幸せを冠した男



「え?梅殿が、ですか?」

立花の嬉しそうな声に、は同じく嬉しそうに頷き返した。

「そうなんです。明日は久しぶりに稽古が一日休みなので、どうしても立花さんにお会いしたいと」

季節は夏。
が茅川町に来た際にこの青年の家へ立ち寄るのは、既に何度目かのことだった。当然、立花の決めた方針通り、常に彼女の隣を守っている妓夫太郎も一緒だ。

今日の要件は、明日立花をの仕事場に招きたいという誘いだった。久々に一日稽古から解放される梅が、立花を含めた四人だけで一日を過ごしたいと望んだためである。場所が彼女の住まう長屋でないことには、見習いではあるが人気の高まる梅を人目から隠す意味合いもあった。明日はもそれに合わせ、一日完全休業するつもりだ。

「別に、てめぇに会いてぇとは言ってなかったけどなぁ。暇だからよぉ、引き摺ってでも連れて来いとは言ってたが」
「ふふふ、意味は一緒なのに」

兄妹揃って素直になりきれない姿に、が笑う。立花もまた、嬉しそうに何度も頷いて見せた。

「お招きありがとうございます。喜んで伺いますので、梅殿にも宜しくお伝えください」

とある春の日に打ち解けて以降、梅と立花は一冊の練習帳のやり取りを交わすようになった。とはいえ梅は文字の読み書きが出来ない。ならばせめて自分の名前だけでも、見様見真似で何とか覚えたいと言い出した梅のためだけの練習帳だ。『梅』と『うめ』を彼女がひたすら書き写し、妓夫太郎とを介して受け取った物を、彼が添削する。梅の文字は黒筆、立花の文字は赤筆で、もっと善くすべき部分は手本を書き入れ、素晴らしい出来には大きな花丸を描き込んだ。
会話のやり取りは無いが、二人の間では十分に充実した時間になっていた様だった。渋々交換手を務める妓夫太郎も、立花からの添削済練習帳を受け取る梅があまりに楽しそうなものだから、ここのところは何も言えなくなっていた。

ともあれ、練習帳でのやり取り以外で梅に会えるのは大変に久しい。立花は梅からの喜ばしい誘いにウキウキと鼻唄が漏れてしまう程だった。そんな立花の足元に、小さな足音が近付く。

「兄ちゃん、おれは?」
「春男?」

立花の年の離れた弟、春男だった。妓夫太郎に救われて以来、彼を英雄と憧れているこの少年は、たちの来訪の度しきりに喜んで妓夫太郎の傍を離れない。幼いとは言え会話も小気味よく交わせる愛らしさは、ひと昔前の梅を思い起こさせ、妓夫太郎も今となってはこの少年に心を許すに至るのであった。

そんな春男が眉尻を下げて兄を見上げている。置いて行かれることへの抗議だった。

「おれも、梅の姉ちゃんに会いたいよ」
「春男くん・・・」

梅の姉ちゃん。会ったことの無い彼女を、春男はそう呼んでいた。妓夫太郎やからその話を聞かされ、兄からは自分より年上の綺麗な娘さんだと教えられている。何たって憧れの妓夫太郎の妹だ、春男の中で既に梅は特別枠の存在に昇格していた。
会いたい、何度かそう口にしているのだが、その度に兄が苦笑してこう告げる。梅殿はとても忙しいのだよ、と。ならば自分も兄と共に行きたい、そう告げても優しく断られてしまう。春男は今回も置いて行かれることを察して俯いてしまった。

幼い春男を遊郭に連れて行く訳には行かず、かと言って説明して理解出来る年齢とは思えない。悲しげに俯くこの愛らしい少年に何をしてあげられるのか。が思わず眉を下げた、次の瞬間。
春男の身体が背後からの腕によって引き上げられ、彼がきょとんとしている間に妓夫太郎の胡座の上へと収まった。

「・・・春男、お前は明日は留守番だぁ」
「鬼のお兄ちゃん・・・」
「そう気を落とすなよなぁ・・・」

妓夫太郎の細く長い指先が、春男の眉間を解すようにして優しく動く。それでも尚俯きがちな少年に、彼は特別な吉報をもたらした。

「もうじききっと、紹介してやるからよぉ」

今までは『いつか』だったものが、『もうじき』に変わる。春男はその違いに敏感に気付き、パッと顔を上げた。瞳を輝かせてこちらを見上げる春男の可愛さが否応無しに梅と重なり、妓夫太郎の表情も緩む。ぽん、ぽん、とその小さな頭を優しく撫でてやるのも慣れたものだ。

「梅は俺の自慢の妹だ。お前、梅があんまり綺麗だからよぉ、きっと驚くぜぇ?心の準備、しっかりしておけよなぁ」
「・・・っうん!じゅんび、する!」

これは妓夫太郎から春男への明確な約束だった。憧れの存在からの特大なご褒美に、春男はすっかり機嫌を良くしたのだった。この町で鬼なんて呼ばれてはいるが、まるで魔法の様な手腕で彼は少年の心を鷲掴みにする。
部屋の隅から妙な視線を感じ、妓夫太郎は顔を顰めた。

「・・・何見てやがる」
「いやいや、もう、妓夫太郎殿かっこ良過ぎですね、うん。これは子供たちにも大人気な筈ですよね」
「同じく・・・」


* * *



翌日の梅の機嫌は、一日中凄まじく良かったと言って間違いは無いだろう。練習帳でのやり取り以外で久々に立花に会えたことに、梅は表面上強がりながらも大層喜んだ。呼び方は『先生』と『アンタ』が入り混じり統一感はなかったが、そんなところがまた絶妙に可愛らしく、立花は終始にこにこと笑っていた。

暫くぶりの休みだと言うのに、まずは名前の練習を直接指導して欲しいと梅が言い出した時は年長者が三人して大いに驚いたものだが、立花がこれを断る筈も無く喜んで応じた。梅の熱意の源は立花が気になるためか、それとも外の世界へ出る実感が湧いてきた故なのか、それは誰にも計り知れない。
けれど帳面上ではなく直接指導され、直接褒められることで梅が嬉しそうにしている。その様子を目の当たりにするだけで、と妓夫太郎は癒されていく思いに包まれたのだった。



* * *



楽しい時というものは過ぎ去るのが早く、立花が持ち込んだ西瓜を冷やして食したり、四人で談笑している内に外は暗くなってしまった。

彼らは今、外にいる。の仕事場の裏側にちょっとした空き地があり、提灯を手に四人は夜道を進んだ。角を曲がった場所ゆえ、人目にはつきにくい穴場だ。
女性二人が腰掛けられるような場所を簡易的に仕上げ、立花は提灯の蝋燭から目当てのものに火を着ける。昨日誘いを受けてから、慌てて買いに走ったものだった。

「梅殿、どうぞ。気をつけて」
「・・・ありがと」

火のついた細い線香花火は、梅の手に渡ってすぐの頃は沈黙していたが、間も無くぱちぱちと小さな音と光を発し始める。梅の表情が見る見る内に驚きに綻ぶ様を、は幸せそうに隣で眺めていた。

「綺麗!」
「梅ちゃん、こっちも持って良いよ」
「ほんと?わっ、これも綺麗ね!」

夏の夜、線香花火を手にと梅がはしゃぐ。その様子をにこやかに眺め、立花は背後を振り返った。
妓夫太郎は今、少し離れた場所からこちらを見守っている。穴場とは言え火を扱う遊びをしているのだ、女性も二人いる以上はしっかり見張りをする必要があるというもの。人が通る可能性のある一箇所を塞ぎ注意警戒をする妓夫太郎に、流石の構えだと立花は感嘆の息を吐いた。

「妓夫太郎殿、見張り代わりますよ」
「やめとけぇ。ここらの荒くれ共はなぁ、お前みてぇな非力な奴じゃ拳一発だ」
「・・・面目ない」

立花は役に立てないことを素直に認め、頭を掻いて苦笑を浮かべた。しかし、その場から動こうとはしない。妓夫太郎は怪訝な表情で隣に佇む立花を見遣った。

「どしたぁ?戻って梅の機嫌取って来いよなぁ」
「いや、お役に立てないのはごもっともなのですが・・・妓夫太郎殿を差し置いて、殿と夏の風物詩を楽しむなんて、申し訳無さ過ぎるというか・・・」

立花がそこで口籠る。つまり、遠慮しているのだろうと妓夫太郎は察した。なんだそんな事かと目を逸らし、花火で遊ぶと梅に視線を向ける。

「別に、良い。そんな機会、この先いくらでも・・・」

この先、いくらでも。

口にしかけた言葉を咄嗟に途中で飲み込み、しまったと口元を押さえ隣を見遣る。
立花は目をキラキラと輝かせ、大層ニヤけた顔をして妓夫太郎を見ていた。

「あっ・・・ですよねー!そう、そりゃあそうですよねっ!お二人は末永く一緒な訳ですし、私が余計な気を回さなくてもこの先いくらでも」
「チッ・・・余計なこと喋らせやがって」

相変わらず、立花を前にすると余計に喋り過ぎてしまう。妓夫太郎は小さく舌打ちをして再びたちの方へ目を向けた。距離は多少あるが二人の姿は線香花火と提灯にぼんやりと照らされ、問題なく視認できる。二人を見つめる妓夫太郎の視線は柔らかく優しい。

と妓夫太郎の間で良い意味の何かがあったのだろうと立花が気付いたのは、もう大分前のことだ。
二人は変わらず公な間柄を名乗りはしないが、ふとした時の空気感が違う。より親密さを増して、見ている側が気恥ずかしくなるような、背景の色が変わりそうな熱さは、立花が二人と知り合った当初とは少し違う。
やはり、遊郭から出ることが現実的に視えてきたことが原因だろうか。だったら良いのだけれど、と。そうして二人を見守る立花へ、妓夫太郎から声がかかった。視線は変わらず、たちの方へ向いている。

「・・・お前の名前よぉ」
「はい?」
「コウタロウってのぁ、どういう文字だ」

これには、立花がおやと目を見開く。梅の名前の練習帳から、何らかの興味が湧いたのだろうか。しかし基本的に素直な性格ゆえ、疑問より先に正確な回答を口にする。

「『幸せ』に、あとは妓夫太郎殿と同じ太郎と書きます」

幸せ。その単語を名付けられたと、目の前の男は言う。妓夫太郎は暫し、ぼんやりと考えてしまう。
以前ならば、恐らく妬ましいと感じていただろう。妓夫太郎と年は同じ頃だが、育ちが良く将来継ぐ職もあり、名前まで幸福に恵まれた、神に祝福されたようなこの立花という男を妬み、憎みさえしたかもしれない、と。

「そうかぁ」

しかし、今そう思えないのは何故だろう。





『私、好きだよ。妓夫太郎くんの名前』





脳裏に刻まれた、彼女の赤く染められた頬。ほんの少し得意げに、しかし照れたように笑って告げられたその言葉は、なりの悪戯心と優しい気持ちが混じりあったものだと、妓夫太郎は知っている。他の誰がどう蔑もうとも、どんな意味があったとしても、好きだと。
にそう言って貰える自分は、例えどんな酷い名前であろうとも間違い無く幸せだと、わかっていたからだろうか。
そうして物思いに耽る妓夫太郎を、立花は微笑ましく見つめる。目は口ほどに物を言うとは、まさにこの事だ。

「ふふふ、妓夫太郎殿は分かりやすい。幸せなんですね、殿との日々は」
「・・・うるせぇ」

そうして照れ臭そうに目を逸らす、それでも数秒後には引き寄せられる様にを見てしまう。そんな妓夫太郎に倣い、立花もまた花火に興じる二人へと目を向けた。
丁度時を同じくして、と梅がこちらに手を振る。それに対し優しく手を振り返し、立花が口を開いた。

「妓夫太郎殿。私もね、幸せ者なんです」

妓夫太郎は今幸せなのだ。それがわかっているからこそ、立花にも今伝えたいことがある。

「家には健在の父と、可愛い弟がいる。自分の学びたいことも続けられている。それだけでも本当に恵まれた人生なのに、妓夫太郎殿という良い友にも巡り会えました」

普段の妓夫太郎なら、自分たちは友人だと告げると居心地悪そうに目を逸らすか、舌打ちをして話を変える。しかし今日の妓夫太郎はたちに目を向けたまま、黙って話を促してくれている様で嬉しい。

殿や梅殿も、今となっては私の人生で大切なひとたちです。貴方がたの次の暮らしのお手伝いが出来ていることが、私は大変に誇らしい」

花火を楽しむ二人を、友の隣で見守れることが嬉しい。十分に恵まれた人生を生きていたが、この新たな友人たちと巡り合えてからの数月の充実さは、立花にとって特別なものとなっていた。
三人で寄り添い生きてきたであろう妓夫太郎たちのことを、これから先も友人として見守り続けたい。立花の心からの気持ちだった。

「春男のこと、昨日ああして諭して下さって嬉しかったです。憧れの妓夫太郎殿との約束なら、きっと春男も心強く先を楽しみに待てる筈です」

もうじき、と妓夫太郎は言った。実際立花が働きかけている三人の仕事と住まいの問題も、もうじき形になりそうな気配がある。あと少しだ、きっと近い内、彼らと同じ町で暮らせる日が来る。

「ここを出られる日が、待ち遠しいですね」
「・・・あぁ」

いつに無く素直な妓夫太郎の返答が、夏の夜空に溶けた。



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