帰るべき箱庭






その泣き声は、まるで幼子の様だった。

「もぉーっ!!悔しいっ!!あとちょっとだったのに!!」

声を上げて泣き叫ぶその様は、思い通りにならないことに癇癪を起こす子どもと何ら変わらない。
尤も、ただの子どもは命のやり取りで悔しがることもしない上、美しい涙を流す堕姫は幼子ではなく鬼である。

その晩、鬼殺の柱が命を散らした。
ほぼ互角の力比べの末押し負けたことを、この美しき鬼は屈辱だと涙ながらに憤っている。兄によって侵略者は排除されたが、結果として戦果さえ上げれば良しと割り切れる程今宵の堕姫は機嫌が良くは無かった。
自室であらゆる物に当たり散らし、ひっくり返り泣き喚くその頬へ、静かに白い手が触れる。慈愛に満ちた穏やかな微笑みが、堕姫を見下ろしていた。

「日の本一美しい顔が、涙ばかりでは勿体ないわね」

涙に暮れるその表情が、途端に甘える色へと姿を変える。堕姫はの膝へ縋り付く様に抱き着いた。

「だっ・・・だってぇ・・・!!」
「さあ、もう泣かないで頂戴な。大丈夫、貴女の頑張りはあの御方も見て下さっていた筈よ」

その手はどこまでも優しく、堕姫の全てを慈しむ。
白く冷たい指先に髪を撫でられ、何もかもを肯定する言葉の雨に、美しき女鬼は漸く泣き伏せていた顔を上げた。
見下ろして来るの表情は、変わることなく柔らかなままだ。

「あんな立ち回り、私にはとても出来ないわ」
「・・・そりゃあ・・・そう、かもしれないけど」
「上弦の鬼だもの、貴女は特別選ばれた存在よ」

ひとつ、ひとつ。称え励ますその声が、背を支える様に堕姫の中へと染みていく。涙の止まりそうな気配に、は安堵と共にその目尻をそっと撫でた。

「私が戦いで役立てない分まで頑張ってくれて、本当に感謝しているの」

は鬼だ。堕姫と同じ遊郭で、青い彼岸花に関する情報収集及び鬼狩りの排除を命じられている。前者に特化した女はまともな戦闘には不向きだった。それを恥じ入る様に、同時に心からの感謝を込めては堕姫の頬に触れる。

「ありがとう、大好きよ」

疑う余地の無い好意に、堕姫の頬が綻ぶ。
涙はいつの間にか、止まっていた。

「・・・フフッ。もう、わかってるってば」

じゃれつく様に再度腰へと抱き着かれ、は穏やかな笑みをもって堕姫を包み返す。
その柔らかな表情の奥に隠された僅かな翳りを、彼女の内側から見抜かれていることには気付く由も無かった。





* * *





奥田屋を焼いた夜から幾分かの年月が流れた。新たな拠点として京極屋へと身を移して以降、の日々は忙しない。
蕨姫花魁の世話役として店の人間と堕姫の間に入り事を穏便に取り成し、精度の高い擬態で“人間”として夜の街で情報収集に明け暮れる。和葉の為すべき仕事はこれまでと何ら変わらない。鬼の身体は眠りを必要としない為使える時間は多いが、多忙な生活においてはそれでも余裕はあまり無いと言えた。
文机に向かい静かに筆を走らせる。信頼を勝ち得るには店での働きも必要不可欠だ、はどんなに些細な頼み事であろうとも喜んで引き受ける。気難しい花魁のことは彼女に任せれば安心だと、店中の人間から全幅の信頼を得られるまであと一息。
大丈夫だ、奥田屋でも同じ様に地盤を固めて来た。これまでもこれからも、大事な存在の役に立つのだと。和葉は切なる意志を静かに燃やす。

雑用とも呼べる書き物を仕上げたその刹那、女は不意に姿見へと目を向ける。鏡越しに絡んだ視線に、その黒い瞳が丸くなった。部屋の隅に、見間違える筈も無い相手が立っている。
気配に気付けなかったことに自身が最も戸惑う様な顔をして、が苦笑を浮かべた。

「ごめんなさい、気が付かなくて」
「日暮れに始末した奴のことかぁ?」

会話は一見成り立っていない様に思えた。しかし、は目を見開き直接背後を振り返る。
妓夫太郎は普段通りの気怠い様子で立っていた。顰められた眉の下、その禍々しい瞳は女を逃がすことを許さない。穏やかな微笑みの下に隠した何らかの異変を、更にはその原因が何であるのかすら見通して彼はを追い立てた。

「隠し通せると思ってるなら、考えが甘ぇんだよなぁ」

今宵兄妹が柱と交戦するより前に、が一人の男から“情報を抜き出した”ことを妓夫太郎は知っている。どこか陰のある表情が見え隠れし始めたのはそれ以降だ。店の人間は勿論のこと、妹は騙せても決して誤魔化されはしない。そうして追及する妓夫太郎を前にして、は一拍の間を置いて緊張感を解いた。

「ありがとう、心配をしてくれるのね」
「・・・」

心を開いた笑い方をされると、妓夫太郎は途端に声を封じられてしまう。
そんな意図は無いと、誰が心配などしてやるものかと。ただ、隠し事は通用しないと理解させたかっただけだと、否定の言葉が出てこない。あらゆる強がりが無意味に思えて仕方が無い。妓夫太郎にとって目の前の女は、妹とは別の意味で敵わない存在だった。

「誰にでも、帰りたい場所があるものよね」
「あぁ・・・?」

静かな語り口調は、どこか遠い目によって哀愁を帯びた。唐突な切り口に怪訝な顔をする妓夫太郎に対し、女は僅かに微笑んだままだ。
のやり方は一貫している。獲物を捕らえ、苦痛を伴わぬ毒で時間をかけて思考そのものを奪い取り、欲しい情報を抜いた末眠らせる様に葬る。無駄な数を仕留めもせず、必要以上にいたぶることもしない。残虐性は皆無であるが、狙った獲物は決して逃がさず静かな終焉を与える。
いつだったか、一番怖いのは誰の血鬼術かと妹が笑っていたことを妓夫太郎は思い出した。

「情なんて言葉、笑い飛ばす様な殿方だったわ。目に見えるもの以外は信じないし、金で欲を満たせるここの仕組みは単純で良いとも言ってた」
「・・・」
「でも、そんな人間が最期に口にしたの。家に帰りたいって」

珍しいこともあるものだ。が口にした人間の最期は、確かに妓夫太郎にもそう思わせる程稀な事例と言えた。
術にかかったら最後、普通の人間であれば男女問わずの虜と成り果てる。毒とわからぬ毒に刻々と心身を支配され、女の欲しい情報を喜んで吐き出した頃に正常な思考能力が残る者はそういないだろう。

「私の血鬼術で、頭はまともに働かなかった筈。大抵の人間なら、何の憂いも無く安らかに逝かせてあげられるのに。涙を流すほど、悲しませて・・・最期に悔いを残させてしまったの」

ここに至り、妓夫太郎は話の雲行きが怪しいことを察知した。
血鬼術に抗う精神力を備えた人間は確かに脅威だっただろう、しかしが憂いているのは恐らくその点では無い。

「手を下したこと自体に後悔は無いわ、これが私の役割だもの。でも私が未熟なばかりに、可哀想なことをしてしまったと思って・・・」
「・・・お前なぁ」

嫌な予感が的中したとばかりに、妓夫太郎は重苦しい溜息を吐いた。
女は人間を穏やかに殺してやれなかったことを憂いている。
に対して妓夫太郎が抱く感情は紛れも無く悪いものではなかったが、今日という今日は不満が重い蓋を押し上げ溢れ出てくる感覚を味わう羽目となった。当然、気持ちの良いものでは無い。
誰にでも帰りたい場所はある、それはそうだろう。しかし、も同じ鬼ならば少しはこの憤りを理解してくれても良さそうなものではないだろうか。

「帰る場所なんて言うからにはよぉ・・・当然、気が休まる筈だよなぁ?」
「え・・・?そうね」
「だったらおかしいよなぁ・・・俺は今、気が休まるどころか苛立ってしょうがねぇんだが」

瞬間、女の目が唖然としたかの様に見開かれたが、妓夫太郎は構わず距離を詰め傍へと屈み込む。不満一色という表情を隠すこともせず、かと言ってに直接ぶつける訳にもいかない苛立ちを何とかすべくその手は硬く握られていた。

気に入らない。取るに足らない下等生物一匹の死に際まで気に掛けるの考え方が、気に入らない。悔いを残させたから何だ、涙を流させたから何だと言うのだ。

「殺しも喰うことも最低限な点は気に入らねぇが、それがお前なりの流儀だってことくらいはわかってるつもりだ」
「・・・」
「けどなぁ、奴らが死に際に泣こうが喚こうが、そんなもんは、」
「あの、話を遮ってごめんなさい」

どうでも良いと続けようとした言葉が遠慮がちに遮られ、妓夫太郎は違和感に目を瞬いた。
の様子がおかしい。胸の内を隠していた時とも、素直に今日あった出来事を告げた時とも違う。更に言うならば、普段の落ち着き払った様子とも違う。

「違っていたらとても恥ずかしいから、正直に答えて頂戴ね」
「あぁ?」

言おうか、言うまいか。小さく開閉を繰り返す口元が、決意を固めた様に一文字を結んだ末にが目線を上げる。

何故だろうか。普段より若干幼く見えるその表情に、酷く胸の奥が騒いだ。

「私が貴方たちの帰る場所になれていると―――そう、聞こえた気がしたの」

女は何を言っているのか。今更、何を言っているのか。しかし改めて問われると答えに詰まってしまう感覚に、妓夫太郎は奥歯を噛み締めた。
の行き過ぎた甘さを厳しく忠告してやるつもりが、何故こちら側が不意を突かれた様な思いをしなくてはならないのか。深い溜息を吐き出し、妓夫太郎は眉間に皺を寄せる。
まったく、何を言っているのか。あれほどまで、泣き喚く妹を温かく迎え入れておきながら、今更何を。
未だやや緊張した様な面持ちで答えを待つ女を見据え、その手が躊躇いがちにの目元を覆い隠した。当たり前のことである筈が、目を見てはどうしても言えない。

「・・・他に誰がいるってんだ、ばぁか」

細く、が息を吸う音が聞こえた。隠した目元の下で、形の良い唇が驚きと喜びに瞬間震え、そして綻ぶ。抵抗するつもりも無く妓夫太郎が力を抜くと同時に、女の細い腕が首元へと絡みついてきた。幼子の様な反応の良さはらしく無いとも思うが、互いに座り込んだまま、正面からの抱擁は顔を隠すには丁度良い。表向き面倒臭そうな溜息は吐きながらも、その華奢な背に腕を回す表情は優しかった。

「こんなに誇らしい役割を貰えるだなんて、思わなかったわ」
「今更かよ・・・」
「ええ、そうね・・・確かに今更かもしれない。でもね」

そこで一度言葉を切ったが、頬擦りをしながら耳元で小さく笑う。その吐息が、やけに熱い。

「貴方の口から聞けたことが、堪らなく嬉しいの」

何かあったのかと思いきや、心底どうでも良いことで頭を悩ませこちらを苛立たせる。今更のことを改めて問い返し、何もかもさらけ出す様な好意で包み込んで来る。
これだから敵わないのだと、妓夫太郎は腕の中の温もりを更に引き寄せ深く息を吸った。何があろうとも兄妹にとってこの女鬼は、代わりのきかない帰るべき場所だ。

「ありがとう、私は果報者ね」
「・・・うるせぇ」
「ふふ。照れてしまった?」
「違ぇんだよなぁ」

今宵の女は、やはり普段とは少し違う。
閉ざされた部屋の中、こんなにも密着しておいて未だ喋るのをやめないとは。
痺れを切らした妓夫太郎の手が、瞬間身体を離した隙にの顎を固定した。
至近距離で、互いに目が合う。

「そろそろ、黙れって言ってんだ」

黒い瞳は心得ている様に和らぎ、そして静かに閉じられた。