全てを失う物語



話が違う。首筋に嫌な汗が伝うのを感じながら、梅は背後の男を見遣った。

梅のことを気に入り二月前から前金を払っていたという侍は、やはり見たことも話したことも無い男だ。先輩遊女が何人も侍る宴の席で、お酌の補佐をすれば良い。そう聞いていた筈が、今この男と二人きりで、床支度の整った畳敷きの部屋に押し込まれている。
何故こんな事になったのか。脈動が早まり、冷や汗が止まらない。後ずさるように一歩後退し、震えそうになるのを堪え梅は厳しい顔で男を見据える。

「旦那様、生憎ですがアタシは見習いで・・・」
「知っているとも。だから今日からお前は、遊女ではなく私の妻となるのだよ」

何を言われたのか、梅は咄嗟に理解が出来なかった。
誰が、誰の妻になると言っているのだ、この男は。

「驚いただろう?女将には話もつけてある。身請けには十分過ぎる金を支払ったとも、見習いなんかじゃなく正当な遊女に見合う金額だ」

その時、じわじわと蝕まれていくような感覚に、梅はようやく裏切られたことを理解した。あの女将は妓夫太郎とこの侍の両方から身請け金を受け入れ、そしてこの侍の方に梅を売った。
こんなことは許される筈が無い。そうして怒りに息を呑む梅の方へと、男の腕が伸びて。

「っ・・・それは!」

梅の髪に差し込まれていた、白い簪が抜かれる。
思わず声を上げる梅の思いに反する様に、それはあっけなく侍の足によって踏み折られてしまった。あの日、立花が跪いて差し出してくれた贈り物が。
梅の大切な思い出が、土足で踏み荒らされていく。

「こんな安物より、相応しい物を付けなさい。私の妻に、恥ずかしい物は身に付けさせはしない」

代わりに違う簪を差し込まれる。姿見の前に立たされ、差し替えられてしまった赤い簪を、梅は信じられないことの様に見つめるしか無かった。
一体どうすれば。兄は仕事が夜まであるし、はあの仕事場だった場所で梅を待っているだろう。どうすれば良い、どうすれば。

「案ずるな、厄介なお前の兄は今夜にでも始末してやる」

鏡越しに、背後に立つ男が微笑みかけてくる。
梅は自分の耳を疑った。

「え・・・?」
「あの様に醜い厄介者は、美しいお前の人生には元々不要だっただろう。良い機会だ、余計な邪魔をしてくる前に消してやるぞ」

兄を殺すと、この男は言っている。優しい兄の姿を思い浮かべる。産まれた時からずっと一緒にいた、ずっと梅を守ってくれた大切な兄を、この男は始末すると、そう言っている。

梅の中で何かの糸がぷつりと切れた。頭の中が真っ白になっていく感覚、同時に体中の血が煮えくり立つ様な強い憤り。血管の音がうるさい。

「他にも気がかりがあるなら言うと良い。障害になる者は、全て始末してやろう」

と立花の笑顔が浮かぶ。それさえも、この男は踏み躙ろうと言うのか。梅から返答が無いのを良いことに、男の手が着物の合わせ目へと伸びてくる。

「だから梅、安心して―――」

梅に迷いは無かった。
赤い簪を勢いよく引き抜き、そのまま狙った方向へ振り下ろす。血飛沫が飛んだ。

「気安く、名前を呼ぶんじゃあ無いよ」
「あっ・・・あああああああ?!!!」

侍は布団の上に尻餅をつき、片目を押さえ痛みに呻いている。

こんなことでは許さない、許されない。この侍は、梅の全てを取り立てようとしたのだ。

「誰を始末するって?誰が不要だって?誰がお前なんかに身請けされてやるもんか!」
「だっ・・・誰か!誰か参れ!誰か!」


* * *



血の気が引いていく感覚に、は息を止めた。
すっかり仕事部屋も片付き、あとは梅を迎え、妓夫太郎の帰りを待つだけとなった夕刻のこと。外がやけに騒がしいのを聞きつけたのが、始まりだった。

曰く、隣の区画で騒動があったとかで、とにかく住民は今夜一晩外出を禁じられている、と。物騒な話題に誰もが近寄るまいと騒つく中、は嫌な動悸に打ち震えた。
日暮れ前には仕事を終えてこちらへ来る筈の梅が、まだ姿を見せていないのだ。
居ても立っても居られずに隣の区画へ駆け付けると、いよいよ不穏な雰囲気に包まれた通りを、女将が声掛けをして歩き回る現場に遭遇した。今晩は何があっても、何が聞こえても外へは出るな、そう繰り返す女将からは顔を隠すように背を向けた。嫌な予感に震えが止まらない。

「一体どうしたってのかね」
「とびきりの上客の機嫌を損ねたらしいよ」

どこの誰の会話だったのかは、確認出来なかった。近くの長屋から漏れてきた声かもしれない、路地から聞こえた声かもしれない。けれど今の会話が本当だとすれば、梅が。

「やだっ・・・解きなさいよ!やだぁ!」

頭の中が白くなっていくような感覚の中、の耳が良く知った声を捉える。間違い無く梅の悲鳴だった。いよいよ通りには人気が無くなり、女将の呼びかけだけが遠くに聞こえるような状態となる。

梅が危険だ。飛びつく様に見知った長屋の扉を開けようとした刹那、妓夫太郎の顔が脳裏に浮かぶ。もし何かあれば、彼は。



「助けてお兄ちゃん!お姉ちゃああん!」



戸惑っている暇など、無い。

は身一つで中へ突入し、こちらへ背を向けていた男に掴みかかった。梅が手足を縛られて転がされているのを確認し、無我夢中で男の手にあるものを彼女から遠ざける。
気が飛びそうになるほどの熱が、の頬を掠めた。

「っあああああ!!!!!」
「なっ・・・何だ貴様!」

鈍く発光している焼きごてが地に転がった。この侍は、こんな物を梅に押し付けようとしていたと言うのか。目の前が赤く変色しそうな憤りに身を震わせ、は侍と梅の間に立ちはだかる。

「・・・っ・・・お姉、ちゃん・・・」

動揺している目の前の男は、顔の半分を包帯で覆っていた。上客の機嫌を損ねたとは、この怪我のことだろうか。しかし、それにしてもこの様な仕打ちが許される筈は無い。泣き喚く少女を縛り上げ、熱した焼きごてを押し付けようなどとは、人間に出来る所業ではない。じりじりと頬が焼け付くような自らの痛みも忘れ、は怒りに歯を食い縛り男を睨みつけた。

「何を、してるんですか・・・!!」
「女が余計な口を出すな!罪人を裁くのだ、邪魔するならお前も只では―――」

罪人。
今日まさに望まぬ遊女の務めから解き放たれることを約束されていたこの娘を、罪人と呼ぶのか。守らなくては。自分が必ず、梅を守らなくては。はその一心で男に殴り掛かった。体格差があるとは言え、この様に苛烈に攻撃されるとは思っていなかったのだろう、侍は勢いに押され床へと倒れ込んだ。は男の上に乗り上げ、すかさず力一杯に拳を振り下ろす。

「っ許さない!!!この子に手を出すことは絶対許さない!妓夫太郎くんに謝れ!梅ちゃんに謝れ!!!」
「っ・・・!駄目!お姉ちゃん!!!」

梅の悲鳴と同時に、鈍い衝撃がを襲う。堪らず崩れ落ちたは、木材を抱え肩で息をしている女将の姿を歪む視界の中で捉えた。
迂闊だった。他の住民に外出を禁じていた時点で、女将も共犯なのは考えればわかることだった。焦るあまり大事な局面で判断を誤った自分自身を、揺れる意識の中は悔やむ。

「そうでした、この兄妹を排除するなら厄介者が一人残っていましたね。配慮が足りず失礼をいたしました・・・」
「女の分際で何て奴だ、まったく・・・」

女将は侍に非礼を詫び、再び姿を消した。は脳が揺れるような不快感の中、今の会話を懸命に思い起こす。女将は、兄妹を排除すると、そうは言わなかっただろうか。
妓夫太郎にまで、害を成そうと言うのか。

昨日触れ合った暖かな体温と優しい笑みが、の脳裏に焼き付いている。
駄目だ。彼にも決して手出しはさせない。許してはいけない。そうして起きあがろうとするの背を、侍の足は容赦なく蹴り付けた。顎を強かに打ち付け、意識が飛びそうに脆くなる。

「お姉ちゃん!!やめろ!お前ぇぇ!!」
「こうなっては仕方ない。この顔ではさぞかし生き辛かろう、楽にしてやる。餌も一匹より二匹の方が確実だろうしなぁ」

動きの鈍いを仰向けに転がせ、侍は馬乗りの体勢で彼女の顔を眺めた。
頬には見事に焼印がついてしまっている。これさえ無ければそこそこに美人だったものを、不運で馬鹿な娘だと。
そこで男の顔が醜い笑みの形に歪む瞬間を、梅は見た。最悪の可能性に息が一瞬止まり、梅は力一杯にもがき叫ぶ。

「や、やめろ!!お前っ!汚い手でお姉ちゃんに触るな!!殺してやる!殺してやる!」
「うるさいぞ娘!お前を罰するのはこの娘で楽しんだ後だ!」
「あああああ!!やめろ!触るなぁ!!」

着物の合わせ目に男の手がかかる、その瞬間。
自由の利かない中、ぼんやりと虚空を見上げていたの口元が動いた。

「・・・妓夫太郎、くん」
「はぁ?」

それは、無意識の呼びかけだったのかもしれず。囁くような僅かな音量だった。けれどそれはに馬乗りになるこの侍にはっきりと届き、余計にその醜い笑みを歪ませる。

「・・・何だ女、まさかお前あの化け物に懸想を?っははははは!こいつは傑作だ!!!」
「やめろ、やめろやめろ!!お姉ちゃん!お姉ちゃああん!!」

下劣な笑い声と梅の悲鳴が混ざり、反響する。
は未だ定まらない視界の中、真上で勝ち誇る男を見上げて思うのだ。

「・・・化け物は、お前だ」
「何?」

この男は一体妓夫太郎の何を知っていて、彼を化け物と呼んでいるのか。あの女将は一体何の権利があって、兄妹を排除するなどと言っていたのか。都合良く見て見ぬふりをしているここら一帯の住民達も、皆して妓夫太郎を蔑み続けた連中だ。
化け物と呼ぶなら、お前たちの方だ。何も知らない化け物が彼を語るな、大切な人生の伴侶を愚弄するな。
は残る力を振り絞り、男の手首を強く掴んだ。

「私はどうなってもいい、あの子に手を出さないと誓って、妓夫太郎くんを害さないと誓って、そうでないなら」

途端、強く横殴りにされたことでその意識は薄れた。

「あぁ、良く聞こえんなぁ」
「嫌あああ!お姉ちゃん!お姉ちゃん!」



―――そうでないなら。
お前もこの街の人間も、全てを呪ってやる。



* * *



迎えに行った先にと梅の姿が無かったことに、妓夫太郎は得体の知れない胸騒ぎを覚えた。
街中は不自然に人の出入りが少なく、妓夫太郎の住まう区画に入ってからというものの誰一人として出歩く人間がいない。明らかに何かがおかしい。どちらにせよ、こちらの長屋に二人がいないかを早く確認しなくては、と。

ほんの数秒前まで考えていたことが、角をひとつ曲がった瞬間に頭の中から消し飛んだ。

「・・・あぁ・・・?」

長屋の前に倒れている、女。
遠目にもわかる。この寒さの中、酷い有様でうつ伏せになっている。一歩一歩近付く度に嫌な心音が高鳴り、最後には駆け寄るような形でその女を見下ろし。

妓夫太郎は、膝からその場に崩れ落ちた。

うつ伏せでもわかってしまう、それだけ長く一緒にいた。加えて、乱れた髪にはあの青い簪が辛うじて引っ掛かっている。
身体全体が震える、息がうまく出来ない、現実だとは信じられない。

「・・・、なのか・・・?」

指先が触れた途端、その冷たさに息が止まりそうになる。それでも尚、そっと身体を反転させて抱き寄せる。見間違える筈も無い、変わり果てた彼女の姿だった。
着ているものは散々に乱され、頬には火傷なんてものでは済まない焼印が刻まれており、痣のような跡が顔や身体のあちこちに浮き上がっていた。その瞳は暗く淀み薄く開いたままで瞬きもしない。妓夫太郎くん、とその唇を動かしてはくれない。

「おい、おい・・・!何だってんだよこれはぁ!!どうしてお前、お前っ!・・・!!!何があったんだよ、なぁ!おい!!!」

懸命に呼びかけるが、返事は返って来る筈も無い。妓夫太郎は込み上げる涙に震え、を力いっぱいに抱きしめた。
どう見てもわかる、彼女の鼓動はとうに止まっていると。けれど急にこんな現実を突きつけられ、納得出来る筈が無い。到底受け入れられる筈も無い。

・・・っ何で、何でだぁ・・・!」

生涯の伴侶として、お互いにお互いを唯一の存在として認め合い、気持ちを確かめ合った。暖かく柔らかく、抱き締めると幸せの香りがしたはもういない。愛を交わしあったのは、ほんの昨日の出来事だと言うのに。がいなくては生きてはいけないと、伝えたばかりだと言うのに。これからはこの笑顔を守り生きるのだと、誓ったばかりだったと言うのに。

妓夫太郎は、そこで初めて気付いてしまった。
に気を取られるあまり見落とした、今朝までは無かった不自然な地面の穴。
そして、その中に横たわる。

「・・・梅?」


* * *



雪が降り始める中、妓夫太郎はゆっくりと歩みを進める。
腕の中の梅は黒焦げになってはいるが、辛うじて息があった。何とか梅だけでも、命を救える手立ては無いだろうか。この区画は見事に誰一人出て来はしない、助けは現れない。
咄嗟に思い浮かんだのは立花のことだったが、この速度では町まで辿り着けるかわからない。歩みが遅いのは妓夫太郎自身の背中の傷が深いため、そして、彼が今自分以外に二人分の体重を負っているためだ。

「・・・、大丈夫か・・・?」

返事は返ってこないことはわかっているのに、呼びかけてしまう。妓夫太郎はを背中に括り付けるようにして負い、片腕に梅を抱いていた。

黒焦げの梅に気を取られ、侍に背中を斬られた際、妓夫太郎は全ての顛末を悟った。女将に身請け話を騙され梅が娶られそうになっていたこと、梅がそれを知り侍を失明させたこと、その報復に割って入ったが犠牲になってしまったこと、妓夫太郎が最初から始末される予定であったこと。

女将と侍を返り討ちにした後、妓夫太郎はの傍に膝を着いた。置いては行けない、例え魂が旅立った後であっても、妻を置き去りには出来ない。

「乗り心地は悪ぃだろうが・・・勘弁しろよなぁ」

そうして呼びかけていなければ、彼女の体重を背中に感じていなければ、何か大切な糸が切れてしまうような気がして。正気を保てるか失うかの際どい精神状態で、妓夫太郎は大切な存在を負って雪の中を歩き続ける。本当なら今頃は、三人で遊郭を後にしていた筈だった。梅のこれまでの苦労を労い、とこれからの展望を口にして笑い合えていた筈だった。どうして、こんなことになってしまったのか。
不意に、腕の中の梅がゴボと咳込む音が聞こえる。

「梅、寒いか?すまねぇなぁ・・・」

そうして梅の顔を覗き込んだ瞬間に、妓夫太郎の身体は限界を迎えた。梅は片腕に抱いたまま庇えたが、を括っていた紐はとうに切れており、妓夫太郎が倒れ込んだことで彼女の遺体も地に転がってしまう。
の身体は横向きにごろりと転がっており、丁度妓夫太郎の方へとその顔を向けていた。
その姿に、妓夫太郎は昨晩の幻影を見る。








二人して横になり、お互いの温もりに目を閉じて緩く抱き締め合っていた。妓夫太郎からの前髪に口付けることで、彼女と目が合う。

『今夜は帰らねぇでここにいるって言ったら、お前どうする?』
『だぁめ』

甘い声色だったが、即答だった。

『梅ちゃんが待ってるよ、帰らなきゃ』

それを言われると弱い。押し黙る妓夫太郎を見て、の方からも妓夫太郎の頬に唇を寄せた。

『それに、明日からはずっと一緒に暮らせるんだから』
『・・・それもそうだなぁ』

明日からは、ずっと一緒。これから先は夫婦なのだから、一生共に。そうして二人して笑いあい、じゃれつくような口付けの応酬を交わし合いながら縺れ合い、妓夫太郎がを押し倒すような形に落ち着いた。耳元に唇を寄せられると、妓夫太郎の髪が顔のあちこちに触れるらしくが身を捩る。

『もう、くすぐったいよ』
『さっさと慣れろよなぁ』
『ふふ、それは難しいよー』

そう笑いながら、は妓夫太郎の頭を優しく抱き寄せる。

『妓夫太郎くん、ありがとう』

何に対しての礼なのかは、わからなかった。
顔を上げた妓夫太郎に対し、は柔らかく微笑みかける。
愛おしさがどこまでも加速する、片時も離れがたくなる程の引力を持って、その黒い瞳が甘やかに細められる。

『だいすき』

堪らないその言葉に、妓夫太郎は再度彼女の唇を塞いだ。








それから、たったの一日だ。

幸せの絶頂からたったの一日で、妓夫太郎は全てを失った。こちらを向いたままの暗い瞳を見ているだけで、涙が止まらない。妓夫太郎は懸命に、動きの鈍い身体での方へと這った。

の頬に赤黒く焼き付いた跡に触れる。何故か遠い昔を思い出す。が親に付けられた手形を見た梅が、花と見間違え皆して笑ったことだ。それと同じ位置に、こんなにも酷いものを刻まれ、はもう何も物を言えぬ身となってしまった。
手が震える。目の前が霞む。それでも妓夫太郎は片腕に梅を、もう片方の腕での肩を抱いた。

「何でだ・・・。何もかも取り立てるために、俺に幸せを与えたのか・・・」

神や仏がいるなら問いたい。
これまでの日々は、一体何だったのか。

「どうして俺なんだ・・・」

妓夫太郎が何をした。

「どうして俺たちだけなんだ・・・」

が何をした。
梅が何をした。

「どうして・・・」

人間として腐り切った連中が蔓延るこの寂れた町の中、何故このような目に遭うのが、自分達なのか。
妓夫太郎は呪う。
この町の全てを憎み、全てを恨み。
そして全てを妬み、呪う。



* * *



「こいつは驚いた―――こんな夜に三人揃ってどうしたって言うんだい?可哀想に」

雪が薄く三人を覆い始めた頃、頭上からの声に妓夫太郎は薄く目を開けた。
明るい白橡色の髪の上から、血を被ったような頭。そして虹色の瞳が印象的な若い男だった。このような派手な見た目の男は、見たことがない。
男が女の脚と頭を抱えていることは、既に正気を失いつつある妓夫太郎にとって瑣末なことだった。

「ああ、この姿じゃわからないか」

男は反応の薄い妓夫太郎の様子を見て、ぽつりとそう呟いた。腕に抱えていた物を適当に放ると、彼らの傍へと屈み込む。

「お嬢さんは・・・死んでしまっているね、残念だ」

の方を見てそう告げる男のことを、妓夫太郎はぼんやりと見上げる。何者かわからぬこの男は、遂に命を取り立てに来た黄泉の使いか何かだろうか。男の虹色の瞳が妓夫太郎と梅を捉え、優しげに細められた。

「お嬢ちゃんの方はまだ辛うじて息がある・・・そうだ。二人には血をやろう、あの方に選ばれれば鬼となれる」

まるで素晴らしい思いつきのように、男は笑った。この男が何を言っているのか、妓夫太郎にはその意味がわからない。

「最初の食事が最愛の人というのも、乙なものかもしれないよ?」

食事とは、何のことだろう。
妓夫太郎には理解が出来なかった。


* * *



俄には信じ難い光景を目にし、童磨は不思議そうに首を傾げた。

鬼化する激痛にのたうち回る妓夫太郎は、喉や腕を血が出るまで掻きむしりながら、隣に転がるの遺体をその腕に抱き寄せた。完全に鬼化が完了せぬ内から、随分と食欲が旺盛なのだろうか。邪魔はしないけれど、その頭部は少し分けて貰えないだろうか。そんなことを考えていたその時。

の身が、ほんの数秒で妓夫太郎の中へ溶ける様に掻き消えた。

がいた痕跡は血痕すら残らず消えており、後には鬼化が完了し力尽きたように倒れている妓夫太郎のみが残った。
人間を食すのではなく吸収して摂取するやり方は確かにあるが、上弦の鬼でもそれなりに時間のかかる方法だ。鬼になりかけの者が一瞬で出来る業ではない。
化かされたような、神隠しを目の当たりにしたような、不思議な話だ。
遅れて鬼化を始め火傷が癒えていく梅の姿をぼんやりと眺めながら、童磨は放った女の脚を拾い、齧った。

「残念だよ、お嬢さん。せっかく文をくれたのに・・・話は聞けず仕舞いかぁ」

久しぶりに、話がしたかった。
そして何よりも。

「君の脳を、食べてみたかったなぁ」



* * *









(設定こぼれ話)



上弦の陸 童磨 (碓氷)

彼が教祖として率いる万世極楽教は、当時から穏やかに楽しく生きることを掲げていましたが、一部の選ばれた信者のみ、神である無惨の指示のもと青い彼岸花の捜索に日々注力していました。

当時は情報がほぼ無いに等しかった青い彼岸花に関して彼は、人間を鬼化させるほどの強い影響力は、同じく人体に強い作用のある麻薬植物と関わりがあるのではないかと仮説を立てます。
信者の縁者の中で、麻薬中毒による死亡・廃人化が相次いだことがきっかけでした。
江戸にほど近い夜の街遊郭は拠点とするには都合が良く、食糧の人間を内密に調達するにも好立地な場所です。
教祖の童磨自らが陣頭に立ち長い任に当たることに、信者たちは当初信仰心の強さから反対をしましたが、結果をなかなか出せず神から怒りを買ったことで、白橡色の髪と虹色の瞳を召し上げられ、黒髪と黒い瞳となった彼の姿を見て涙を流し結束を深めました。
実際は悪目立ちすること無く人間たちの輪の中に入っていくための擬態でしたが、信者の誰もが神罰を受けた姿と信じていました。
彼は無惨ほどの精巧性は無くとも、こうした部分的な擬態は問題なくこなせる鬼でした。
江戸の奉行所の中にも既に間者となっていた信者はいたので、身分を偽るための工作は難なく整いました。

こうして彼は仮の名を碓氷と定め、選抜された熱心な信者たちを連れ遊郭へと旅立ちました。
手始めに麻薬中毒者を泳がせ、売人を拘束し植物の入手経路を探ろうと考えましたが、そこで出会ったのがたちでした。
彼は少女の類稀な優秀さを見抜き、長い目で捜索の駒とすることを決めます。
周りの人間に取り入り彼女の生活環境を整えたのはそのためでもありましたが、劣等感にもがく妓夫太郎との関係は娯楽として最適だったため、時に手助けをしつつ人間観察の一環として楽しんでいました。
の功績は彼の想像を超え、実物の発見には至らなくとも生息地やその植生条件についてかなり有力な情報をもたらしました。

七年を経て無惨から遊郭撤収を命じられた際も、今後の可能性を鑑み彼女を食らうことは考えていませんでした。
いよいよ青い彼岸花の目撃情報があったという手紙を貰った際、彼はひとつ決意を固めました。
もし首尾よく実物を採取し、無惨に献上できたその時こそ、手柄を立てたを救済してあげようと。
優れた彼女を自身が食べることで、素晴らしい功績を遺した彼女を永遠の存在としようと考えましたが、結果としてそれは叶いませんでした。
特にの頭脳は長年楽しみに熟成させていた食材だったので、彼女が骨ひとつ残らず妓夫太郎に吸収されてしまったことは童磨にとって残念な出来事となりましたが、何事にも執着しない彼はすぐに忘れることにしました。
鬼化して間も無い兄妹は記憶も精神状態も混乱していましたが、とにかく重度の飢餓状態であったため、そこら一帯の人間たちで食事をさせてから無限城へと連れ帰りました。





立花幸太郎

約束の夜に彼らが現れなかった翌朝、彼が目にしたのは切見世の大騒動でした。
一夜で区画中の人間が消え失せ、長屋中に大量の血痕と白骨の欠片が残されていました。
(何が聞こえても一晩誰も長屋から出るなという女将の指示が、仇となった様でした。)
奉行所の人間たちもまるでお手上げの悲惨な状況は、とても人間の手による犯行とは思えません。
彼は友人たちが悍ましい事件に巻き込まれたことを察し、深く絶望しました。
事情を知った茅川町の住民たちは立花の心痛を察し気遣いましたが、表向きはどうあれ彼の心は大きく穴があいたままです。
彼はどうしても彼らの生存を諦めることが出来ず、寺子屋の三代目を継ぎながらも何年もの間彼らの行方を捜し続けました。
また、との約束の青い彼岸花についても彼はその後も探し続けました。
一度だけ目撃した際、翌日再び見つけることが出来ず、彼女に逆に気遣わせてしまったことを悔いていたためです。
彼と梅の関係は未だこれからのようなものでしたが、立花は年下の梅のことを、外見に関わらず好ましく思っていました。
彼は生涯妻を迎えることは無く、寺子屋は弟春男の長男が継いでいます。



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