眠るには惜しい夜



結論から言うと、彼らの希望は受け入れられた。

妓夫太郎が梅の身請けを口にした時こそ門前払いを食らいそうになったものだが、その多額過ぎるとも言える金の山に女将は目を見開いた。まさか妓夫太郎がこれ程の大金を払えるとは思いもしなかったのだろう。梅の将来性を見込んでいた女将は突然のことに酷く狼狽えたが、から贈られた金額を上乗せした瞬間に勝敗は決した。立花の言った通り金は多いに越したことは無く、実際からの譲渡が今回の商談の決定打となったのだった。
まず妓夫太郎の分だけを提示し怯ませ、後からの分を上乗せで出すようにというのは立花からの指示だ。なかなかの策士である、妓夫太郎は心の内でこの賢い友に深く感謝した。

梅の身請けは無事受理される運びとなった。しかし、時期はあと二月待つことを条件として飲まねばならなかった。江戸でも名の知れた侍が梅を一目で大層気に入ったそうで、職務を終えて帰還する二月後に大金を払い宴の席を予定していると言う。
無論見習いの梅は先輩遊女の補佐としてしか同席は出来ないが、梅が同席しなければ遊女を何人侍らそうが一銭も払うつもりは無いという執心ぶりだそうで、これは店として決して断ることは出来ないと言い渡されたのだ。妓夫太郎は迷った末、その席を最後に梅の遊女としての終わりを女将に約束させたのだった。

や立花に無事報告を終え長屋へと戻った兄妹は、床に就いても尚眠れぬ夜を過ごしていた。ようやくはっきりと終わりが見えたことへの安堵、まだ見ぬ生活への期待と興奮、様々な感情が代わる代わる波のように押し寄せ、大人しく眠らせてくれそうにない。

「お兄ちゃん、起きてる?」
「あぁ・・・膝枕、するかぁ?」
「ううん、お話がしたい」

眠れぬ時は兄の膝枕を所望する梅だったが、今夜はそれが望みではないらしい。何かを期待するかのように隣の布団からこちらを覗き見る妹と目が合い、妓夫太郎は暫し考えた末自分の布団を巡り上げた。

「・・・こっち、来るか?」
「うん!」

どうやら読みは当たっていたらしく、梅は枕を持参の上妓夫太郎の布団の中へ潜り込んできた。

生活が多少安定してから変わったことのひとつに、まともな布団をそれぞれ持てるようになったことが挙げられる。陸続きに敷いているため、時折どちらかが寝返りの末相手側に乗り上げることもあったが、それも十分な広さがあれば微睡みの中で朝まで気付かない。大層幸せなことだ。
ぴたりと寄り添った梅は、満足そうに微笑んでいる。

「お姉ちゃんと先生、嬉しそうに喜んでくれたね」
「本当になぁ・・・二人してあれだけ大泣きしたらよぉ、明日は目が腫れて大変なんじゃねぇか?」
「ふふっ。お姉ちゃんと先生のそういうところ、アタシ好きよ」

思い返すのは女将との交渉を終え、吉報を持ち帰った時のこと。身請けが成立したと妓夫太郎が口にした瞬間、まずの目から涙が溢れ出た。止めどない感涙に咽せぶ彼女が愛おしく、梅に小突かれたこともあり妓夫太郎はその身を軽く引き寄せ宥めた。そこへ立花の貰い泣きが炸裂し、どころではなく滝のような涙を流し始めたものだから、その場は笑いと感涙の入り混じる混沌と化した。

妓夫太郎と梅の世界に、二人の何もかもを自分事のように一喜一憂してくれる存在が二人もいる。勝利や喜びを分かち合うことの素晴らしさなど、昔の自分は知る由も無かったことだ。妓夫太郎は改めて、と立花の存在に大きく感謝した一夜だったと言える。そしてそれは、梅にも似たようなことが言えるのだろう。興奮で眠るのが惜しいと言わんばかりに、その目を輝かせて妓夫太郎を見上げていた。

「嬉しい。もうすぐ本当に、皆の夢が叶うのね」
「あぁ。そうだなぁ・・・」
「楽しみなことが沢山あるの。寺子屋もそうだけど、町には美味しいお団子屋さんがあるって聞いたし、先生の弟の春男にも早く会ってみたい」

待ち切れないと梅は明るく笑う。その笑みを受け止め、妓夫太郎は不意に真面目な顔をして妹の頭を抱き寄せた。

「なぁ、梅。さっきはああ言ったが・・・無理に頑張ることは無ぇんだぞ」
「お兄ちゃん?」

本当なら今夜にでも、梅とを連れて強引に出て行くことも出来た筈なのだ。二月先の予約というのはあちら側の都合であり、より多くの大金で梅を身請けしようというのはこちら側だ。大人しく条件を飲むことは無かったのではないか、明日にでも撤回したところでこちらの優位は変わらないのではないか。こんなにも未来を心待ちにしている梅を前にすると、あと二月も彼女を縛り付けることは耐え難い苦痛に思えて仕方が無い。

「大金払うんだ。気の進まねぇ座敷のために、梅があと二月も耐える必要は・・・」
「大丈夫よ、お兄ちゃん」

しかし、妹は兄の想像より遥か先を行く。まるで妓夫太郎をあやすかのようにその背に腕を回し、ぴたりとくっついたまま穏やかに笑って見せた。

「二月なんてあっという間。きっと、外に出てからの楽しいことを考えてる間にすぐ最後の日になるわ。先生にも、アタシの新しい練習帳を作る時間をあげなきゃいけないし!」

この妹に諭される日が来るとは、時の速さは何たるか。眩しいほど前向きな梅の笑顔に、妓夫太郎は思わず苦笑を浮かべてしまう。
こんな時でも妹が口にする『先生』という単語は、本人は隠しているつもりだろうが甘えがだだ漏れな響きがする。本来なら気に入らないところだが、兄として妹が喜ぶことに水は差せない。

「お前は強ぇなぁ、偉いぞ」
「ふふっ。お兄ちゃんの妹だからね!」
「こいつ・・・なかなか言いやがる」

いつの間にこんなに大きくなったのだろう。いつまでも小さな妹と思っていたけれど、実際はこんなにも頼もしい。けれど、兄として心配なものは心配だ。妓夫太郎は憂鬱な溜息を飲み込むように堪え、伝えるべき言葉を厳選する。

「けど、気をつけろよなぁ。どこのお偉いさんだか知らねぇが、お前にかなり入れ込んでるって話だからよぉ」

梅に確認をしたが、会ったことも話したことも無い男だと言う。一方的に梅を見かけてその美しさに熱を上げているのだろうが、二月も先の予定に前金を惜しみなく支払っているというその侍は何者か。
あまり妹のすることに口を出したくは無いが、用心して欲しいというのは兄の切なる願いだ。そんな妓夫太郎の胸中を知ってか知らずか、梅は安心してと言わんばかりに声を上げて笑う。

「ふふっ。心配しなくても大丈夫よ、お兄ちゃん。姐さんたちも沢山侍る席だし、良いように気分良く貢がせて、頃合を見計らって最後に怒らせるようなことをすれば良いんだから」
「あぁ?怒らせんのかぁ?」
「お兄ちゃんっぽく言うなら、取られる前に取り立てるってところかしら?煽ててのぼせ上がった侍から、都合良く従順なアタシって幻想を取り立ててやるの」

取り立てる。
梅には似つかわしくない単語が飛び出したが、一瞬見えた横顔は確かに遊女のそれだった。現実の厳しさや男の浅ましさを知っている、妓夫太郎の知らぬ遊女の顔をして梅は続ける。

「男は単純よ、従順な女を演じてる内は馬鹿みたいに金を貢ぎまくるけど、自分の意のままに操れない女とわかればすぐ見限るわ。アタシは見習いだから下手な手も出せないし、好都合だと思わない?」

途中までは気分良く貢がせて、しかし二度と現れないよう最後の最後で思い知らせてやるのだと。従順を装っても、その幻想を取り立ててやるのだと、妹は言う。何と言う型破りな遊女だろう。そして、妓夫太郎が考えていたよりよほど頭を使って生きている。

「女将に恩なんて全然感じてないけど、良いところの侍からがっつり巻き上げる大金を餞別にくれてやるわ。それで何もかもお終い」

そこで遊女の仮面が剥がれ、妓夫太郎の良く知る妹が戻ってくる。梅は幸福な未来にうっとりと目を閉じ、希望に満ちた先のことを頭の中に思い描いている様だった。

「お兄ちゃんに買われて、お姉ちゃんと手を繋いで、アタシは堂々とここを出るの」

妓夫太郎が夢見た光景を、今梅もまた夢に見ている。二人が思い描く光景は、夢ではなく現実に、まもなく成ろうとしている。時間はたったの二月、妓夫太郎の心配には及ばない。梅は改めて兄の顔を見上げ、ほんの少し大人びた顔をして優しく告げる。

「お兄ちゃん、アタシの遊女人生最後のお仕事なのよ。二月待たせちゃうけど、しっかり最後まで務めさせて頂戴な」

妹は妹なりに、自分の人生に区切りを付けようとしている。しっかりと最後まで務め上げた上で遊女の自分を捨て、新たな人生を始めようとしている。そしてその両手を引く役割は、妓夫太郎とに当然の様に託されている。妹の成長と変わらぬ親愛に、妓夫太郎の頬が緩んだ。

「見習いが一丁前なことを言いやがる」
「お兄ちゃんひどーい!」

抗議の声を上げる妹を、愛おしげに抱き締める。
夜は長い、まだまだ二人は眠れそうになかった。



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