結びの日 弐




「・・・俺ぁ、学が無ぇからなぁ」

夕刻、は正座のまま縮こまる。
まさかこんなことになるとは、思いもしなかったのだ。

「祝言って言葉を、今日初めて知ったんだよなぁ」
「アタシも。さっき先生に教えて貰ったわ」
「・・・」

あれから梅は祝言を見たいの一点張りで、薬屋の婦人もその気であることを知ると更に熱を上げてに迫った。
の困惑を察した主人により、今日のところは一旦帰るという一声で状況は少し落ち着いたかに思われたのだけれど。
老夫婦と入れ違いに帰宅した妓夫太郎もまた、何とも言えない顔をしており、彼の口から祝言という単語が出たことによりは完全に逃げ場を失った。
心配して駆けつけた幸太郎を含め、四人で縁側に集い今に至る。

「すみません。私はてっきり皆さんでお話合いの上、祝言は挙げないと決めていたものとばかり・・・」

梅が春男の絵に見つけた不思議な模様は、水引であった。
武家の屋敷に通い娘に勉学を指南した返礼にと、兄弟の父が祝言に招かれた際持ち帰った品に施されたものを、春男が写し取ったのだ。
水引とは何か、祝言とは何か。思わぬ質問に正しく答えつつも、目を丸くしたのは幸太郎の方だった。
梅は祝言の意味を知らなかった。婚礼の儀式と知るなり一目散に帰宅した彼女を気にして訪ねてみれば、妓夫太郎もまた仕事先でその単語を初めて知ったという現場に居合わせ、帰るに帰れぬ状況である。

「ねぇどうして?どうしてこんな素敵なことを教えてくれなかったの?」
「ごめんね梅ちゃん。妓夫太郎くんも・・・。意地悪で隠してた訳じゃないんだけど・・・」
「そんなのわかってる。お姉ちゃんがアタシ達に嫌なことをする筈が無いもの」

祝言を知っていて挙げないことと、知らずに挙げないことでは意味合いが大きく違ってくる。
無論この兄妹は、が悪意をもって隠していた筈が無いことは重々承知しているだろう。
しかし納得の行く理由が聞きたいと食い下がる梅の主張も尤もなもので、は眉を下げて正座の上の手を丸くした。

「祝言は、家と家を結びつける儀式だから。本当なら嫁入りまでにも家同士で色々しなきゃいけない段取りもあって、だけど私たちは・・・」
「・・・まぁ、どっちも家は無ぇようなもんだよなぁ」

妓夫太郎はその時点で様々なことを察した様だった。
結ぶべき家と家。それは互いに無いに等しいものだ。
本来であれば順を追って家同士で進めるべき手順を全て飛ばし、は身一つで嫁入りを果たした。

「それに、祝言を挙げるとなるとやっぱり色々物入りになるし、無理にしなきゃいけないことじゃないと思ったから・・・」

互いに家を持たないことは仕方が無い。
しかし、只でさえ必要なことを蔑ろにした上で、最後の華美な儀式のみを執り行うことは気が咎める。
否、その儀式で結ぶ家すら無いということも要因のひとつであろう。
ただひとり当事者の中で知識を持っていたは、今日この日まで深く考えた上で黙っていたのだ。

「勝手に決めて、ごめんなさい」
「・・・謝んな。別に怒ってねぇ」

彼女が真面目であるからこその葛藤を、どうして夫が咎めることが出来ようか。
が妓夫太郎の全てを肯定すると同じく、彼も彼女の考えと決断を尊重する。

「・・・」

しかし、理解を示す兄の隣では妹が複雑な面持ちで押し黙っていた。
梅とて今のの話を聞き、何もわからない子どもの態度を貫き通す訳にもいかず。
結ぶ家同士が無ければしきたりに反すること。無用な出費を避けたいこと。どちらも大好きな姉らしい真面目な考えとは理解出来るが、納得には至らない。兄と姉を大事に思うからこそ、すんなりとは引き下がれない。

殿、少しよろしいでしょうか」

そんな梅の胸中、淀んだ思いを掬い上げる様な穏やかな声がした。
一歩輪から外れた位置で正座をしていた幸太郎である。

「あくまで、私個人の考えですが・・・古くからの風習は確かに尊重すべき良きものです。ですが、夫婦にも様々な形があるものかと」

今この時、一歩引いた場所にいる筈の彼を誰よりも近くに感じ、梅は息が止まる様な錯覚を覚えた。
誰に対しても優しく誠実な幸太郎は今、梅の気持ちを代弁するかの様にへ語りかけている。

「お二人は確かにそれぞれ結ぶ家をお持ちでないかもしれませんが・・・お互いという存在をしっかりと結んで、夫婦になられたのでしょう」

いつもそうだ。
幸太郎は梅達では考えもつかないことを口にして、優しく導いてくれる。
そうして静かに思いを募らせる梅に一度視線を向けつつ、幸太郎は改めて妓夫太郎との二人に対して穏やかに笑いかけた。

「しきたりは関係無く、お二人の結びつきを更に強くするための行事、と考えてはいかがでしょうか」
「立花さん・・・」
「勿論祝言を挙げない夫婦もいます。殿の仰る通り、無理に執り行う必要も無いものです」

そこで一度言葉を切った幸太郎の瞳は、全てを包み込んでしまう程に柔らかい。

「ですがこの町の住民は・・・お二人の晴れの日を、心待ちにしている者も多いので。今からでも祝言が決まれば、皆協力を惜しまないと思います。勿論、私もその一人です」

の心が確実に揺れ動いたことを、兄妹ははっきりと感じ取った。
すかさず梅が声を上げ、床を擦る様にしてへと近付く。

「アタシ!!アタシが一番、見たい!!」
「梅ちゃん・・・」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがもう幸せなのはわかってるけど・・・でも・・・!」

祝言とは婚礼の儀式だと。互いを人生の伴侶と改めて誓う場であると教わったその瞬間から、梅の頭の中は二人のことでいっぱいなのだ。
物心ついた頃より当然の様に傍にいてくれたと、その隣で心を休める兄の姿を見て来た。お互いにお互いしか在り得ない様な雰囲気を持ちながらも、随分と長いこと今一歩を踏み込めずにいた二人のことを知っている。
漸くだ。漸く、ひとつの家族になれたのだから。改めて二人の縁を結ぶ場を設けることは、決して無駄なことでは無い筈なのだ。
梅はその強い思いを胸に、懸命にへと迫る。

揺れ始めた思いを更に追われ、が戸惑うその刹那。

「・・・

青い瞳は、静かに妻を見つめていた。

「お前が本当にやりたくねぇことなら、俺は無理にする必要は無ぇと思ってる」
「妓夫太郎くん・・・」
「けどなぁ、他の小難しいことが理由なら・・・考え直しても、良いんじゃねぇか」

祝言の予定はと聞かれた際、単語の意味がわからず怪訝な顔をした数秒後の職人達の騒めきを、忘れはしないだろう。
妓夫太郎の無学さを嘲笑う者も責める者もおらず、しかし誰もが真剣な心配顔をして祝言の大切さを説いた。
年嵩の女はの名を出してこう訴えたのだ。特に女にとっては人生の一大事なのだ、と。

「・・・大事なことだからなぁ」

真面目なが気に病むくらいならば、周りに何を言われようとも関係が無かった。
しかし幸太郎の助言を受け、目に見えて心が揺れるを前にすれば自ずと答えは出る。梅がここまで熱望していることならば、尚の事だ。
偶然ではあるが、兄妹が同時に祝言のことを知れたことは幸いだったかもしれない。

「・・・良い、の?」

の声は小さく震えていた。しかしその黒い瞳は、戸惑いと同時に期待にも揺れていて。
思わず緩んでしまう頬をそのままに、妓夫太郎は苦笑を象った。

「良いも悪いも・・・断る理由が無ぇだろうが、ばぁか」

の口元に力が入り、やがてこみ上げる喜びと恥じらいで頬が赤くなった。
それは互いに納得の上でひとつの大事が決まったことの証だ。
これには幸太郎も安堵の息をつき、梅が文字通り飛び上がって喜んだ。

「さっすがお兄ちゃん!かっこいい!」

願ったことの最後の後押しをしてくれた。やはり何とかしてくれるのは兄だと、梅は笑顔を輝かせ妓夫太郎へと力いっぱいに抱き着く。

「お姉ちゃんもそうだけど、お兄ちゃんも勿論しっかり着飾るのよね?!」
「・・・」
「アタシ薬屋のお婆ちゃん達と一緒に準備頑張るわ!!絶対に忘れられない日にしてあげるから!!」

失念していたと言えばそこまでだが、妓夫太郎は自身もまた主役の一人であることを漸く思い出した様で。
眉間の皺を深めて険しい顔をする彼の顔を見て、幸太郎が楽し気に微笑む。

「妓夫太郎殿、二言はありませんね?」
「・・・ったりめーだ」

これ程梅が喜びを爆発させ、何よりが望んだことだ。今更覆す筈が無い。

二人の祝言が決まった夜、平屋の縁側は普段以上に優しい空気で満たされたのだった。




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