燃ゆる箱庭



「さあ、教えて頂戴な」

咽返る花の香り、降り注ぐ暖かな陽の光。
全て血鬼術による幻覚とは到底思えない幸福な空間で、遊女は女の膝を枕に四肢を投げ出していた。

という名の花魁付きの女に、何故こうまでも強烈に惹かれるのか、何故こんなにも心が開かれているのか。刻一刻と毒とわからぬ猛毒に侵されていく中では、何ひとつ遊女の頭は正常に働かなかった。脳を浸食する甘い香りの発生源が花なのかなのか、それすら判断がつかない。
ただ、心地の良いこの瞬間を逃したくない。その一心で遊女の手がの腰を掴んだ。

「貴女は何を知ってしまったの?」

柔らかな温もりを差し出され、優しい問いかけに促されてしまえば、普通の人間では抵抗など出来る筈も無い。
強制的に心が開かれている異常事態にも関わらず、まるで自ら望んだことの様に遊女は言葉を紡いだ。

「・・・珠姫花魁は、化け物」

その一言にがはっと目を見張ったことにも気付かず、遊女はより強く甘い香りへと擦り寄った。擦り寄らずにはいられない、といった表現が正しいだろう。同性であろうとも異性であろうとも、この幻覚の中で彼女に魅了されない人間は存在しない。そうした特殊な術だ。

「アタイと一緒に店に入った子が・・・花魁の気に障って・・・部屋に呼び出されたのを、心配でついて行ったんだ・・・」
「・・・それで?何を見たの?」
「あの子が・・・帯に取り込まれるのを、見ちまったんだよ・・・。花魁の姿も、人間とは思えない、異形だった・・・」

決定的な瞬間を見られてしまった。は暫し目を瞑り、再度遊女の頭を優しく撫ぜた。

まだだ。まだ、この従順な獲物から引き出すべき情報は残っている。

「そう・・・。それを知っているのは、貴女だけかしら?」

見てはならないものを見たこの遊女ひとりなら、今この場で片が付く。
祈りのこもった穏やかな問いかけだったが、遊女の口からは望ましくない回答が零れ落ちた。

「アタイと、同部屋の子たちは・・・もう、知って、る・・・女将、さんにも・・・さっき、話して・・・き、た・・・」
「・・・よく、わかったわ」

僅かな溜息を吐き、は身を屈め遊女の頭を慈しむ様に包んだ。毒が回り言葉が上手く出なくなるまで、この獲物は大切な情報を吐いてくれた。状況は限りなく悪いが、この憐れな遊女には感謝しなくてはならない。

「ありがとう、良い子ね・・・おやすみなさい」

最期は穏やかな眠りに就く様に逝かせることは、情報提供への返礼だ。柔らかな幸福に包まれたまま遊女が静かに息を引き取ると同時に、美しい花園の幻影は消え去った。

ここは遊郭、奥田屋の一室。日中でも陽の光など一筋も差し込むことの無い、小さな部屋だ。
隅に罰の悪い顔で佇んでいる美しいひとに向けて、は静かに口を開いた。

「潮時だったのよ、きっとね」
「・・・アタシのせいだって、怒らないの?」

決定的な場面を見られ、更には店の中に情報が広まりつつあることがわかった今、これ以上店にはいられないだろう。
しかしこの店には随分と長い間入り込んでいたのだから、いずれは怪しまれない様姿を消す必要があったことも事実である。
普段であれば決して自分は悪くないと言い張るであろう堕姫が珍しく縮こまっているさまが、の目にはこれ以上無く愛おしく映った。

「怒ったりしないわ、いらっしゃい」

優しく微笑みかけられたことで、堕姫の暗い顔にぱっと喜びの色が浮かぶ。
物言わぬ屍を塵の様に押し退けての膝へ身を投げ出すさまは、母へ飛びつく幼子を思わせた。
多幸感に目を細める美しい顔を見降ろし、の頬も柔らかく緩む。残忍で冷酷な上弦の鬼が、こうして無防備な姿で甘えてくれることが嬉しくて仕方が無かった。

「少し時間を置けば、また別の店で一からやり直せるわ。貴女は日の本一美しいんだもの、きっとまたすぐに花魁まで駆け上がれるわね。あの御方も、きっとお喜びになるわ」
「・・・そう思う?」
「勿論よ。貴女なら大丈夫」

人間たちの中に溶け込み、青い彼岸花について情報を探り、鬼狩りを排除する。この命を受け彼女たちは始祖に生かされているが、どんなに擬態しようとも鬼は鬼だ。どうしたってどこかに綻びは生じてしまうものだろう。
うまく行かなかった時は再度やり直しがきく。老いず死なずの身体だからこそ許された特権だ。特に美しい彼女であれば、きっと次の店でも瞬く間に花魁になるであろうし、より早く拠点が定着すれば始祖たる存在も喜ぶ筈だ。甘える堕姫にひとつひとつを言い聞かせる様に告げ、の指先が優しくその額を撫でた。

「次はどんな名前が良いかしら?やっぱり、姫の一文字は付けたい?」
「ふふっ・・・お姉ちゃんが決めてよ」
「あら、大役を仰せつかってしまったわね」

と堕姫に血縁関係は無い。にも関わらず、何故姉と呼ばれ慕われているのか。そもそも彼女たちは、いつからこうして傍にいるのか。この信頼関係は、いつ芽生えたものなのか。

人間であった頃の記憶は遠い昔にすっかり手放してしまったが、それでも心の奥底に残るこの愛おしさを糧に、三人は寄り添いながら生きている。

「そうね・・・少し、ゆっくり考える時間が欲しいわ」
「店が燃えてる間に、考えたら良いんじゃねぇかぁ」

不意に堕姫の中から低い声がしたと思えば、次の瞬間には背後に立つ気配を捉え、がそちらを見上げ微笑んだ。

店を燃やすとは不穏な話題であったが、鬼である彼らにとっては些末なことだ。獲物をいたぶること無く苦しませずに消す手法を含め、鬼にしては人間らしさを色濃く残すであったが、彼ら兄妹の大事に関わることであれば話は別だった。速やかに解決することで彼らを守れるのならば、放火だろうが何だろうが迷わず手を下せる。

「今晩の内に済ませてしまう?だったら、もう少し食糧を蓄えてからの方が・・・」
「いらないわ。食べられる程度に美しい奴は、もう保存してあるから」
「そう。この子はどうするの?」
「お兄ちゃんが食べて。不細工だからアタシはいらないわ」
「お前なぁぁ・・・偏食も大概にしろよなぁ」

堕姫に押し退けられ転がった“食糧”を前に、彼らは何てことのない世間話の様に穏やかに会話を続ける。
人間には到底理解出来ないであろう血肉に塗れた悍ましい世界の中を、三人は彼らなりの平和を築き生きている。
群れない筈の鬼が説明のつかない絆で結ばれた結果、こうした異様な光景が生まれることとなった。

「・・・お前は」
「私は大丈夫」

膝枕を堪能し上機嫌な妹を見遣りつつも、食糧に手をかけた妓夫太郎がに声をかけるが、彼女は緩く首を振るばかりだった。

「この店最後の獲物だもの、美味しく召し上がれ」



* * *



奥田屋から火の手が上がり、真夜中の遊郭は大きな騒ぎとなっていた。唸る様な凄まじい音を立てる炎は生き物の如く、店の全てを呑み込んでいく。これで永く君臨した花魁は事実上、焼け死んだと装うことが出来た。

火消しの到着は未だ叶わず、街の人間たちが恐怖に震えるさまを、と妓夫太郎は現場から離れた屋根の上で眺めていた。暗闇に存在を主張する炎は、圧倒的な力を感じさせると同時にどこか美しい。ぼんやりとその赤を目に焼き付けながら、は膝を抱えて傍らに立ったままの妓夫太郎を見上げた。

彼が何処か遠い表情をしている理由はひとつ、妹が無限城へ召喚されている為だ。長く演じた珠姫という花魁の名を捨てることになった原因は、間違いなく彼女自身にある。あまり考えたくも無いことだが、叱責を受けているのではないかと眉を顰める妓夫太郎を励ます様に、は緩く微笑んだ。

「あの御方にとって、貴方たち兄妹はお気に入りだわ。上弦の陸の数字をいただいているんだもの、心配しなくても大丈夫よ」
「・・・だと、良いんだがなぁ」

暗闇の中を、昇る炎が灯りの役割を果たしお互いの顔を照らしている。目が合い穏やかに微笑まれることで幾分か不安が紛れる様な感覚に、妓夫太郎が僅かに苦笑を漏らした。

奥田屋での生活は彼らにとって非常に都合が良かった。堕姫が花魁を演じ、は彼女付きの世話役を任されていた為常に傍にいられたし、堕姫の行き過ぎた奔放さもが上手にとりなすことで店の人間たちとの適切な距離を保てたようなものだ。
怪しまれずに情報を探るのはの役割、鬼狩りを始末するのは兄妹の役割。始祖たる男からの命には忠実に、それでいて三人共に寄り添い暮らせたことは真の意味で自由の無い彼らにとって僥倖だったのだ。

「お前は、この後どうするんだぁ?」
「そうね・・・出来れば、二人と一緒にいたいけど・・・こればかりは、あの御方次第ね」

鬼であり特別な刀で首を落とされない限り不死にはほぼ約束されるが、そこに自由意志は存在しない。が次も兄妹と行動を共に出来るか否か、それは全て鬼の始祖の采配次第だ。

どれほど願っても、焦がれても、決定に逆らうことは許されない。恵まれた環境を手放した今になり込み上げた不安を胸に、が妓夫太郎を見上げる瞳が揺れた。

「もし別行動を命じられてしまっても、時々は顔を見に来ても良い・・・?」

その黒い瞳が、傍にいたいと強く主張している。心許なく足に触れてくる細い手を見下ろし、一拍の間を置いて妓夫太郎は息をついた。
何故彼女はこうなのか、思わず情けない顔をしてしまいそうになる。
彼女のすぐ後ろに回り込み、その華奢な身体を包み込む様に自らも屋根へ座り込んで腕の中に閉じ込めた。こうすれば、表情は見られずに済む。

「俺がそれを断ると、本気で思ってる訳じゃねぇよなぁ?」
「・・・ありがとう、嬉しい」

身体の奥にじんわりと熱を感じたのは、二人に共通して言えることだった。
ずっとこうしていられたら、どんなに良いだろう。
お互いに最初のことなどとうに忘れてしまったが、引き離されることが耐え難く辛いことだけははっきりとわかる。

「あの子が、羨ましい」
「あぁ・・・?」
「私も、貴方とひとつになれたら良いのに」

身体を共有するほどに近しい存在ならば、何に怯える必要も無くずっと傍にいられる。どれほど劣悪な環境でも良い、どれほどの飢餓にも耐えられる。ただ、傍にいることさえ出来るなら。の思いが流れ込んで来る様な熱い感覚に、妓夫太郎は言葉を返さず唇を噛んでその首筋に鼻先を埋めた。
身体がひとつだったなら、こうしてお互いの体温を感じることも出来なくなるだろうに。しかし、彼女の言わんとしている意味も痛いほどにわかってしまう。

「・・・良いお店だったわね」

それが文字通りの意味でないことは十分に伝わった。炎に飲まれ崩れ落ちるあの店は、三人にとってそれほどに素晴らしい世界だった。

「次も、良いお店だと良いんだけど・・・」
「・・・そうだなぁ」

傍にいたい。
許される保証の無い不安は、不死の彼らを永劫苛み続ける。

せめて今だけはとの指先が触れると同時に、妓夫太郎の腕の力が強まった。