幸福の最果て



約束通り、梅の身請けを前日に控えた夜、妓夫太郎はの元を訪れた。一日早く完全閉店したの作業部屋は綺麗に片付いていて、いよいよ明日ここを出て行くという実感を強め、同時に今日これから話す内容について妓夫太郎の緊張感を強めた。
ひとまずは向かい合い、大事な報告をする。

「梅の身請けに、必要な金を納めて来た」
「そっか・・・お疲れ様でした」

は律儀に頭を下げ、妓夫太郎を労う。いよいよだね、と微笑む彼女に、妓夫太郎もまた小さく頷き返した。

「例の座敷は明日の日暮れ前には終わる。それを最後に、梅は遊女から抜ける」

梅の言ったように、この二月は待ち遠しくもあっという間に過ぎ去った。彼女を縛っていた先約も、明日の夕刻にはすっかり片がつく。ようやく梅を自由に出来る。大きな達成感と喜びは、二人に共通するものだ。

「俺の仕事が終わる方が遅いからよぉ、梅には終わり次第、ここに来るように伝えてある」

妓夫太郎もまた、明日の仕事を最後に取り立てを辞める。茅川町に移ってからも、正式な仕事として見回りや用心棒を是非にと熱望されているが、荒事仕事としての危険度は格段に下がることは間違いない。に心配をかけるのも明日が最後。否、彼女はそれでも心配を止めないかもしれないけれど、ひとまずそれは置いておく。

「なるべく早く終わらせて迎えに来る。だから・・・」
「・・・待ってる」

は妓夫太郎の言葉を引き継ぐように、そう口にした。

「梅ちゃんと二人で、妓夫太郎くんが迎えに来てくれるのを待ってる。三人でここから出発しよう」
「・・・あぁ、そうだなぁ」

明日、三人でここを出て行く。念願の夢を叶え、新たな人生を歩み出すのだ。明るく希望に満ち溢れたの笑顔に、妓夫太郎は救われるような気持ちでひとつ頷いて見せた。

今日はこれだけで話を終わらせるつもりは無い。
妓夫太郎は否応無く心音を高める自身を叱咤し、呼吸を整えたのち正面のを見遣る。

、約束してた話を・・・」
「妓夫太郎くん」

珍しく、がその言葉を遮った。

「私も話があるの。先に言っても、良い?」
「・・・おぉ」


* * *



妓夫太郎から大事な話があると言われた時から、は今日こうすることを決めていた。板の床に三つ指をつき、丁寧に頭を下げる。

「・・・おい。、お前」
「妓夫太郎くん」

妓夫太郎が動揺しているのがわかったが、引き下がるわけにはいかない。の覚悟はとうに決まっていた。

「私と、夫婦になってください」

空気が静まり返る。
妓夫太郎の表情はからはわからないが、息を呑んでいるような気配がした。

「遊郭から三人で出たいって夢が明日叶うなんて、本当に嬉しい。妓夫太郎くんには心の底から感謝してる。だけど私、欲張りだから、そこで終わりにしたくない」

の夢は昔から、この遊郭を出て暮らすことだった。それが途中から一人では意味の無いことに気付き、妓夫太郎にそれを打ち明け、彼は見事その願いを叶えてくれようとしている。夢はひとまず終わる、立花が用意してくれた家は勿論、当面三人で暮らすことになるだろうことはわかっている。

けれどは、その先を望む。

「この先も、ずっと一緒にいられる証が欲しい。他の誰にも、妓夫太郎くんを渡したくない」

ここまでは、優しい二人をの夢に巻き込んだようなものだ。これから先のことは、確かな約束無しにはどうしたって不明瞭だ。は真剣な顔で顔を上げる。呆然としている妓夫太郎を見据え、はっきりとこう告げた。

「私が妓夫太郎くんを幸せにする」

その宣誓に、妓夫太郎が大きく目を見開いた。
そんな瞬間すら、その青い瞳が美しいと感じてしまうほどに、は彼を真剣に想っている。どうしても他の誰かには譲れない、この先も彼にとってのたった一人でありたい。物分かりの良い顔で諦めることなど出来ない。この想いの強さならば生涯誰にも負けはしない。

「だから、私と―――」

の言葉は、そこから先に続かなかった。
痛い程の力で抱き寄せられ、彼の胸に頬を押し付けられるような形で掻き抱かれる。妓夫太郎は肩で浅く息をしていた。彼の乱れる心音が伝わってくるようで、は鼻の奥がツンとする感覚に懸命に抗う。

「っふざけんなよ、お前・・・俺の台詞、根こそぎ持っていきやがったなぁ・・・」

妓夫太郎の声は動揺に震えていた。しかし今言われた言葉の意味を読み取り、は大きな安堵感に唇を噛み締める。
俺の台詞ということは、少なくとも気持ちは通じていたという解釈で合っている筈だ。ならば、もう一歩踏みこともきっと許される。

「・・・だって、もう待ちきれないよ」

不意の反撃に妓夫太郎の腕の力が緩んだ隙を、は見逃さなかった。震える両手でその顔に触れる。勇気を出せと自身に強く言い聞かせ、突然の接触に怯む彼の顔を引き寄せる。たかだか女の力だ、妓夫太郎が本気で拒絶する気があるなら容易く振り払えるだろう。しかしされるがままの妓夫太郎に、心底安堵したかのようにの顔が歪む。

塞いだ唇は薄く柔く、待ちかねた瞬間は遂に訪れた。時間は何秒ほどだったか、一瞬だったかもしれず。
そっと解放した際に彼の青い瞳に射抜かれ、の目尻から堪えていた涙が零れ落ちた。



* * *



ずっと考えてきたこと、話そうと思っていたこと、うまく行ったならしようと思っていたこと。その悉くを彼女から先越され、妓夫太郎は混乱と歓喜の狭間で翻弄され続けていた。

唐突に塞がれた唇は柔く暖かかった。離れていく熱に信じ難い気持ちで目を見開くと、はぽろぽろと涙を零しこちらを見ている。
やはり彼女の涙は綺麗だと、妓夫太郎はこんな時だというのに漠然とそう感じる。

「ずっと、こうしたかった」
・・・」
「妓夫太郎くんが好きなの、他の誰かじゃ駄目なの、妓夫太郎くんじゃなきゃ意味無いの」

それは、わかっていた筈の言葉だった。
彼女の気持ちは、もう何年か前からわかっていた筈だった。にも関わらず、正面からぶつけられた途端に酷く妓夫太郎の心は揺さぶられる。

「私はもう幸せなの、大好きな妓夫太郎くんの傍にいられて、これ以上どう表現出来るかわからないくらい幸せなの」

ずっと自信が無かった、彼女の隣にいられる未来を想像出来なかった、だから何も応えられず口にも出来ず、ずっと彼女を待たせていた。立花の助言を借りてようやく、何とか外の世界に出られる実感が現実味を帯び。こんな自分でもの隣にいられるのではないかと、小さな希望が見えてきた。

けれどはとうにその先を見据えている上、妓夫太郎の想像を遥かに超える大きさの気持ちでぶつかってくる。自らの存在全てを肯定し得るの言葉が、妓夫太郎の中の劣等感や卑屈な思いを溶かしていく。

「どうしたらこの気持ち、わかって貰えるかなって、どうしたらこの先もずっと私の傍にいて貰えるかなって、そればっかり考えてたら・・・私が、妓夫太郎くんを幸せにするって、約束することくらいしか、思い付かなくて・・・」

そこで遂に何かが決壊したように、が肩を震わせ涙に咽び始めた。
どうしたらこの先も一緒にいて貰えるか、だなんて。それはこちらの台詞だと口にしかけ、妓夫太郎は言葉を呑み込む。
の気持ちを甘く見ていたと言えばそれまでだが、こんなにも強く求められていたとは想像もしていなかったのだ。こんなにも強く、こんな自分を、が。

「・・・ばぁか」

心臓が熱い。妓夫太郎はその華奢な身体に手を伸ばし、今度は優しく引き寄せた。涙に暮れるは大人しく腕の中に収まり、その肩を小さく震わせている。途方も無い愛しさに妓夫太郎は目を伏せ、出来る限りそっと彼女を抱き締める。正直どのような言葉も表現も追い付かない様な気さえするが、きちんと話さなければならないと自身の心が叫ぶ。

「お前はとっくの昔から・・・俺の幸せそのものだろうが」

の肩がびくりと跳ねたような気がした。何を驚くことがあるのだろうか、いつだって特別な存在だったと言うのに。けれどいつまでも彼女の気持ちに甘え、これまで大事なことを口にしなかったのは妓夫太郎だ。友情以上の気持ちを向けられていると知りながら、自分もまた同じ想いを持っていることを仄めかしながらも、確かな言葉を告げずにここまで来た。

「ずっと待たせて、悪かったなぁ」

ずっと待たせた。の柔らかな笑みに見守られる度、温かな陽だまりの中にいるような心地がして、その優しさにずっと甘えていた。確証が無ければ自信など持てないことは、妓夫太郎自身が一番良く理解していた筈だったのに。
引き寄せたの拘束を緩め、その顔を両手で包み込む。涙に歪みながらも大きな瞳が物語る、真っ直ぐで熱い想いに、妓夫太郎は思わず苦笑を漏らしてしまう。

、お前がいなきゃ俺の人生は違ってた。梅と俺の二人きりじゃ、こうはならなかったんじゃねぇかと思う。お前が俺たちを、照らしてくれたお陰で・・・明るい幸せを、感じられた」

と出逢うまでの、地獄を一人で彷徨っていたような幼い頃の自分が、今の妓夫太郎を見たらどう思うだろう。とても自身の未来とは信じられないのではないだろうか。あの日の妓夫太郎を毒から遠ざけ、またある日の梅を救い、はこれまでの間ずっと、二人に惜しみない愛をくれた。感謝してもし足りない。は今も昔も変わることなく、妓夫太郎にもたらされた太陽のような存在だ。

「俺なんかじゃ、無理だと思ったこともある。お前の隣にいるのは、俺なんかよりもっと似合いの奴がいるんじゃねぇかと、考えたこともある」

例えばそれは、初めて碓氷という太刀打ちの出来ない強さを目の当たりにした時であったり。また、立花という育ちの良い同年代の男がを訪ねて現れたその時であったり。が優れていればいるほど、彼女が眩く思えるからこそ、隣にいるべきは自分ではないのではないかと、そう考えたこともある。
途端に不安げに眉を下げるには、最後まで聞けとその額に口付けることで応える。

「だけどその度に思ったんだよなぁ・・・諦めきれねぇ、って。無理矢理にでも、足掻いてみせるってよぉ」

幸せを知らなかった、孤独な頃には戻れない。こんなにも暖かな光を知って尚、暗闇へは引き返せない。

「こんな幸せ、今更手放せるかよ・・・」 

そう小さく呟き、妓夫太郎は祈るように目を伏せる。二人の額同士が合わさり、されるがままのの髪を妓夫太郎がそっと撫でる。その髪に差し込まれている青い簪が、指に触れた。大事に身に付けてくれているのだ、贈った側からすれば嬉しいことこの上無い。自然と口元が緩んだ。

、俺も今幸せだ。この先ずっと、お前無しじゃどう生きれば良いか・・・みっともねぇ話だが、正直わからねぇんだ」

今更、彼女無しには生きられない。何と罵られようと、何と嘲られようとも、さえ傍にいればそれだけで十分に幸せだと言うのに、これから先梅を連れて三人で外で生きていけるだなんて夢の様だ。
が目を見開く気配がして、合わさった額が離れたかと思えば、随分と近い距離でその黒い瞳に見つめられてしまう。涙の勢いは弱まった様に見えるが、依然潤んだその瞳はやはり美しい。妓夫太郎はその滑らかな頬を指先で撫で、期待に輝く彼女の瞳に笑いかける。

「随分と遅くなっちまったが・・・俺からも、言わせてくれねぇか」

完全に出遅れてしまったし、想定していた状況とは大分違う。けれど彼女の夢が明日叶う今なら、ようやく言えることがある。妓夫太郎の口から、言うべき言葉がある。

、俺と夫婦になってくれ」
「・・・妓夫太郎、くん」
「一生お前を離したくねぇんだ、頼む」

これから先も、この命尽きる日まで共に在りたい。答えはわかっていても、そう問わずにはいられない。お互いに既に幸せならば、これからは更に幸せにしたいし、自身もその幸せを噛み締めて生きていきたい。妓夫太郎を前向きに変えたのは他でも無いだ。ならばこの先は、自身を作り替えてくれたの笑顔を守り生きていく。妓夫太郎の顔がの方へと近付き、唇が触れ合うその刹那。

「・・・私のこと、好き?」

唐突な質問に、妓夫太郎の動きが止まる。思わず少しの距離を取り、静かに瞬いてしまう。
は僅かに頬を赤く染め、笑っていた。
妓夫太郎の名前が好きだと告げた、あの時の様に。少し悪戯に、得意げに笑っている。




『うめとおにいちゃんのこと、すき?』




不意に、幼い梅の声が思い起こされる。
そういう事かと、妓夫太郎は小さく笑う。こんなことは柄ではないけれど、がそれを望むなら。

「世界で一番大好きだ、ばぁか」

花が咲き綻ぶような笑みを見せたに、妓夫太郎は今度こそ優しく口付ける。目眩がするほどの幸せの絶頂に酔いしれ、二人は指先を強く絡めあった。



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