悪戯の代償





灯りを最小限に落とした暗い部屋で、鬼が二人座ったまま向かい合っていた。開け放った格子からは真っ暗な空と煌びやかな夜の街が覗き、人間達の様々な声が奇妙に混ざり合い騒ぎ立てる。

「最近、調子はどうだい?」

決して大きくはない音量の声が部屋の空気を裂く。穏やかで甘い声は、外の騒めきなど物ともせず存在を主張した。虹色の瞳が鈍く輝き、刻まれた数字は馴染み深い数より随分と若い。じわりと背を這い上がる圧に拳を硬くして、は用意していた回答を口にした。

「四日前に、二人が柱を葬りました」
「ああ、聞き方が悪かったかな」

柔らかな笑みだった。座り込んだまま片膝を立て、肘をつき目を細めて笑う。

「君のことを聞いたんだよ、お嬢さん」

童磨にそう言われた瞬間、は己の足元が幾許も余裕が無いことを悟る。
これは緩やかな糾弾ではなかろうか。目の前の男からならまだ良い。頂点に君臨する始祖からの遣いだとすれば、最早逃れる術など無い。彼女は白い顔で深く頭を垂れた。

「・・・青い彼岸花に関しましては、未だ情報が乏しく。全て私の力不足です。心よりお詫び申し上げます」
「おや、何か誤解をしている様だね」

しかし、頭上から降る声は相変わらずの温度を崩さない。緊張と動揺で混ざり合った心音が米神に響く中、その声はやはり独特の存在感をもっての鼓膜へと注がれた。

「俺は君を叱りに来たのではないよ。柱を仕留めたことだって、君の情報収集で鬼狩り達の計画を逆手に取ったと聞いている。お嬢さんの血鬼術は素晴らしいよね。擬態も完璧だし、優しい殺し方も素敵だと思うなぁ」
「それは・・・勿体ないお言葉、恐縮でございます」

淀みない台詞からは、状況を報告するまでも無く仔細が把握されていること、罪を問うつもりが無いことが読み取れた。ひとまずの安堵、同時に蛇の様に絡み付く不安。やはり落ち着くことの無い心音を残したまま、はおずおずと顔を上げる。

「・・・では、何をお求めにいらしたのですか」
「この街で男にそれを聞くのは、少し野暮じゃないかな」

頭の中が白くなると同時に、外の騒めきも聞こえなくなるほどの耳鳴りが脳裏を覆う。それが何秒に及んだかは定かでは無く、しかしは冷静に琴線を切り落とした。心音が奇妙なほど落ち着いていく。雑踏の不協和音が耳に戻る。
凪いだ瞳で微動だにしない彼女の元へ、目の前の男は座ったままずいと距離を詰めた。優しげな瞳はにこにこと笑みを象ったまま、近距離で熱の落ちた黒い瞳を観察する。

「逃げないのかな」
「・・・上弦の弐様のご命令でしたら、背けません」
「そうだよね、お嬢さんは賢いなぁ。君が拒んだ時、俺があの二人に嫌なことをしない保証なんて、どこにも無いからねぇ」

ほんの一瞬、殺した心に熱が灯ってしまう。
火を消そうにも即座には難しく、は膝上の拳に力を込め下唇を噛み締めた。

駄目だ。二人を害させることなどあってはならない。心を殺してどうにでもなることならば、何だってする。何だって、出来る筈だ。

そうして懸命に己を殺し続ける黒い瞳を童磨は楽しげに眺め、長く形の良い指先が彼女の頬を撫で、そして。

「ふふっ、冗談だよ」
「・・・え?」

虹色の瞳は満足気に細められ、一歩分後退した。

「冗談、戯れさ。俺は恋の真似事は好きだけど、本当に意地の悪いことは好きじゃない。さあ、安心して手の力を抜いておくれ」

言われて初めて、は自らの掌が食い込んだ爪で傷付いている現状に気付く。血が滲む爪痕は既に修復が始まっていたが、全身の血流が急激に戻って来る様な心地は決して穏やかでは無かった。

「今日は近くまで来たから、君達が元気でいるか顔を見たくなっただけなのさ。揶揄ったりしてすまなかったね、お詫びは改めてするし、今日はすぐ帰るよ」
「・・・では、二人には何の害も?」

念を押す様だが、にとっては何より重要な確認だった。女の身を捧げることよりも、何よりも、兄妹が脅かされる大事の前には命さえも霞む。真剣そのものな瞳と見つめ合い、僅かの空白を挟み童磨は優しく微笑んだ。

「勿論だとも。俺は妓夫太郎と堕姫、お嬢さんのことも、可愛い後輩だと思っているんだよ。ずうっと仲良くしたい、誓って本当さ」

大きな手が前触れ無しに頭へ乗せられ、はぎくりと表情を強張らせた。しかし、ぽん、ぽん、幼子相手にそうする様な手で撫でられ、漸く本当の意味での安堵が心臓の締め付けを緩めて行く。

「あの二人の為なら何でも出来る、お嬢さんの高潔な覚悟はよぉくわかったよ。これからも三人仲良く励んでおくれ」

童磨は宣言通りすらりと立ち上がるなり、暗い部屋を後にした。見送りをやんわりと制し、戸を引いた彼は思い出したかの様にを振り返る。部屋よりも余程明るい廊下の灯を背に笑う、その虹色の瞳は酷く楽し気な輝きを放っていた。

「あ。そういう訳だから、二人には君から上手に話しておいてくれ。今頃きっと・・・ふふっ、手が付けられないくらい怒っているだろうから」




* * *




「悔しいっ・・・!店の中は帯で全部見えてるって、わかってる癖に・・・!」
「まぁ・・・それが狙いで揶揄われたんだろうなぁ」

苛立ち、憤り、そして悔恨。それらが色濃く浮き出た二つの声は、しかし不思議と耳に心地良い。は本能的な安堵に心を緩めつつも、少々困った様に苦笑を浮かべて見せた。

「あの、二人とも。私は本当に何もされていないわ。大丈夫だから」
「うるさいわね、ちょっと黙ってて」

堕姫の声が近い。この街どころか国中で最も美しいであろう顔が、すぐ傍にある。
それだけならまだ良いものの、身動きが取れない。

「でも・・・落ち着かないわ」
「今日は俺も引いてやらねぇぞ。大人しく諦めるんだなぁ」

妓夫太郎の声が頭上から降り注ぎ、は慣れない状況を前に溜息を吐いた。
あれからすぐさま客すら追い返した堕姫の部屋で身柄を拘束され、帯を通し童磨の企を知り得ていた兄妹から無事を確認された。何度も繰り返し、問われた数と同じだけ無事と答えたことに億劫さは感じなかった。鬼同士でありながらこんなにも大事な存在から紛れも無い情を向けられ、嬉しく思わない筈が無い。
問題はこの体勢だ。

「どれくらい心配したと思ってるのよ、今晩は絶対離してあげないんだからね」

横から絡みついた堕姫の腕は決して彼女を離そうとしない。加えて、女鬼の身体は今二人して横たわったままだ。
この場に残る男鬼の胡座を、仲良く等分の枕にして。
膝枕は圧倒的に貸す側の筈が、突如として立場が逆転した上に相手は妓夫太郎であり、兄の膝を分け合うなどどう考えても堕姫も気持ちが昂り過ぎている様に思えて仕方がない。
が困り果てたその時だった。店の外から一際大きな歓声が上がるのを、二重の分厚い格子を抜けて鬼達の耳が拾い上げた。

「ちょっと、どさくさに紛れて逃げようとしないで」
「でも、外が騒がしいわ。確かめなくちゃ」
「お前が動く必要は無ぇだろうなぁ」

店の最上階、決して昼間陽の光が差し込まない様細工された二重の格子が帯によって開け放たれる。

その刹那、暗黒の空に光の花が咲いた。

「・・・まぁ」

思わず、感嘆の声が漏れ出てしまう。狙い澄ました様な角度で色とりどりの光が花開く。普段であれば決して開かぬ格子を通し、この部屋は街一番の特等席と化した。
今宵、この様な大規模な花火の予定は無い。だからこそ民衆は沸いているのだろうが、これは誰の差し金かという問題はあっさりと紐解かれた。

「相変わらず、金の使い方がえげつねぇなぁ」

これが改めての詫びということか。
は慣れない体勢に困っていたことも忘れ、四肢を弛緩させ微笑んでしまう。

「・・・素敵ね」
「ふん。花火くらい何度も上がってるじゃない」
「そうじゃないの」

街の煌びやかさに星灯が負けて、暗く澱んだ穴の様だった空に花が咲いている。
そして今、愛すべき存在がこんなにも近い。

「貴方達とこうして寄り添って見る夜空が、素敵だと思って」

百年に渡り過ごす暗闇の空に、こんな感想を抱く日が来るだなんて、思っても見なかった。二人が普段以上に近い、それだけのことがあり触れた花火すら特別な景色へと変える。
胸の奥に眠る鬼とは違う感覚に表情を緩めるを真隣から見遣り、堕姫がこっそりと口角を上げた末に強がりを装った。

「まぁ、悪くはないんじゃない?そんなに良くもないけど」
「手厳しいのね」
「アタシ達の縄張でちょっかい出されたのよ、これくらい辛口で当然だわ。ね、お兄ちゃん」

なかなか返答が降って来ない。同じ膝枕を共有する二対の瞳が、不思議そうに沈黙の主を見上げた。

「お兄ちゃん?」
「・・・そうだなぁ」

妓夫太郎の目は、夜空を見てはいなかった。
真っ直ぐに下を見降ろし、左手に妹の頭を優しく撫で、右手に彼女の額を僅か掠めていく。

「外の景色の善し悪しはよくわからねぇが、この眺めは悪くねぇ」

途方も無い優しさがそこにはあった。
他の誰にも見せないであろう表情を見上げ、二人の美しい顔が同時に綻ぶ。

「もう。お兄ちゃんってば」
「ふふ、一本取られたわね」

光の花が、一層の勢いを増して暗い空を彩る。
誰に知られることもなく、三人の鬼達は緩やかに笑い合った。