その芸者は夢を見る
※第2部は遊郭編より少し前の時代のお話です。
蕨姫を名乗る前の話のため、創作の店名等が出てきます。
夏の夕暮れ時だった。
縁側で横になっていると、優しく肩を揺すられる。
『』
名前を呼ばれ、は目を開けた。頭がぼんやりと霞がかり、何をしていたのか咄嗟に思い出せない。
『あれ?私・・・』
『こんな所じゃ風邪引くだろうが。寝るならあっちだ、布団敷いたからよぉ』
優しく抱き起こされ、今目の前にいるのが妓夫太郎であることを知る。
部屋の奥に確かに布団が敷いてある、彼が用意してくれたのだろうか。未だ意識のはっきりしないの顔を見て、妓夫太郎は苦笑した。
『疲れてんだなぁ。目の下に隈できてんぞ』
その頬に手を添えられ、隈と言われた部分を彼の親指になぞられる。その慈しむかのような優しい感覚に、は思わず妓夫太郎に抱き着いてしまう。
『どしたぁ?』
『ううん、何でもないの』
自分でも理由はわからない。わからないけれど、無性にこうしたくなってしまった。大好きな彼の匂いを肺いっぱいに吸い込み、縋りつくように顔を押し付ける。
『妓夫太郎くん、ここにいるよね』
『何言ってんだお前はぁ・・・寝ぼけてんのか?』
『ごめん・・・』
突然こんなことをされては困るだろう。詫びの言葉を口にしてがその腕を解こうとした次の瞬間、今度は妓夫太郎の方から優しく抱きしめ返される。
片腕はの胴を、もう片方の手はの頭に添えられ、子どもをあやす様に撫でられる。
『心配しなくても、ここにいるだろうが』
温かなぬくもり、優しい声、その全てがへと惜しみなく向けられている。
『ずっと一緒だ』
ああ、心の底から幸せだ。
夢はそこで覚めた。
「また・・・この夢」
独り言にもならないような囁きだ。障子越しに朝日の温かさを肌に感じ、
の意識は覚醒した。それでも視界は暗闇だ。彼女は生まれつき目を患っており、何も見ることが出来ない。未だ同部屋の誰もが起きださない気配に、
は布団を手繰り寄せ夢の出来事を回想する。
このような夢を昔から幾度となく見ている。不思議なことに、夢の中はいつも鮮やかな色彩に恵まれていた。
夢には自分と同じ名前の女性がいて、彼女を客観的に見ている時もあれば彼女自身になっている時もある。夢に出てくる人物は大抵決まった三人の内の誰かだったが、特に今日見た夢にいた彼の頻度は高かった。
妓夫太郎というその男性を、
は知らない。
遊郭では妓夫と呼ばれる男性の職業があるけれど、何か関係があるのだろうか。けれどそんな事は気にならないほどに夢の中の彼は彼女に特別優しく、宝物のように大切に扱ってくれる。直接の知り合いではないけれど、彼と夢で逢えた日は気持ちが弾む。紛れもなく、良い夢だ。
はそうして小さく口元を緩めるのだった。
「
、
起きてるかい?」
その時だった。小声ではあったが、焦ったような自身を呼ぶ声に
は顔を上げる。見えなくとも既に心得ている間取りなので、着物の前を手探りで確認した上でそっと襖を開けた。
「女将さん・・・?」
「ああ
、良かった。悪いんだけど、すぐに支度しておくれ。大変なことになってるんだよ」
「はい・・・大変なこと、ですか?」
「説明は後だよ、とにかく急いでおくれ」
世話になっている女将の、切羽詰まった様子に
は首を傾げながらも了承の意を示した。
ここは遊郭・平坂屋。
彼女はこの店で唯一の、盲目の芸者である。
* * *
その日、平坂屋は前代未聞の大騒ぎに見舞われた。
奥田屋の珠姫花魁が、芸者の
を買い受けると言い出したのだ。
奥田屋と言えば、この遊郭中心街でも最も高級であり人気の店だ。そこの花魁として絶大な人気を誇るのが珠姫である。
彼女の美貌は宛ら天女や神の域と言われており、男たちは彼女の人間離れした美しさを一目見るためだけに大金を喜んで差し出すと言う。美醜が価値基準の遊郭において、彼女はこの世界の頂点に君臨する存在とも言えた。
対して平坂屋は中心街では古株であるものの、奥田屋と比べてしまえば小さな店だった。そこの一芸者である
を、天下の珠姫が買い受けるなど、騒ぎにならない筈が無い。
しかし珠姫という花魁は絶世の美女であると同時に、性悪であることも有名な女だった。気分ひとつで他の遊女を苛め抜き自殺に追い込むのは日常茶飯事。それでも店の売れ行きを好調に保たせるため、店主ですら彼女の機嫌を伺わなければ安心して商売ができない始末と聞く。
今回のことも珠姫の独断で急遽決まり、奥田屋の店主夫婦が朝早くから格下の平坂屋へ頭を下げに来た程だ。
を珠姫専属の芸者として衣食住の一切を保証すると言い、奥田屋から平坂屋へ多額の金が贈られた。
平坂屋としては断る余地の無い話だったが、珠姫の性悪さから
を心配する声も決して少なくはなかった。彼女は目の患いを感じさせぬほど良く働き良く気も利く娘で、芸者と遊女の垣根を越えて店の従業員たちから好かれていた。
あまり考えたくはないが、目の見えない
をいたぶり苛め抜くのが目的ではないかと彼女を庇う芸子仲間の声も上がった程だった。しかし格上の奥田屋からの、更には珠姫花魁からの依頼で大金を積まれた以上この話は断れない。断腸の思いで事実を告げた平坂屋の女将へ、
はこれまで世話になったことを感謝し、その申し出を喜んで受け入れると口にしたのだった。
一頻り店の仲間たちとの別れを惜しみ、彼女はその日の内に奥田屋へとその身を移された。
日の当たらない店の最奥。最も広々とした高級な畳敷の部屋に、
は今正座で頭を下げている。
「顔を上げな」
鈴の音の様な、美しい声がした。
が導かれるように顔を上げると、不意に顎を掴まれ顔を観察されていることを感じた。その瞳が確かに見えていないことを、確認されている様だった。
目の前にいるであろう珠姫から漂う芳しい香りに頭の奥がぼんやりしそうになるのを堪え、
は事前に考えていた口上を述べる。どんな評判があろうとも、今日これよりは彼女に仕える身なのだから。
「
と申します。珠姫様、この度は誠にありがとうございます。ご存じかと思いますが、私は目が見えておりません。けれどそれも長いですから日常生活は杖があれば問題なく、勿論芸事も珠姫様の仰せのままに。粗相があるといけませんので、お酌だけはご容赦いただければ幸いでございます。このような身でございますが、誠心誠意尽くしますので、何卒・・・」
けれど、その挨拶は途中で途切れてしまう。
畳につけていた三つ指を強引に解かれ、上体を無理に起こされたかと思えば、膝の上に僅かな重みを感じたからだ。
突然のことに言葉を失った
であったが、恐る恐るその身に触れて現状を察する。
「・・・珠姫様?」
「煩いわよ、もうアンタはアタシの所有物なんだから、文句言わないで」
珠姫は
の膝を枕に横になっていた。
自身の美貌を武器に誰もを見下し、気分ひとつで簡単に他人の人生を壊そうとする恐ろしい女性だと、そう聞いていた。
この様に膝を枕に寝転がる様は、まるで幼子の様ではないか。聞いていた話とは随分違う様に、
はこれも気分のひとつなのだろうかと戸惑いつつも、そっと声をかける。
「あの、お寒くはないですか?何か上掛けを・・・」
「いらない、黙って暫くこのままでいなさい」
「・・・はい」
戸惑いはあるが、彼女が言うならそれは絶対だ。芳しい白梅香に
はうっとりと酔いしれる。
珠姫が下唇を噛み締めていることに、
は気付く由も無かった。