芥子の箱庭



男は、鬼殺の隊士であった。
日々実直に鍛錬に励み、任務先で人喰い鬼の首を斬り、着実に階級を上げ、甲(きのえ)として他の隊士を取り仕切る様な役割すら与えられていた。
柱に空席が出来た場合次に選出されるのは彼だろう、誰もがそう感じていた上、本人も表面上は謙遜しつつも自信に満ち溢れる日々を送っていた。
将来有望な男に斬れないものはなく、鍛え抜かれた若い肉体はどんな力押しにも屈することはない。
それは揺るぎ無い真実の筈だった。

―――今日、この時までは。




男は、遊郭の奥田屋へ客として鬼の情報を探りに来た筈だった。多額の金と時間をかけて通いつめ、ようやく珠姫という名の花魁に会う権利を得た。
案内役だという女に連れられ店の奥へと進み、暫しこちらで待つようにと通された一室の扉が閉ざされた、その刹那。

突如として脳が揺れるような錯覚に男は平衡感覚を失い、思わず畳敷きの床に手をついた。

「っ・・・?!」

何が起きたのか、咄嗟には理解が追い付かない。
色とりどりの花が咲き乱れる温室の様な場所に、男は座り込んでいた。
つい今この瞬間まで夜の遊郭にいた筈が、暖かな光の差し込む空間に転移させられている。
男は焦り、素早く辺りを見回した。

花の咽返る様な強い香り、暖かな日差し、僅かに聞こえる鳥の囀り。いくら身構えても攻撃はされず、ただただ優しげな雰囲気に包まれるばかりの状況。動揺に高鳴っていた鼓動が、まるで強制的に沈められていくような感覚に、男は自然と自らの刀からゆっくりと手を離した。

明らかに異常な状況の筈が、危機意識が根から抜き取られていく。
頭がうまく働かない、ただ、ここはとても居心地が良い。

「大丈夫、何も怖がることは無いわ」

柔らかな声の主へと目を向け、男は息を呑んだ。

先ほど案内役を務めていた女が目の前にいる。青を基調とした着物に身を包んだ、黒髪の美しい女だった。
これまで何度か奥田屋へ足を運んだ際にも顔は見ている筈の女である。それが今この瞬間、男の目には酷く魅惑的に映って仕方が無い。沈められた心臓の鼓動が、今度は別の意味で高鳴り始める。

「さあ、いらっしゃい」

女の声は優しく、その微笑みもまた穏やかで、この温室の花の様に美しく咲き綻んでいた。
両手を開くような仕草で招かれたなら、抵抗など出来る筈もない。男は一歩一歩、頼りない足取りで女へと近付いていく。温室中に広がる匂いのもとは、花ではなくこの女なのではないだろうか。彼女に近付けば近付く程、甘く魅惑的な香りが強くなる。

頭の芯から痺れていく様な感覚に、男は眩暈を覚えその場に蹲った。それでも尚、男は目の前の女へ近付かずにはいられない。這う様に前へ進もうとした男の姿に、影が差した。

「貴方の何もかもを、私に教えて頂戴」

女はすぐ傍に屈み込み、男の手をそっと握った。滑らかな手の感触にすら、男はこれまでに感じたことの無い高揚感に息を止める。
その不自然な程に漆黒の瞳と至近距離で目が合った瞬間に、男は悟る。

駄目だ、抗えない。抗う必要すら、感じられない。

「・・・お願いよ」

懇願するような声の甘さに、男は全てを放棄した。


* * *



鬼殺隊士としての男の地位、この遊郭を調査するに辺り構えている拠点、その場所と隊士の人数、攻撃手段とその作戦。
男の知り得ていることのすべてを引き出し、は優しげな笑みを浮かべて見せた。

「・・・そう、良い子ね、ありがとう」

膝を枕に、男は縋るように横たわっている。目は辛うじて開いているが、最早焦点が合っているかどうかは定かではない。当然だろう。この男は既に十分以上に渡り、の血鬼術に晒されて続けているのだ。
呼吸からも肌の上からも男へ浸透し続ける粒子は、人間の身には対処しようの無い猛毒である。刻一刻と蝕まれていく感覚は、同時に痛みと苦しみとは無縁のため毒とは判別しにくい。
今も尚温かな温室の幻覚を見ているのであろう男の視界を、はそっと手のひらで塞いだ。憐れな男だ。こうして閉ざされた一室の中、すべての情報を吐露した上で死んでいく。
痛みと苦しみを与えず幸福な幻覚の中幕を引いてやるのは、貴重な情報提供に対するなりの返礼だ。

「さあ、お休みなさい。ずっとこうして、抱いていてあげる」

聞きたいことは全て聞けた。
流石に産屋敷邸や隠れ里の位置までは、一隊士には知らされていない様で聞き出すことは叶わなかったけれど。しかし、ここ数日潜伏していた鬼狩り達については十分に有用な情報を引き出せた。この男は十分に働いてくれた、あとは優しく送り出してやるのみである。
死にゆく人間への情けからそっと男の頭を抱き寄せた、その直後。

視界が反転する感覚に、は目を見開いた。

男は既に正気も何もかもを失っていたが、最後に残る本能とも呼べる感覚のみでを組み敷いている。焦点の合わぬ目で懸命に両手を駆使して覆いかぶさって来る男に対して覚えるのは、素直に賞賛の気持ちである。
まさかこれほどに弱り切って尚、最後の力とはいえここまで身体を動かせるとは。堪らず首元へと吸い付かれ、全身を撫で回されているにも関わらず、は他人事の様に天井を見上げ目を丸くした。

「・・・これだけ時間が経っても、まだ動けるのね・・・素晴らしい肉体だわ。これならきっと、」

これならきっと、二人にとっても良い食材になる筈。
その言葉は最後まで続くことなく、は衝撃に口を閉ざした。

覆いかぶさっていた男の首が、遥か遠くへと蹴り飛ばされている。

四肢は既に鋭く切り裂かれ、部屋の隅にバラバラの状態で血だまりを形成していた。
途端に解放されたことには当然理由があり、はゆっくりと上半身を起こしながら傍らに立つ存在を見上げる。妓夫太郎の表情は角度の問題で読み取れなかったが、彼が人間を斬り殺したことでは救われたのだ。

「ありがとう。でも・・・もう、時間の問題で、」

何も手を煩わせなくとも、あの男は時間の問題で絶命していた。それは確かに事実だったが、妓夫太郎はにその言葉を最後まで紡がせなかった。
即座にその場へ屈み込み、間近の距離で彼女を見据える。どれほどに憤ってはいても、睨み付けることは出来なかった。

「―――本気で言ってんのかぁ?」

数字を刻まれた禍々しい瞳が、苦し気に歪んでいる。そこから伝わる途方も無い熱と悲しみに、は苦笑で答えた。
そっとその頬に触れ、彼女は慈しむように親指を滑らせる。

「・・・ごめんなさい。私が至らないから助けて貰ったのに、酷い言い訳ね」

もう一度小さく礼の言葉を繰り返すを前に、妓夫太郎は重く溜息を吐いた末にその身体を抱き寄せた。
一体、どんな思いで駆け付けたと思っているのか。
鬼同士故に加減はいらない筈が、妓夫太郎は余力を残した状態でその細身を掻き抱き、余る熱量で自身の唇を噛み締めた。
多少の欠損は自動的に再生していく鬼の身体であっても、どうしたって彼女だけは力任せに扱うことなど出来はしない。
そんな宝物のようなが、あの薄汚い人間の手によって、目の前で触れられたのだ。
怒りなどという言葉では到底済ませることは出来ず、妓夫太郎は益々眉間の皺を深めてをその腕に閉じ込めた。

「・・・どうしたの?早く食事に、」
「あんな薄汚ぇ人間は喰わねぇからなぁ」
「でも・・・私の毒であそこまで動けるのだから、間違いなく逸材の肉体だわ。必要な情報も全部抜けたし、貴方達に食べて欲しい」

部屋の隅に転がる人間だった肉塊を示しては新鮮な内の食事を勧めてきたが、妓夫太郎は頑なにそれを拒んだ。
彼女は普段からこうである。
情報を抜いた後の獲物は兄妹へと差し出し、自身は必要最低限のものを最小限にしか食わない。それゆえ二人と違い十二鬼月でもなければ、戦闘能力も限りなく低いまま。
しかし食った人間の数が少ない故に鬼独特の気配が薄く、鬼狩り相手にも鬼とは気付かれにくく、諜報活動に向いているのだ。彼女は自身の能力と特性を理解した上で今を生き、より良い食材を兄妹へ差し出そうとしている。
それは頭では理解出来ていたとしても、妓夫太郎はあの様な悍ましい現場を見て尚あの汚らしい人間を食べる気にはなれない。
本心からの勧めを断られて戸惑うを抱き締めながら、妓夫太郎は脳裏に響く妹の声を聞いた。

≪大丈夫よ、アタシが全部食べておくから≫

途端に部屋の中へ帯が素早く滑り込み、男の亡骸を覆う。
正直目の端にも入れたくなかったものが血だまりごと消えていくことに、妓夫太郎は内心で息をついた。

≪お姉ちゃんの血鬼術って本当に怖い。毒を毒とわからないまま優しく食らわせ続けるなんて、普通の人間じゃ太刀打ち出来ないわよねぇ≫

妹の声は愉快そうに笑っていた。
の血鬼術は確かに恐ろしい。強い幻覚作用に加えて害されている感覚が無い故、対象から危機感を根こそぎ抜き去ってしまうのだから。
彼女の功績は大きく、これまでも数多くの鬼狩り達から有力な情報を引き出し、静かに葬ってきた。大抵の人間であればの前で骨抜きとなってから、指一本触れることなど出来ずに絶命する。
眠りを促すように最期は頭を抱き寄せ見送ることはの流儀の様なものらしく、そこに関しては思うところはあれど妓夫太郎は口出しをしない。しかし今回の様なことは、正直今後も無いとは言い切れないのだ。
嫌な映像が脳裏を過ぎり顔を顰める兄に、妹は余計に愉快そうな、それでいて同情を滲ませた声を上げた。

≪ふふ、お兄ちゃんはその分気が気じゃないわよねぇ?大丈夫よ、暫く邪魔はしないから≫

妹の声が止むと同時に、帯が気配ごと部屋から抜け出ていく。先ほどの人間は形跡ひとつ残っておらず、妓夫太郎はようやく自身の怒気を解こうとの髪を撫でた。

「・・・あいつが喰うってよ」
「そう・・・本当に、食べなくて良いの?」
「何度も言わせんなよなぁ・・・それより・・・」

考えたくも無いことを無理矢理に思い起こすことは、苦行だった。
しかし妓夫太郎は眉間に皺を寄せつつも、の首元へと唇を寄せる。あの男が浅ましく吸い付いた箇所へ、迷うことなく顔を沈めた。
瞬間唖然としたであったが、彼の行動の意味するところを察して緩く口元を上げる。

「・・・ふふ、上書きをしてくれるのね」

優しく頭を抱き寄せられる感覚に、妓夫太郎は堪らなくなる自身を律して目を強く瞑る。上書きという言い方すら癪に障るけれど、事実だ。あの汚ない男が触れた箇所、汚された箇所、すべて触れ直さなくては気が済まない。
自身から香る甘い匂いに理性が飛びそうになることに抵抗しつつも、妓夫太郎はその柔らかな身体中へと手を伸ばす。

「嫌がってもやめてやらねぇからなぁ」
「嫌な筈ないじゃない、貴方にされて嫌だったことなんて無い・・・」

彼女からの全幅の信頼と無条件の愛は、一体いつから自身に向けられているのか。
自身もまた、彼女を愛しこれほどの独占欲を抱いているのは、一体いつからだったのか。

鬼となって以降、人間の頃の記憶は、はっきりとは残っていない。けれどぼんやりとした記憶の向こうに、間違いなくがいるのはわかる。
人間だった頃から一緒にいる、妹とは違った意味で愛おしい存在。倫理やこれまでの経緯など様々なことを失って尚、大事な軸だけは決して手放すことなく、彼らはこうして鬼となった今も寄り添い生きている。
兄妹は上弦の鬼として、は諜報活動に特化した鬼として、この夜の街で鬼の首領の期待に応えるべく生かされ続けているのだ。

「・・・、お前このやり方は・・・」
「ごめんなさい、それは聞けないわ」

縺れ合いながらも顔を上げた先のは、困ったように眉を下げつつも穏やかに微笑み妓夫太郎を見据えていた。
その漆黒の瞳が物語る譲らない意思を感じ取り、わかってはいたことでも妓夫太郎は苦い思いを感じずにはいられない。

「私にはまともに戦う力が無い、その代わりこのやり方なら二人を助けられるし、あの方のお役にも立てる。二人の傍にいさせて貰うためにも、私にはこれしか無いの」

は自身のことをよく理解している。出来ること出来ないことを考え、最善の手を尽くしている。
それはわかっていてもその身を案じてしまうのは、きっかけすら忘れて尚魂に刻み込まれた想い故だろうか。

けれどどうしたって考えてしまう。
今日の様な出来事が再度起きたなら。
相手が更に実力者で、に刃が向けられたりしたならば。
考えたくも無い最悪の展開に眉を顰める妓夫太郎を前に、はそれでも優しく微笑みかけてくる。

「次はもっと上手くやるわ、大丈夫。心配してくれてありがとう。でも、私がしたくてしてる事よ・・・二人の力になりたいの」

不意に、こんなことが前にもあったのではないかと錯覚する。に対し危ないことは止めろと忠告をして、次はもっと上手くやるから大丈夫と返され、切なく悔しい思いをしたことが、前にも無かっただろうかと。

そうして瞳を揺らす妓夫太郎に対し、の漆黒の瞳が柔らかく細められた。

「それに、“毒”は・・・私だけが授かった力だもの。二人の様に一刀両断にする力は無いけれど、足止めくらいなら役に立てる。有効に使わなきゃ損だわ、そうでしょう?」

これもまた事実だった。
妓夫太郎にも妹にも、毒の攻撃手段は無い。

恐るべき猛毒が非力なにのみ備わっていることは、正直皮肉でしかないのだけれど。
彼女はこの有用性を活かし、非力なりに役に立ちたいのだと、二人の傍にいたいのだと言う。彼らが三人とも鬼であり自由が無い以上、の主張は正しい。

「・・・ったく、それを言われるとなぁ。返す言葉が無ぇよ」
「ありがとう、わかってくれて嬉しい」
「言っとくが納得はしてねぇぞ。次もこういう事があれば容赦無く割って入るからなぁ」
「そうね・・・迷惑をかけないで済む様に、もっと頑張らなきゃ駄目ね」

そうでは無いのに。本当は、これ以上何もして欲しくは無いというのに。健気に微笑むを見ていると、何も言えなくなってしまう。
妓夫太郎は浅い溜息を吐いて、彼女の滑らかな頬へと手を添えた。

「・・・
「なぁに?」

穏やかな微笑みは、真っ直ぐに妓夫太郎へと向けられている。
とても同じ鬼とは思えぬ人間の様な姿で、けれどはその猛毒を以て、男女問わず獲物を魅了し情報を抜き取ることで生きているのだ。

恐ろしい女だ。けれど、途方も無く愛おしい。

呼吸ごと奪い取る様に唇を塞ぎ、乱暴にならないことを心掛けてその身を押し倒した。は抵抗せず、お互いに優しく唇を食む様に角度を変えながらの口付けを繰り返し、名残惜し気にその唇が離れた時、そっとその艶めいた瞳が細められる。

「ふふ・・・そこは、触れられてないわ」

わかっていた。
わかっていて尚、吸い寄せられるように触れてしまった。
あの人間の触れた場所は全て上書きし尽くした。
ここから先は、違った意味が必要になる。

「・・・嫌か?」

は決して断らないであろうことも、わかっている。けれど確認せずにはいられず、妓夫太郎はその頬へと指先を滑らせた。
この狂おしい気持ちは何ものにも脅かされることはなく、この先も永久に妓夫太郎の魂に刻まれ続けるものだ。
ただ、これから先も決して彼女を害させはしないと強く誓う。傷付けさせはしない、汚させはしない。

「ううん・・・食べて」

この猛毒の花は、自分だけのものだ。
妓夫太郎は高揚感に目を細め、再度その唇を食んだ。