結びの日 壱






※第一部最終回の出来事がもしも起こらなかったら。予定通りに遊郭を出られていたらのif話です。
名無しの登場人物が普段より多め、時代考証が雑な部分がありますが、何卒ご容赦くださいませ。






空気の濁りきった遊郭の片隅に生まれた、少年と少女がいた。

片や、病に侵された母のもとに生まれ、醜い汚いと罵られ人間の悪意に晒され続けた少年。

片や、女将の娘でありながら外の世界を夢見て、変わり者と謗られながらも学ぶことをやめなかった少女。

偶然からふたりは出会い、互いに初めての友となる。

時間をかけて特別な関係を築いた彼らは、いつしか同じ夢を見るようになった。

これは、その夢が叶えられたあとのお話。在り得た未来の物語。











寺子屋の朝は早い。
部屋の隅で、ひとつの文机を前後から挟むように頭を突き合わせている兄弟がいた。
未だ幼い風貌の少年が一心に筆を動かし、逆側から見守る青年は穏やかな顔をしている。
静かな朝の風景と墨の匂いに導かれる様に、その部屋へ軽やかに踏み込む影がひとつ。

「なぁにしてんのよ」
「梅の姉ちゃん!!」

憧れのひとの妹である梅の登場に、春男は甲高い声で驚きを表現した。
慌てて紙の上に白紙を乗せ、更には本まで積み上げる徹底ぶりに、おやおやと彼の兄は苦笑を零してしまう。
出入口から大股に近付いて来る梅は早朝にも関わらず今日も大変に元気が良い。
この町へ越してくるより以前からの熱意が衰えていない姿勢に、幸太郎が感心しきりといった優しい笑みを浮かべた。

「おはようございます梅殿、今朝も一番乗りですね」
「ふん、アタシが一番なのは当然でしょ」

両手を腰に当てて胸を張るその美少女は、寺子屋に通い始めて以降、門下生の中では朝の一番乗りを逃したことが無い。講師である幸太郎やその弟の春男に次いで現れ、必ず一番前の席で熱心に様々なことを吸収している。
すべては、彼女の世界の中心たるふたりと共にいる為だ。どんなに遅れを取っていたとしても、勉学に励み自分に出来ることを模索するのだと。まさに有言実行の精神でひたむきに努力を続ける少女の姿は、誰の目から見ても健気だった。
今日も最前列の中央に荷物を置き、兄譲りの美しい青い瞳を細めて梅が春男の顔を覗き込む。ぎくりと春男の小さな肩が跳ねるが、この鬼の面を首から下げた少年の行動など梅にとってはすべてお見通しであった。

「で、春男は何を隠したわけ?」
「あっ・・・」
「なぁに?アタシには見せられないもの?」
「ちっ、ちがうよ・・・!」

照れと焦りで顔を赤くした春男が俯く。
長いこと会いたい思いを募らせた梅に対して、幼い春男は尊敬と緊張が織り交ざり未だ距離感を計り兼ねている様だ。
もっと打ち解けたいが今一つ勇気が出ない。そんな弟の背を、幸太郎が優しく押した。

「春男、大丈夫です。上手に出来たんですから、梅殿にも見て貰いましょう」
「・・・うん」

小さな手が心を決めて積んだ本を一冊ずつ退ける。
最後の白紙を取り去られた末に顔を出したのは、見事な花の写生画だった。

「・・・えっ。やだ、これ春男が描いたの?」
「うん・・・」
「すごいじゃない!アンタ絵師の才能あるわね!」

これには思わず梅の目が見開かれ、間を空けた確認の後に絶賛の声が上がった。
幼い子どもが墨と筆を駆使して描いたとはとても信じ難い出来である。
元より世辞は言わない性格の梅だ。弟の優れた一面を素直に褒められ、幸太郎の目が誇らしげに細められた。

「ね、褒めて貰えたでしょう」
「うん・・・!!」

興奮がちに目を瞬く可愛い弟の頭を撫でる、その手は例えようも無く優しい。
梅は兄やからそうして貰う嬉しさを知っている為、蕩けそうに頬が緩んでしまう春男の気持ちはよくわかる。
しかしながら、この胸の奥のくすぐったさは何かが違う気もして。不意に幸太郎と目が合いそうになった瞬間、慌てて視線を逸らしてしまった。
動揺を鎮めると共に、改めて感心した様によく出来た絵を眺めること数拍、梅はふとした違和感に気付く。

「・・・これって・・・」

花の模写とは少しずれた位置に描かれた、見覚えの無いもの。
まるで円環の様な不思議な朱色模様は、両端が上向きに広がっている。
これは何かと梅が兄弟に問おうとしたその時だった。

「あっ!!梅の姉ちゃんもう来てる!」
「なぁんだよー今日こそはぜってー俺たちの方が早いって思ったのにー!」
「甘いわよ、このアタシがアンタたちに負けるもんですか」
「ちぇー」

梅より年下の門下生達だった。
大人しい春男と違い、手習い中も黙っていられないような悪戯坊主たちは、梅の姿を認めるなり一斉に賑やかな声を上げて彼女を取り囲む。

「ね!ね!今日も勉強が終わったら、鬼の兄ちゃんの話、聞かせてくれよー!」
「さぁ、どうしようかしら」

梅は早くも寺子屋の中で人気を集めつつあったが、それは遊郭にいた頃と違い彼女の美貌が引き起こしたものではなかった。
彼女が“鬼の兄ちゃんの妹”であることが理由の半分。もう半分は、意外なことに梅が年下に対して見せた姉御気質が、子どもたちに格好良いと受け入れられたことにあった。

「アンタたちが良い子で先生の言うこと聞くなら、考えてあげても良いけど」
「聞く!聞く!」
「良い子でいるよぉ!なぁ、幸太郎先生!」

今日もまた、講師を困らせてばかりの元気が過ぎる少年たちをあっさりと従えて、彼女は涼しい顔をしている。
元は妓夫太郎の人気があってのことではあるが、梅の手腕も大したものである。これも立派な才能に違いないと、幸太郎が穏やかに微笑んだ。

「いやはや、お見事。梅殿には敵いませんねぇ」
「当然よ、このアタシだもの」

今の彼女は遊女見習いではなく、この寺子屋の門下生として生き生きと日々を過ごしている。
周りの勢いに押されて押し黙ってしまう春男を取り残すことなく、彼女は明るく笑った。

「春男も、お兄ちゃんの話聞くでしょ?」
「・・・うんっ!!」



* * *




茅川町は穏やかな町である。
子どもから大人、更には町役人に至るまでのんびりとした気の良い人間が多い為、町全体の雰囲気が年中温かい。

「へぇ。なかなか良い粒揃ってるじゃねぇかよ」

それ故、こうした柄の悪い外の輩が定期的に現れることもまた、否定出来ない困りごとだ。
新たな長屋を建てている現場に、その二人組は現れた。職人の世話係として食事を運んでいた女達を舐める様な視線で追うものだから、嫌な空気が漂い始めるまでにそう時間はかからなかった。

「暴れ甲斐がありそうだろ?幸い、他には狙ってる連中もいねぇ様だしなぁ」
「穴場って奴かぁ?へへ、ついてるなぁ俺たち」

女達は当然怯え、職人の男たちも迷惑そうな顔をしてはいるものの、誰ひとりとして余所者は出て行けと声を荒げる者がいない。
ここは乱暴者の天下が罷り通る。二人の男はこれ幸いと口元を歪め、愉快そうに手を叩いて笑った。

「この街は弱っちい男共しかいねぇからなぁ、好き勝手するにゃあ丁度良いって、」
「・・・おい」

その天下は始まらずして終焉を迎えた。

背後から忍び寄る声は獣の唸り声かと思うほどに低く危うく、二人の背筋を一瞬で凍らせる。
からくり人形よりもぎこちない動きで振り返った先に映ったものは、気怠い風貌の男ひとりに違い無い。ただの細身の男の筈が威圧が強過ぎる故、人ならざるものを目にした様な動揺を、侵略者擬きの二人は強いられることとなった。

「暴れるだのなんだの、物騒な声が聞こえた気がしたんだが・・・お前らかぁ?」
「・・・あ、あの、」
「ここを守ってやるのが俺の仕事だからなぁ・・・好き勝手してぇなら、当然俺が相手になってやる訳だが・・・」

辛うじて声を上げた男のすぐ横で、突如轟音が鳴り響いた。足がめり込む勢いで、彼が強く壁を蹴りつけた為である。
掠っただけで骨が砕けてしまうのではないか。そんな一撃の余波ですら寿命が縮む思いに、男達は震え上がった。

「っひ・・・!!!」

最早言葉にならない悲鳴がか細く漏れる。
恐怖に引き攣ることしか出来ない男達は、鋭く光る青い瞳に正面から睨み付けられ、そして。

「―――覚悟は出来てんのかぁ?」

限界を迎えた。

「かっ・・・勘弁してくれェ!!!」

情けない声を上げ、半ば涙目になりながら二人の男は走り去る。
現場は静寂の末、どこに隠れていたのかと思う程の大喝采に包まれた。

「さっすが鬼の兄ちゃん!」
「よっ!お見事!!頼りになるねぇ!!」

拍手、笑顔、喝采、そしてまた笑顔。
圧倒的な明るい陽の雰囲気に取り囲まれ、妓夫太郎は眉間に皺を寄せたまま頭を掻いた。

ここは江戸の小さな町、茅川町。
妓夫太郎達の新たな住まいであり、彼は連日様々な場所からの依頼により、用心棒として引っ張り凧な生活を送っていた。

「あんな雑魚を撃退した程度でこれかよ・・・今までよく無事で生きてこられたもんだよなぁ」
「いやはや、恥ずかしながら皆我が身を守るだけで手一杯さ」

女子供はともかくとして、男連中まで情けない様では先が思いやられる。険しい顔で嫌味のひとつでも付け加えようとした妓夫太郎の前に、小柄な老いた職人が進み出てその手を握った。

「鬼の兄ちゃんがいてくれると、町中本当に助かるよぉ。来てくれて、ありがとうねぇ」
「・・・」

ありがとう、ありがとう。
何度も礼の言葉を繰り返して頭を下げる、その老人の手は温かい。妓夫太郎はそれ以上告げるべき言葉を失った。

気の良い町民たちは確かに頼りないが、誰もが妓夫太郎を忌避することなく受け入れてくれる。外見を蔑むことも石を投げることも、必要以上に恐れることもしない。鬼の兄ちゃんという変わった呼び名も、慣れてしまえば不思議と愛着すら覚えてしまう程に声色が皆一様に明るい。ここは新たな生活の地として、これ以上無いほどに良い町だった。

基本的には巡回を続けねばならないが、近くを通る度に礼や称賛の声をかけられる感覚はいつまで経っても慣れそうに無い。何とも言えない顔で腕を組み背を丸める妓夫太郎を目にし、年嵩の女が大袈裟に肩をすくめて見せた。

「これで子供たちの指南役も引き受けてくれたら、最高に助かるんだけどねぇ」
「おい、調子に乗るなよなぁ。俺は立花とは違ぇんだ」

突然何を言い出すかと思えば。露骨に顔を顰める妓夫太郎に睨まれても、女は一向に怯む気配が無かった。

「そりゃあ幸太郎ちゃんは最高の先生さ。けど寺子屋で頭を鍛えて、アンタのところで身体を鍛えられた日にゃあ、この町の子供たちも将来安泰だと思うけどねぇ!」

立花幸太郎と言えばこの町で知らない者はいないだろう。それ程に信頼の厚い寺子屋の跡取り息子であり、彼らが住まいを移すにあたり多大なる尽力を惜しまなかった男だ。学び続けることを信条とする優しく穏やかな幸太郎ほど、梅が特別な意味をもって告げる”先生“の呼び名が相応しい者はいない。正面切っては認め難いが、妓夫太郎にとって数少ない友でもある。そんな男と肩を並べてこの町の子ども達を導くなど、出来る筈が無い。

「うるせぇぞ、俺はやらねぇからなぁ」
「けど鬼の兄ちゃん、この町は道場も何も無ぇからさぁ。我流でも何でも、お前さんが始めてくれりゃあかなり儲かると思うよ?」
「・・・」

木材を担いだ職人が話に加わってきた。話好きな者が多いこともこの町の特徴のひとつである。黙って仕事をしろと追い払うつもりが、今日に限ってはその言葉が詰まった。
有難いことに、今のところ仕事はある。見返りとしての給金も貰ってはいる。しかし、厳密に言えば定職とは呼べない。
痛い所を突かれた妓夫太郎の隙を見逃さず、職人と女は前のめりに畳みかけてきた。

「ちっと前向きに考えてみるのも悪かねぇと思うよ。子供たちだって喜んで通うだろうしなぁ」
「そうさそうさ。用心棒以外にあんただけの仕事が出来たら、ちゃんだって喜ぶんじゃないかねぇ。相談してみたらどうだい?」

これまでもそうであったことだが、妓夫太郎はの名前を出されると弱い。
唯一の幼馴染は、今や守るべき家族へと形を変えた。
と梅を守る為ならば当然何でも出来る。出来る、けれども。

「・・・気が向いたらなぁ」

そう易々と、素直に助言を受け入れる素振りは見せられない。
本人は険しい顔を装ってはいるものの、内心の葛藤は大変に分かり易く、職人と女は顔を見合わせ笑いあった。
新たに別の職人が通りがかったのはそんな時のことだ。

「そういやお前さん、仕事より先にやることがあるんじゃないのかい?」
「あぁ?」

妓夫太郎は怪訝な顔をして先を促した。



* * *




「・・・え?」

湯呑茶碗を両手に、が唖然と瞬く。
目に見えて戸惑っている彼女を正面に見据え、大きく溜息を吐いたのは薬屋の主人だった。
苦言を向ける相手は当然ではなく、隣にいる妻である。

「そら、言わんこっちゃない。余計なことは止せと言っただろうに」
「ご免よちゃん・・・お節介だってことは、重々承知の上なんだけどねぇ・・・」
「あっ・・・いいえ、お節介だなんてとんでもないです!」

ここは達が住まう小さな平屋だ。の仕事場を表に置き、奥には生活出来る間取りを構え、僅かながら縁側まで付いている。
幸太郎の計らいにより家族三人で住まうことが叶ったこの家を、達は大層気に入っていた。
老夫婦の薬屋は店仕舞が比較的早い。仕事を終えた二人を迎え入れ奥の間で語らう時間は、にとって喜ばしく大切なものだ。
何しろこの町へ越してくるより以前から大層良くしてくれた夫婦である。としても、二人からの助言や頼み事なら何なりと受けたい心持でいる。
しかし今回ばかりはそれが難しいと、彼女は困った様な苦笑を浮かべて見せた。

「ただ、夫婦になるために必要なことは全て済んでいますので・・・今から祝言は、ちょっと考えてなくて・・・」

今からでも祝言を挙げてはどうかと、薬屋の婦人はおもむろに問うた。
この夫婦が如何に優しく自分達を見守ってくれているかを、は十分に理解している。
本人が言う様にお節介などと感じる筈も無い。その問いかけ自体は正直なところ嬉しかった。

「あの、お気持ちは本当に嬉しいんです。でも私たち、お互いにもう親もいませんし・・・本来なら祝言で結ぶ家同士も、無い様なもので・・・」
ちゃん・・・」
「そのことは何も気にしてないんです。私は妓夫太郎くんと梅ちゃんと、三人で家族になれただけで本当に幸せで・・・」

遊郭を出て外の世界で暮らすことは、の幼い頃よりの夢だった。
何かひとつでも知恵があれば、それを武器に外で生きていけるかもしれない。遊郭の中において異物扱いされ眉を顰められながらも、は植物図鑑を手放さず学びを続けた。
いつしかその夢はひとりでは意味の無いものとなり、大切な兄妹と三人で生きることへと形を変えた。努力が実を結び徐々に外の世界との接点が増え、幸太郎との出会いを経て新たな暮らしが現実味を帯び、そしてはかねてからの思いを遂げた。
初めての友人は、互いの気持ちを確かめ合った上で夫婦となることを了承してくれた。が生きる上で、梅の成長を見守れなければ意味が無い。妓夫太郎の隣にいられないならば、意味が無い。何もかも、望んだ通りの未来がここにあった。

互いに親も無く、戻る家も持たない。あの淀んだ世界を戻る場所とも、思わない。
越してきたその日の内に町長と寺へ夫婦であることを届け出、認められ、それだけでこの上無く心が満たされた。
故にはそれ以上を望まない。もう十分過ぎる程に、幸福だ。

「大切な家族と慎ましく生活できれば、こんなに恵まれたことは無いです。しかも大好きなこの町で。お爺さんとお婆さんが近くにいて下さることも、本当に心強いですし」
「お前さんがそう思うならそれがきっと正解さ。ただ、何かあった時は力になりたがっている老人達が近くにいることを、覚えておいてくれればそれで良い」

薬屋の主人は穏やかな顔をしてそう告げた。婦人も少々残念そうな顔をしながらも、の意を汲んでくれる。
身に余るほどに、恵まれている。が温かな思いに目を細めたその時だ。

「・・・っお姉ちゃん!!!!」
「梅ちゃん、お帰りなさい」

寺子屋から帰ってきた梅が、勢い良く飛び付いてきた。

「アタシ、お兄ちゃんとお姉ちゃんの祝言、見たい!!!」
「・・・え?」

何という巡りあわせか。
突然のことに呆然とする視界の端で、老婦人が目を輝かせた。



Top