時満ちて



の母が急死したのは、その年の秋半ばの頃だった。

決して病気がちでは無かった筈のその女は、突然倒れたと思えば坂道を転がり落ちる様に容態を悪くして逝ってしまった。
思えば、と母は親子らしい遣り取りをまともに交わすことなく終わった。

幼き日のにとっての母は、自分の成すこと全てに腹を立てているような相容れぬ存在であったし、碓氷の介入により様々なことに口を出されなくなって以降も、親子と呼ぶには淡白過ぎる関係性が続いた。母は娘が世間から評価されていることにのみ機嫌を良くしたが、娘そのものには最後まで興味を示さなかった。もまた、遊郭という濁った世界で女将としてのし上がろうとする母を理解出来なかったし、理解したいとも思わなかった。

けれど互いに介入し合わないなりにも、唯一の肉親だったのだ。きっと自分が遊郭を去る時も母は無関心で、特別な言葉も無く別れ、しかしこの先も長く生きてここにいるものとは信じていた。それが崩れた今、彼女は自由を得ると共に不思議な喪失感を感じていた。

「お母上の御冥福を、お祈り申し上げます」
「立花さん・・・ありがとうございます」

突然の訃報にも関わらず、立花は駆け付けてきた。仏に代わるものは何も無かったが真剣な顔で暫し手を合わせ、遺族であるに深々と頭を下げる。今この仕事場には、他に妓夫太郎と梅しかいない。二人は彼女の傍に寄り添ってはいるが、何と声をかけて良いのか戸惑っている様にも見える。立花は幾分か気落ちしたを元気付けるかのように微笑んで見せた。

「私の母も、あちらの世にいるのですよ」
「え・・・?」
「春男を産んで間もなく。あの日は暑い夏の盛りでした」
「そうでしたか・・・」

思えば立花から、母親の話は終ぞ聞いたことが無かったことをは思い出した。年の離れた弟である春男が生まれて間も無く母を亡くしたのであれば、悲しむ暇も無く立花と父の二人で懸命に弟を育てたのだろう。立花は母を懐かしむように淋しげな笑みを浮かべてはいたが、それでもを気遣おうとする気持ちが痛い程に伝わってきた。

「誰彼構わず話好きな母でしたので、今頃は殿のお母上も巻き込まれているやもしれませんね」

きっと彼の母は、優しく朗らかな女性だったのだろう。は立花に感謝するように小さく頭を下げた。
すると、聞き役に徹していた梅がおずおずと手を挙げる。

「・・・先生、あちらの世って何?」

寺子屋の門下生のような素振りで挙手をする梅に、立花が優しく笑いかけた。

「人は肉体が亡くなった時、魂が天へ昇ると言われているのです」
「空に?」
「はい。夜空に輝く星々のように、亡くなった方々は我々を見守ってくれていると。私はそう信じています」

死後の世界についての記述は当時より様々な説が唱えられていたが、立花は魂が天へと昇る説を信じていた。死後の世界は存在し、それは地上からは星空のように煌めいて見えるほどの安らかな場所であり、自身の母はそこから家族を見守ってくれていると、彼は今も信じている。
立花の心中を推しはかることは梅には難しい事であったが、人は死後に星になるという話は彼女に新鮮な驚きを与えた様だった。

「じゃあアタシも、いつか星になるの?」
「ええ。梅殿も、妓夫太郎殿も、殿も私も。皆いつかはきっと。そして星として見守る役目を終えた時、再びこの世へと生まれ変わります。輪廻転生、と言われています」

りんねてんせい、と梅が口を動かす。知らない単語を呑み込もうと懸命になる梅に対し立花は小さく笑いかけた末、へと向き直った。彼女が母親とあまり良好な関係では無かったことは、一度耳にしたことがある。けれど、今こうして彼女が多少なり気落ちした様子でいることは、が母を心の奥底で拒絶し切れていなかった証なのではないだろうか。

「出過ぎたことでしたら申し訳ございません・・・殿と殿のお母上が、次なる地で巡り合う時は、より良き関係性となれますよう、お祈り申し上げます」
「立花さん・・・」

縁は繋がるものだ、来世が駄目ならその次でも良い。今度こそたちが親子の絆を結び直せるようにと、立花は祈りを捧げた。


* * *



「・・・お前、これからどうする?」

これまで黙っていた妓夫太郎が口にした台詞は、様々な意味を伴っていた。
亡くなったの母は、切見世を仕切る女将連中のひとりだ。自身の店も持っていたし、平家も所持していた。今こうして彼らが集っているの仕事場も、その敷地内にあたる。母が亡くなった今、それらを相続するのは唯一の肉親である彼女ひとりだ。店や土地をこれからどうするか、彼女自身はこれから先どうしたいのか、妓夫太郎はただの身を案じそう口にしたのだった。

としても、今後の話を彼らにしなければと考えていた頃合だったため、丁度良かったと小さく苦笑を浮かべて見せる。

「うん。私は今更女将を継げないし継ぐ気も無いし、引き継ぎたいって方がもういらしたから・・・お店や土地の権利や色々、買い取っていただいたの」

元々人間関係には恵まれなかった母ゆえ、弔意を示すような人間はこの切見世にはいない。その代わり、女将に成り代わりたいと言う人間が現れるのは早かった。とて、相続したところで何ひとつ生かせる訳でもなく、近くここを出て行くならば意味が無いと考えていた矢先の出来事で、渡に船とその取引に乗ったのだと告げた。

しかしそれは、自由と金を得るのと引き換えに、ここでの生活すべてを投げ出したということになる。妓夫太郎と立花は思わず険しい顔をしたが、がそれを先んじて制した。

「流石にすぐには立ち退けないだろうって、少しの間ここは間借りさせていただけるの、ひとまずは大丈夫。あまり長くは・・・いられないとは思うけど」

それは、これまでのの功績の賜物だった。今や遊郭外にも顧客を抱えているのだから、立ち退くにも色々準備も要るだろうと新たな女将は告げた。猶予は恐らくそう長くはない、しかしすぐに立ち退きを強要された訳でも無い。ひとまずの最悪は免れたことを察し、妓夫太郎は小さく息を吐いた。
しかしは話を続ける、ここからが本題だった。戸棚に納めた風呂敷を取り出し、包みごと妓夫太郎の方へと押しやる。

「妓夫太郎くん。このお金、梅ちゃんの身請けに使って欲しい」

妓夫太郎が驚きに目を見開くのがわかったが、の中でこれは既に決めていた使い道だった。
遊郭の外に出たいという夢は、の願いから始まった話だ。そこに妓夫太郎と梅を巻き込むような形になったというのに、は梅の身請けに貢献出来ていない。
歯痒く感じていたところに、母の相続全ての売買を持ちかけられたのだ。それなりにまとまった金額が用意されている、これを足しにして貰うことが出来ればきっと道が開ける。

「お姉ちゃん・・・」
「梅ちゃんを自由に出来る手伝いが私にも出来るなら、こんなに嬉しいことは無いもの」

不安そうな顔をしている梅の、その滑らかな頬に手を当てては微笑む。赤子の頃から良く知っているこの愛しい少女は、これから先外の世界で様々なことを学ぶのだ。
立花の言うような、たくさんの明るい可能性が梅を待っている。そのために協力出来ることなら、何だって喜んで差し出そう。
既にそうして決意を固めているに対し、妓夫太郎は難しい顔をして黙り込んでいる。そんな彼を見兼ねて立花が背を押した。

「妓夫太郎殿、私も賛成です」
「おい立花・・・」
「妓夫太郎殿がこれまでに稼がれた金額は、開示していただけているので私も承知しています。正直、私の見立てでは現段階でも梅殿の身請けに見合う額と判断します。ですが、より万全の構えで挑むならば、殿のお申し出も受けた方がより安全かと」

彼女に迷惑をかけたくないという妓夫太郎の気持ちは、立花にも理解出来た。しかし梅の身請けを完遂するには、彼の気持ちはどうあれ必要以上の金が不可欠だ。あくまで成功確率を上げるため、より安全な道を取るため。そして恐らく、自身がそれを強く望んだ末の決断だ。
妓夫太郎は立花の言葉に唇を噛み、梅に目を遣り、そして最後にを見据える。

「本当に、良いんだな?」
「うん。そうして欲しい」
「お姉ちゃん・・・ありがとう」
「うん・・・私も力になれて嬉しい」

飛び付いてきた梅を優しく抱き止めるは、満ち足りた表情をしていた。二人の傍へと寄った妓夫太郎が梅の頭を撫で、と優しく目を見交わす。
様々な手札が揃い、後には引けない状況になりつつある中、彼らはより一層絆を強めたように思える。

殿がここにいられる猶予が少なく、かなりまとまった金額を提示出来る今が好機かもしれません」

来るべき時が来た、立花はそう確信を強めた。

「梅殿の身請けを、決行いたしましょう」 



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