。明日寺子屋で確認してみたら?』
『うん!』

瞬く星空の下、梅は嬉しそうに天を仰いだ。








ああ、まただ。またこうして白昼夢の様なものを見る。
現実のようなそうでは無いような、不思議な体験だ。あの世界の中で彼女と触れ合う時、堕姫はいつも梅と呼ばれ、幼い姿をしている。無性にに甘えたくなってしまうのは、そのせいだろうか。

「お疲れでいらっしゃるのですね・・・」

労わるような優しい声が降ってくる。
求めていた通りのの言動はとても嬉しい筈だったが、堕姫はつい素直ではない態度で返してしまう。

「そうよ、アタシはこの街一番の花魁なんだから。安い芸者とは忙しさの程度が違うの。アンタにこの美しい顔を拝ませることが出来なくて残念」
「はい、私もとても残念です・・・」
「・・・」

嫌味が嫌味として通らない。本当に残念そうな顔をしてこちらを見下ろすの顔を、堕姫は暫し呆然と見上げてしまう。
傲慢な態度を取り続けることが馬鹿らしくなる。こうして与えられる労わりも優しさも、本当は欲しくて堪らなかったものなのに。
折角、白昼夢から現実でもに会えるようになったのだ。素直になれないことは、損でしかない。

「・・・嘘よ」
「え?」
「安い芸者なんて、思ってないから」

それは囁きのような僅かな音量だった。
けれど、紛れもない堕姫の本音だ。

「このアタシがわざわざ買ったのよ、アンタは目は見えないだろうけど、芸者としては一級品って言ってんの」

平坂屋が客寄せのために、夜桜の下で芸者を舞わせている現場を目撃したのがきっかけだった。繁盛しない店は必死に営業しなければならなくて気の毒だ、などと内心馬鹿にしていたその時。
ひと際美しい箏の音色に、呼ばれたような気がして。思わず目を向けると、茣蓙の上で演奏をするを見つけたのだ。

頭の中で何度もその姿を見ていたことも勿論ある。けれどきっかけは、の芸者としての腕の良さだ。贔屓目無しに見ても、高級な座敷を何度も体験した珠姫花魁も認めるほどの芸の価値が、にはある。
何よりこの自分が買ったのだからと、それは伝えるべきだと判断しての言葉だった。
思わぬところからの誉め言葉に、は一瞬見えない目を丸くして。次の瞬間、とても柔らかく微笑んだ。

「・・・珠姫様は、お優しい方なのですね」







『梅殿は優しいですね』







頭の中で再生される、男の声。

知らない筈の、しかし聞き覚えのある男の声。今のの言葉がそれと重なり、堕姫は一瞬目を見開いてしまう。は変わらず、優しくこちらを見下ろしていた。懐かしいようなこの気持ちは、酷く温かい。
珠姫でいる時にこんなにも心が安らいだことは、これまでに一度も無い。やはり、彼女は特別だ。何度も見る白昼夢は、きっと何かの縁あって自分たちとを繋ぐものなのだ。

「・・・アンタの膝枕、悪くないわ」
「ふふ、嬉しいです」
「これから、アンタが何しててもアタシが好きな時に寝かせてもらうから」
「勿論です、喜んで」

無理やりにでも、所有物にしてしまって正解だった。
そうでしょう?お兄ちゃん。その問いかけに、兄が答えることは無かった。



 Top