その名に意味をくれたひと
いつも通り仕事帰りに
の元へ寄り、いつも通り世話を焼いて貰い、いつも通り帰ろうとする妓夫太郎に、
が差し出した物があった。
「妓夫太郎くん、これ・・・」
紐で綴られた、紙の束だった。文字の読み書きは相変わらず不得手な妓夫太郎にもわかる、
の筆跡では無い。つまり。導き出した答えに眉間の皺を深める妓夫太郎を見て、
が苦笑した。
「そういう顔するだろうなぁって思ってはいたんだけど・・・ごめんね、梅ちゃんに渡してくれないかな?」
あえて聞かずともはっきりしている。立花からの預かり物だった。しかし賢い男である。梅へ物を渡す中間に
を挟むとは、これでは妓夫太郎は決して断れない。
「・・・しょうがねぇなぁ」
内心は破り捨てたい気もするが、顛末を梅が知ったら悲しむであろうことを考えると実行には移せない。加えて妓夫太郎が、色々癪に障る点はあれど立花を邪険にし切れないこともある。遊郭脱出にあたっては、一言では括れないほど世話になっている男だ、妓夫太郎は自身にそう言い聞かせる。実際は友人と公言し対等な立場で物を話してくる立花を、妓夫太郎の方も友と認識しつつあるのだが、それを素直に認められる程丸くはなりきれない妓夫太郎であった。
試しに頁を捲る。そこには、特定の漢字と仮名が記されていた。文章では無い、単語が繰り返し羅列されている。頁いっぱいには埋められておらず、右半分は必ず空白になっていた。読み書きはほぼ出来ない妓夫太郎でも、この単語は読める。
「うめ。梅。梅。・・・なるほどなぁ、自分の名前くらいは書ける様に、って言ってたなぁ」
それは、梅から立花にねだった手製の練習帳だった。読み書きは基礎中の基礎から出来ていない。それは今後寺子屋に通いながら学ぶとして、まずは自分の名前を書けるようになっておきたい。梅の熱意に立花は大変喜び、先日早速新品の墨と筆を買い与えていた。
少し気になる異性からの初めての贈り物に梅が目を輝かせ、妓夫太郎の苛立ちが頂点に達しようとしていたことは、
の中では笑い話だ。
「そうなの。読み書き出来なくても、ひとまず真似して書くことは出来る筈だからって。練習できるように作って下さったみたい」
さすが寺子屋の先生と呟き、
もまた妓夫太郎の手元を覗き込んだ。梅が見様見真似でも書き写し易い様、一文字一文字が大きく丁寧に記されている。なかなかの労力を費やしたであろう立派な練習帳だ。眠る時間も惜しみ、張り切って取り組む立花の姿が目に浮かぶ。
「梅ちゃん忙しい筈だから、もし時間と体力がある日に良ければどうぞって。立花さんから言伝」
「はぁー・・・伝える」
「ふふ、ありがとうね」
梅は相変わらず稽古で忙しい。身請け問題は慎重にならねばならず、その時が来るまでは気取られない様これまで通りを装う必要があった。本来なら立花が直々に教えたいところだが、そうした理由からそれは厳しいためにこの方法を取ったのだろう。妹が意識している男という点は大いに気に入らないが、梅が遊女以外の道を前向きに考え始めたことは大変喜ばしい。妓夫太郎の複雑そうな溜息に、
が小さく笑って見せた。
すると次の瞬間、不意に妓夫太郎の表情が静かなものに変わる。
「自分の名前くらい、か・・・」
ぽつりと呟かれたその台詞は、独り言の様だった。しかし、数秒考えた末に妓夫太郎は
を見る。視線は容易く絡まった。
「俺の名前、書けるかぁ?」
「え・・・?」
そこで
が即答出来なかった事には、様々な理由がある。
は妓夫太郎という文字を記せる。遠い昔に彼の名を噂で初めて聞いた時に、意地の悪い大人たちがその意味を嘲笑っていたことも覚えている。そして妓夫太郎は今、その名前を書けるかと
に聞いた。それが意味するところを図りかね、
は咄嗟に言葉が出ない。
「お前が思ってる字で多分合ってる。意味も知ってる」
「・・・」
「書いてくれねぇか?」
「・・・うん」
彼に対し誤魔化すことは出来ないし、したくない。
は墨と筆を用意し、妓夫太郎に座る様促した。
* * *
白い紙の上を、
の筆が滑らかに走る。程なく完成したその美しい文字の並びを、
の隣で妓夫太郎は見下ろした。
「・・・こんな字面だったんだなぁ」
その声色は、とても静かだった。自らの名を形作る様を改めて目にした割には素気なく、長年苦しめられた枷を目にした割には穏やかな、凪いだ響きがした。
は黙って妓夫太郎の話に耳を傾けている。彼は自分の名すらまともに書けはしない。しかし書けないその単語は、人の名とは到底思えないほど酷い意味を伴っていることも知っている。
「まともな親ならよぉ、子供につける様な名前じゃねぇってことは・・・大分昔から、わかってたんだよなぁ。なんでまた、こんな酷ぇ名前つけたんだって・・・餓鬼なりに、傷付いてた時期もあったかもなぁ」
母に直接聞いた訳では無かった。しかし母に聞かずとも、周りを取り巻く悪意の塊がそれを子守唄のように聴かせてきた。
正気であれば、実の子にその様な惨い仕打ちは出来ない。決して名付けはしないだろう。あれだけ醜く汚らしい子供が生まれてしまって、頭がおかしくなったのではないか。あのような化け物が実子だなんて、考えただけでゾッとする、と。
石を投げられ、嘲笑われ、蔑まれ、おまけに名前すらおよそ人間につけられる域から外されているだなんて。地獄の様な日々の中、ただひたすら運命を呪ったものだ。
あの日、
がその名を口にするまでは。
「けど、悪くねぇと思えるようになったのは・・・お前のお陰なんだろうなぁ」
気遣わしげだった
の眼が、驚きに見開かれる。
照れ臭いような気恥ずかしいような、そんな気持ちもあったが、妓夫太郎はそれでも尚話を続ける。
「こんな酷ぇ名前でもなぁ、
は何も気にしてねぇって顔で、普通に俺を呼んだだろ?」
周りの大人は汚らわしい物の呼び名の如くその名を陰で口にしていたが、
は違った。
時に嬉しそうに、時に元気良く、彼女は真っ直ぐにその名を呼ぶ。
がその名を呼んでくれるだけで、周囲の雑音は気にならなくなった。
「親には今更何の感情も無ぇよ。ただ、生まれて最初に貰った名前すらこんな酷ぇ扱いかよ、て・・・腐ってた俺にしてみりゃあ、お前が俺の名前を明るく呼んでくれる度に・・・」
妓夫太郎くん。
優しいその響きが、暗闇の中にいた妓夫太郎の手を引いてくれた。悪夢の始まりにすぎなかった悍ましい名前に、不思議と愛着が湧いた。
が呼んでくれるなら、それだけで。
「・・・救われた気が、してたんだよなぁ」
空白は何秒ほどだっただろうか。
は熱く込み上げる思いを堪えるように唇を小さく噛み、妓夫太郎の名前の隣に筆を走らせる。彼の名前が紙の中央なため多少均衡はとれていないが、今はそれでも構わない。
文字はぎりぎりで震えなかった。小さく息を吐き出して筆を置く。妓夫太郎は吸い寄せられるようにその文字を見ていた。
「・・・
。私の名前」
。
その字面は、長年その名を口にしていた妓夫太郎も改めて見たことの無いものだった。食い入るように真剣に文字を見つめる妓夫太郎の姿に、
は途方も無い愛おしさを覚える。
自分が名前を呼ぶことで、救われた気がしただなんて。
「私も、だよ」
その言葉に、彼の青い瞳が
の方へと向く。
は淋しそうに微笑んでいた。
「昔は今と違って、私のしたい事、周りからも全然わかって貰えなくて。勿論、家族もね。変わり者って呼ばれて、避けられて、誰も私の名前なんて呼んでくれなかった」
幼き日の
の境遇は、妓夫太郎のそれと比べれば劣悪さの程度がまるで違う。しかし、誰にも理解されることの無い彼女の世界に、安らぎは無かった。
初めての友は
のことを凄いと褒め称え、
のしていることは無駄ではないと認めてくれた。一度は誤解から決別してしまったけれど、妹の一大事で咄嗟に
を頼り、そしてその名を口にしてくれた。
あの日、世界が色を取り戻したような感覚を、
は今でも大切に記憶している。
「私も、妓夫太郎くんが名前を呼んでくれる度に・・・自分の名前が、好きになれた。あっても無くても変わらないって思ってた自分の名前が、特別に思えたの」
お互いに、名前を呼び合うそれだけのことを大事に思っていただなんて。同じ気持ちだっただなんて、自分がそうだったように、彼の力になれていただなんて、奇跡だ。
がそうして柔らかく微笑むのを目の当たりにし、妓夫太郎が僅かに身を乗り出す。
「・・・
」
真剣なその呼び方に、思わず
の肩に力が入る。しかし、その指先が向かう先は彼女本人ではなかった。
妓夫太郎の細く長い指先が、
と記された文字に触れる。丁寧に優しく、その指先が紙面を滑る。自身の名前に彼が触れて、そっとその表面をなぞる。そしてその青い瞳が、不意に甘やかに細められて。
「お前らしくて、良い名前だよなぁ」
その声色のあまりの優しさに、息を呑む。ずるい。
は喉まで出かかったその台詞を飲み込んだ。ずるい。
ではなく
の名前に触れて、そんなことを、その様に甘く口にするだなんて、ずるい。
の気持ちを知っていてそんなことをする妓夫太郎は、ずるい。
その刹那、
は気付く。
今なら、状況が少しずつ変わりつつある今なら、少しくらいは許されるのではないかと。悪戯心を盾に、もはや抑えが効かなくなりそうな本音が顔を出す。
「私、好きだよ。妓夫太郎くんの名前」
直球な表現に妓夫太郎が身を固くするのがわかったが、
は頬を赤らめたままほんの少し得意げに笑う。誰が何と言おうと、どんな意味があろうとも、その名前が好きだ。そして彼自身のことを―――
「・・・う、わっ」
途端に、乱暴にならない程度の力で髪を撫で回される。下心や悪戯が過ぎただろうか。そうして小さく声を上げる
の内心を、知ってか知らずか。
「ばぁか・・・言わねぇからなぁ、まだ」
まだ。
その言葉の意味に、え、と
が瞬くその瞬間。妓夫太郎は、彼女の身を引き寄せた。
「あと少しだ」
妓夫太郎の肩口に、頬を押し付けられている。すぐ傍から妓夫太郎の声が聞こえる。細いけれどしっかりした腕に、そっと抱かれている。信じられないような心地で、
はその言葉を聞いた。未来を約束は出来ないと言っていた、約束は出来ないけれど精一杯足掻くと言ってくれた。そんな妓夫太郎が、あと少しだと言っている。
今ようやく、妓夫太郎の中の未来が現実味を帯び出した。
細く大きなその手が、慈しむように
の髪を撫でる。
「・・・本当に、あと少しだからよぉ」
「うん・・・わかってる」
例え様も無い幸福に、
の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。