その面が阻むもの



いつかの祭の夜のことを、梅ははっきりと覚えている。賑やかな人々の雑踏、色鮮やかな灯籠の数々に、沢山の屋台。優しい兄と大好きなに手を引かれ歩いた大通り。そして、誰もが兄を忌避しない優しい世界。
そこに比べれば、いくら煌びやかに飾り立てても遊郭の祭はどうしたって劣る。見た目がどうあれ、あの灯火祭の暖かさには遠く及ばない。梅はそう信じていた。

おもて祭と呼ばれるこの催しは、遊郭中心街で毎冬行われている一夜だけの恒例行事だ。祭と言っても外の祭ほどの規模は無いし、中心街が豪華絢爛に飾り付けられているのはいつものことだ。しかし何故その一夜が祭と呼ばれるのか。
それは美醜の優劣で価値の決まる遊郭の中で、この一夜のみは面を被ることで格差を無くし、誰もが一夜を楽しむことが出来る催しの為だ。一風変わったこの祭は外からも集客が一定数あり、毎年この一夜の中心街は、面を被った人々が思い思いに祭を楽しむ賑やかな通りへと姿を変える。

一体どのような風の吹き回しで始まった祭かは不明だったが、梅も妓夫太郎もこの祭が昔から好きではなく、参加しようと考えたことも無かった。遊郭の人間たちの闇を知っていたし、そんな連中の中へ混じり、面を被り顔を隠してまで楽しい思いをしたいとも思わない。そもそも、相手が誰と悟られぬようにこんな面が必要な時点でこの街の程度が知れる―――と思いかけ、梅は考えを改めた。

「そうよね、こんな面なんて思っちゃいけないわ」

今手にしている狐の面は、あの夜に買った物。大切な思い出の品だ。梅がごめんなさいね、と呼びかけると、狐が笑い返してくれたような気がした。

「梅ちゃん?」
「お姉ちゃん待って!今行くから!」

ひょっとこの面をつけたと、その隣で天狗の面をつけた妓夫太郎が待っている。梅は狐の面をしっかりと装着し、羽織りを引っ掛け二人の元へ駆け出した。遊郭で暮らす期間は残り僅か、今日彼らは最初で最後のおもて祭に参加する。





* * *



「いや、こんなことってあるんですねぇ」
「ふふふ。本当に」

待ち合わせ場所で合流した立花が、まさかと同じひょっとこの面を付けて現れるとは。
感性も似通っているのか、しかし同じひょっとこの面が二人並んでいるのは奇妙な絵面だった。妓夫太郎が面の下で若干引き気味な顔をするのとは逆に、梅は興味深そうに立花の方を覗き込んだ。

「それを選ぶのはお姉ちゃんだけかと思ってた・・・」
「いやいや、よく見て下さい梅殿。なかなかに愛嬌のある顔ではないですか?」
「ふふふっ!やだぁ笑っちゃうから近付かないでよ先生!」
「近付くな・・・それは振りですか?」
「違うってば!ふふ、あはは!」

大層ご機嫌に笑い転げる梅を、待て待てと立花が追う。いつの間にか四人は二人ずつで歩くこととなり、梅と立花の後ろを妓夫太郎とが並んで見守る形に落ち着いた。尤も、妓夫太郎の胸中はまるで落ち着いてはいないのだけれど。

「そうだ先生、この前のね、生まれ変わりの話なんだけどね!」
「はい、どうしましたか?」

「チッ、いちいち距離が近ぇんだよなぁ」
「まあまあ、そう言わないで。今夜はお祭りなんだから」

前の二人が仲睦まじいことが、妓夫太郎の心臓には良くないらしい。は極力彼を刺激しない様、背中を撫で穏やかに宥めた。これまで縁の無かった遊郭の催しに参加を決めたのは梅であるし、立花を誘いたいと言ったのも梅なのだ。彼女が立花との時間を楽しみにしていたのは明白であるし、もその気持ちを優先してあげたいと感じている。妓夫太郎のことは自分の方で何とかしなくては、とは話題を変えることを試みた。

「初めて参加するけど、結構沢山人が集まってるんだね。毎年こうなのかな?」
「さあなぁ・・・梅が最後だから行くって言い出さなきゃ、俺も興味無かったしなぁ」

改めて見渡すと、なかなかに盛況な祭だ。皆一様に面を被っているのが異質ではあるが、これはこれで味のある雰囲気に仕上がっているようにも思える。妓夫太郎がこの祭に興味を持っていなかったことはも承知していた。しかし、今年はこうして渋々でも参加をしている。
他でも無い梅の願いを叶える為だ。恐らく天狗の面の下は仏頂面だろうけれど、それでも梅のためなら努力を惜しまない妓夫太郎のことがは好きなのだ。

「でも、興味無くても梅ちゃんのために参加してる。妓夫太郎くん、偉い偉い」
「よせって・・・ったく」

よしよしと、背丈の差を乗り越えるよう手を伸ばし、が妓夫太郎の頭を撫でる。やめろと言いつつも妓夫太郎は声を荒げなかった。は満足げに笑うと、不意に新たな発見をする。

「半分のお面の人も結構いるね」

の言う半分とは、目の周りから鼻の上部までを覆う上半分の面のことだった。実際に道行く客の半数ほどはそれを装着しており、面を売っている店もその形状のものを勧めているように見受けられた。目元が隠れていれば多少人相は判別し辛くはなるが、全面の物と比べればかなり開放的だ。
今しがたすれ違った女も上半分の面だったが、目元を隠しているせいで赤い紅がやけに主張を強めていたのを妓夫太郎は思い返す。他の女にまるで興味は無いが、この遊郭においてはあの選択が正しい場合もあるのだろう。

「まぁ、そうだろうなぁ」
「え?そうだろうって?」
「そりゃあ、鼻から下が自由になってねぇと色々不都合が・・・」

ひょっとこの面を通し、不意にの目に飛び込んできた光景がある。上半分の面を付けた男女だった。お互いの腰に手を回し合い、いかにもといった雰囲気で店へと入っていく。まだ店の暖簾を潜り切っていないにも関わらず、二人の顔が熱っぽく近付き、そして。

鼻から下が自由でなければという妓夫太郎の言葉の意味を理解し、の身体が固まった。

「あっ・・・・・・」
「・・・そこで黙んなよなぁ、気まずいだろうが」
「ご、ごめん・・・」

耳まで熱い、面では隠しきれない赤面がばれてしまう。は冬にも関わらずどっと体温が上がるのを感じ、困ったように俯きがちに苦笑を浮かべた。

「やっぱり、普通のお祭りとはちょっと違うよね。ここがどこだか、ちょっと忘れてた」

遊郭中心街と言えば、そうした店が主軸の通りだ。今日は出店等も賑わってはいるが、客層もその目的も外の祭とは根本的な部分が違う。面の下で焦っているであろうの表情が透けて見えるようで、妓夫太郎は小さく頭を掻いた。

「まぁ、流石に今日は見回りも徹底されてるみてぇだしなぁ。治安自体は、そこまで悪く無ぇんだろうが・・・」

は恐らく気付いていないが、一人歩きをしている女を狙って声をかけている男が何人かいる。上半分の面で赤い紅を見せ付けるような女が多い中、このようなひょっとこ面の女に声をかけようという男は少ない様な気もするけれど。

今宵もしっかりと飾り付けられている青い簪を見つめ、妓夫太郎はの手をしっかりと握り締めた。はっと息を呑むようにが顔を上げる。面を被っているにも関わらず、彼女の表情が読めてしまうのは何故だろう。

「こうしてれば、下手に寄ってくる奴もいねぇだろうからなぁ」
「・・・ありがと、妓夫太郎くん」

を守るのは自分の役目だ、しっかり果たさなくては。妓夫太郎はそうして強く自身を戒める。しかし、はそんな胸中など知らぬような素振りで小さく俯いて見せた。握られた手を見下ろし、そっともう片方の手も添える。

「・・・あったかい」

隠れていない耳を真っ赤にして、小さく呟く。その仕草が可愛らし過ぎて、今すぐにでも面を剥ぎ取りをどこかへ隠してしまいたい、妓夫太郎は天狗の面の下でそうした己との葛藤に歯を食い縛る羽目となった。

しかし、ふと我に返り異変に気付く。

「あぁ?」
「なに?」

前を歩いていた筈の二人がいない。

「・・・アイツら、どこ行ったぁ?」



* * *



「探してる探してる。でも、しっかりお姉ちゃんの手は握ってるわね、お兄ちゃんその調子」

路地の影から、狐の面が覗いている。
上手く二人を出し抜けたことに、梅は面の下の口角をにっこりと上げた。背後にいる立花もまたひょっとこの面越しにたちを見ているが、心配そうに梅と彼らを交互に見遣った。

「梅殿、本当に良いのですか?お二人に心配をかけて・・・」

梅がどうしてもと言うので従ったが、可愛い梅が突然いなくなっては二人も気が気ではないだろう。そうして立花は落ち着かない素振りを見せたが、今宵の梅は譲らない。

「良いの。今日は寝たふりも出来ないし」
「寝たふり?」
「ううん、何でもない。二人きりにしてあげたかったの」

面に隠された梅の表情は伺えない。しかし、彼女がただの悪戯でこのように隠れた訳ではないことは、立花にも察知出来た。

「こんなお祭りだけど、最初で最後だから。お兄ちゃんとお姉ちゃん、折角最近良い感じだし、二人だけで満喫して欲しい」

二人だけで。恐らくその言葉に嘘は無いが、どことなく淋しさを感じる声色だった。無意識なのだろうが、梅は兄との傍にいたい自分と、二人の時間を優先させたい自分との間で揺れているのだろう。健気なその姿に、立花の表情が緩む。

「梅殿は優しいですね」
「・・・そ、そんなこと無いけど」
「ご安心ください。妓夫太郎殿ほどの腕はありませんが、今宵は必ず、私が梅殿をお守りしますから」

梅が決めたことに、立花は付き添う決意を固めた。ならば妓夫太郎のためにも、大事な妹を預かったと思いしっかりと守って見せる。そうした意味をこめ、立花は任せろと胸を張った。

「・・・じゃあ、逸れないように手を繋いで」
「はい、喜んで」

戸惑いも無く握られた手は暖かく、妓夫太郎やとは少し違う触感に梅はドギマギと目を逸らす。
妓夫太郎ほど細く角張っておらず、ほど柔らかくはない、立花の手は一般的な男性の手だったが、梅にとっては初めての感覚で落ち着かない。

そこへ、すぐ近くからわっと歓声が上がるのを耳にした。たちは既に姿の見える場所にはいない。立花は梅の意向を優しく確認した後、歓声の聞こえた方向へと手を引いた。
煌びやかな一団が列を成し、それを人集りが囲っているような状況だった。禿から傘持ちの男まで例外無く面で顔を隠している中、一段と美しい女性の登場に歓声が大きくなった。

「よ!奥田屋!」
「霞姫花魁!」

花魁道中だった。今宵は祭の夜なので、本来の意味ではなく街頭宣伝の意味もあった様だが、霞姫花魁と呼ばれた女性は大層な人気を誇っており、彼女が一歩前へ進む毎に群衆が湧いた。
彼女は目元のみの面をつけてはいたが、美しさはまるで隠せておらず、むしろ目元が隠れることで絶妙な神々しさを放っている。そこに在り得た未来の可能性を感じ、呆然とその様子を眺めていた梅が口を開いた。

「アタシ、将来はああなるんだって思ってた」
「花魁に、ですか?」
「美しさと華やかさでどんどん出世して、この遊郭で一番の売れっ子になるんだって・・・」

梅には自信があった。見習いを終えたならば、どんどんのし上がって行くであろう自分の姿がはっきりと頭に浮かぶ程には、自身の美貌に自信があった。こうして花魁道中を目の当たりにした今ですら、それは自惚れではなく約束された未来だったと言い切れる。

「それでいつか、お兄ちゃんとお姉ちゃんに良い暮らしをさせてあげるんだって、そう思ってた」
「それで、見習いに志願を・・・?」

思いがけなかった梅の本音に、立花は暫し目を見開く。そこまで彼女が考えていたとは初耳だった。しかし、梅の言葉には続きがある。

「そうよ。だけど、お姉ちゃんの夢が外に出ることだって後から知って・・・アタシ、今更引き返せないのに・・・遊女見習いになったこと、すごく後悔した」

梅の言葉がほんの少し震える。自身にとってこれしか無いと決めた道だったが、入るは容易く抜けるは地獄だということに気付くまでに時間がかかり過ぎた。あの祭の夜にが口にした夢に、妓夫太郎が望み薄だと返した理由を理解出来る様になったのは、少し時間が経ってからのことだった。

「アタシを置いて二人で外に出てくれれば良かったのに、お兄ちゃんもお姉ちゃんも絶対アタシを見捨てないし、自分で二人の足を引っ張ってるの、すごく嫌で・・・」

自分さえいなければと考えたこともある。梅の存在が無ければ、二人は何の障害も無く外へ行けただろうかと。しかし妓夫太郎とからの愛情は梅にとって無くてはならない光であったし、幸いなことに二人もまた梅を必要とし続けてくれた。それが自分で理解出来ていたからこそ、辛かったのだ。

立花が、夢を叶える鍵になってくれるまでは。

「だから、ありがと」
「梅殿・・・」
「アンタが色々相談に乗ってくれたんでしょ?アタシを身請けして、外で仕事も家も困らないように、お兄ちゃん達を助けてくれたんでしょ?」

立花が現れた当初梅は誤解をしていたが、彼が親身になり二人に助言と助力をしていたことは今なら理解出来る。立花が二人の背を押して具体的な策を出した、だからこそ今がある。梅の後悔の日々は、立花が終わらせてくれたとも言えるだろう。
だから、ありがとう、と。繰り返し呟く梅を見下ろし、立花は何を思ったのか彼女の手を引いて歩き出した。
戸惑う梅の手を引いたまま、手頃な露店の前で立ち止まったかと思えば手早く買い物を済ませ、今度は腰掛けられるような長椅子を見つけ彼女をそこへ導いた。
何事かと目を白黒させる梅へと、立花自身は跪いて見せる。
予想もしなかった展開に、狐の面の下で梅の目が見開かれた。

「頑張る梅殿は、素敵です」

ひょっとこの面の下、優しく微笑む立花の顔が見えるような感覚と、いつぞやと同じ台詞に、否応無しに梅の鼓動は高鳴った。立花の手には先程購入したであろう物が収まっており、それが目に入ることで梅の息が一瞬止まる。

白い軸に青い硝子細工の施された、簪だった。

「これまで、よくお一人で頑張りました。これは私から、ささやかですが梅殿への頑張り賞です」

そっと髪にそれが差し込まれ、梅はされるがままで指一本動かせない。身体中が熱い。こんな気持ちは知らない。

「これからは、私と一緒に色々なことを学びましょう」

梅の葛藤とこれまでの奮闘を讃え、立花はこうした行動に出たのだろうけれど。あまりに淀みないその所作に、梅は妙な嫌な予感を感じ恐る恐る問いかける。

「アンタ、殿方が女性に簪を贈る意味って知ってる・・・?」

ひょっとこの面が、一拍の間を開けて横に傾いた。

「何か意味があるのですか?それは存じませんでした、是非教えていただきたいものです」
「もう!!良いわ、自分で調べてよね」

嫌な予感は的中した。この男、人の気も知らずに何て思わせぶりなことを。
梅が最初に感じたのは憤り。そして、それだけでは決して覆り様も無い嬉しさ。忘れられる筈も無い、熱い気持ち。

「言っとくけど、裏切ったら許さないから」

狐の面があって良かった。強がる顔が赤いことを、悟られずに済んだから。

「んん?穏やかではありませんね」
「そうよ、アタシを怒らせたら怖いんだから」
「ふふ。善処します」

彼女の耳が赤いことを知った立花が微笑んでいることを、梅はまだ知らない。




* * *



は暫し、妓夫太郎に声をかけるべきなのかを真剣に考えてしまった。
見失った立花と梅は、あれから思いの外早く見つかったのだ。しかし、妹が簪を差し込まれる瞬間を目撃した彼の心境は、には計り知れない。あれから梅と立花は引き続き祭を楽しむべく立ち去ってしまったし、結局たちは自然と住まいの地域へと引き返し始めているし、一体どうしたものか。

立花はから見て大変に素晴らしい友人だ。目前に迫る新生活に彼は本当に助力してくれたし、何より梅が彼を気にしていることも知っている手前、もし本当に良い縁となりそうであればも嬉しい、心の底から応援したい。けれど妓夫太郎の兄としての複雑な気持ちがあるのならば、表立って声に出すことも控えた方が良いのではないか。

「・・・余計なこと考えてるなぁ?」
「えっ・・・いや、うーん」

心を読まれたかと、は肩を震わせた。妓夫太郎はそんなことなどお見通しだと言わんばかりに息をつく。

「ばぁか。あれくらいでへこむかよ」
「妓夫太郎くん・・・」
「・・・梅が喜んでるなら、良い」

繋いだ手はあれから離していない。それゆえ、力加減の機微から動揺が伝わってに気を遣わせたのだろう。妓夫太郎は乱暴に自分の頭を掻き、深く息をついた。
偶然目にした光景に衝撃を受けなかったと言えば、嘘になる。けれど、狐の面に隠された梅の赤面を思えば、何も言えなくなってしまって。自然と足は中心街から遠退き、遂に慣れ親しんだ彼女の仕事場まで戻ってきてしまった。否、家を手放した今となってはの仮住まいである。
折角の祭会場から引き剥がしてしまって尚、ひょっとこの面は文句も言わずに自分を気遣っている。妓夫太郎は小さく自嘲気味な笑みを浮かべて天を仰いだ。

「あいつは、幸せに約束された男だからなぁ」
「え?」
「いや、別に・・・まぁ、万が一何年か後に、そういう話を持って来た時は喧嘩してやるけどなぁ」

何年か後の、そういう話。あえてぼかした言い方をしているが、妓夫太郎が妹の決断を尊重することへの証である。気が早いやら、何とやら。の内に生まれたのは、兄としての葛藤で疲弊したであろう彼を甘やかしたいという一念だ。

「ふふっ・・・妓夫太郎くん、可愛い」

は途端に微笑ましい気持ちになってしまい、妓夫太郎の頭へ手を伸ばす。時折自分がされるように丁寧にその頭を撫でていると、何だか癒される様な気さえしてくるものだ。指先でつむじから毛先までを辿り、妓夫太郎が大人しく沈黙しているのを良いことに、寒空の下何往復かしてしまう。今日は面で顔が隠されているせいだろうか、積極的に接触がはかれては上機嫌だった。祭はまだ続いているが、戻るのは梅たちと合流するくらいでも良いだろう。

「梅ちゃんには立花さんがついてるから大丈夫。少し火に当たって休んだら戻ろうね」

機嫌の良いは気付かない。天狗の面の下で、妓夫太郎がどんな顔をしているか。何も知らないまま扉を開け、開けた扉が閉ざされると同時に優しい拘束を受けることになるだなんて、考えもしなかった。

暗闇の中、壁に押しつけられるように身動きを封じられ、顔を隠していた面を鼻先あたりまで引き上げられて。
―――咄嗟に、先程の男女の様子を思い出す。

「っ・・・」
「・・・」

かつん、と音がした。

妓夫太郎の気配は間違いなくすぐそこにあるのに、少しの恐れと同時に待ち焦がれていた瞬間は訪れない。
まさかと、恐る恐るは片手で額のあたりを確認する。
中途半端に引き上げられた妓夫太郎の面から伸びた天狗の鼻が、同じく中途半端に引き上げられたの面に当たっていた。
極度の緊張状態から一変、の肩が小刻みに震え出す。
妓夫太郎もまた目が覚めたような思いで、小さな屈辱と気恥ずかしさに打ちのめされている様だった。

「ふっ・・・ふふふ・・・!天狗の鼻が、少し長過ぎた、ね・・・!」
「チッ、まったくだ・・・クソがぁ」

妓夫太郎が羞恥に悪態をつき面を完全に取り去ると、丁度も笑いながら面を取り去ったところだった。夜目が利いて、今日はほとんど見ることの無かったの顔が目の前にある。不意に目が合い、笑い声が止む。彼女は、緊張半分、期待半分のような目をして妓夫太郎を見上げていた。
試されているような気持ちでその顔に触れ、距離が近付き。

「・・・妓夫太郎、くん?」

その前髪を掻き上げ、綺麗な額へと唇を寄せた。

今宵は面越しで顔が見えないことが悶々と影響し、の様々な仕草が普段以上に響いた。辺りは露骨にそういった関係の男女で溢れ返っていた上、梅と立花の衝撃的な場面に遭遇し、とどめに人気の無い場所で可愛いと囁かれ甘やかすように頭を撫でられたのだ。限界を感じ一線を踏み越えかけたが、天狗の鼻に助けられたかもしれない。
何も言葉にしていない以上、これ以上踏み込むことは許されない。妓夫太郎は呆然とするを抱き寄せ、その髪に再度口付ける。

「大事な、話がある」
「・・・」
「ただ、今じゃねぇなとは、思ってる」

彼女を散々待たせている、それは痛い程に自覚している。
卑屈な自分が光へと一歩踏み出す、それは人生をかけた一歩だ、簡単には踏み出せない。

「身請けの前の日に、改めて話す」

覚悟を決めた、期日も決めた。
だからもう少しだけ、許して欲しい。
拘束をほんの僅か緩めると、腕の中のと目が合う。

「お前の返事次第で、続きをして良いか?」
「・・・うん」

は、普段通りの柔らかな笑みで彼を受け入れた。幸せの足音に耳を澄ますよう目を伏せて、妓夫太郎の腕が再度彼女を抱き締める。
梅の身請けは、十日後に迫っていた。


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