優しい綻び



立ち聞くつもりはなかった。ただ、角をひとつ曲がった先にいる彼女がひとりではないとわかった途端に、出て行くタイミングを逸してしまっただけで。
面倒なことになってしまったと、妓夫太郎は虚空を見上げて眉間に皺を寄せる。

の向かいに立つ男は二人より一年上のピアノ科学生で、デートの誘いを断られた苛立ちを滲ませこう口走ったのだ。
“君にとって謝花が一番でも、謝花にとっては君が一番ではないことは知っているのか”と。
何も彼女は妓夫太郎を理由に断った訳でもなければ、二人は噂通りの関係でもない。
にも関わらず難癖を付ける男に梅と腕を組んで歩いている現場を見られたことは明白だったが、誤解の解けている彼女は妹だと聞いていると冷静に切り返す。
それに対し男が用意した返答が問題だった。
妹にしては距離感がおかしい上にどう見ても似ていない、都合の良い嘘で騙されているのではないか。
遠目に見たのみで兄と呼ぶ梅の声を聞かなければ、確かにそういった見方も出来るのかと妓夫太郎が盲点に小さく息を吐いた、その時である。

「謝花くんがそう言ってるんですから、妹さんで間違いないと思います。家族を一番に大切にすることは、当然です」

の声色が、明確に変わった。
口調こそ丁寧なままであっても、その声の固さが静かな憤りを物語る。
何故か、妓夫太郎はその場に足が縫い付けられた様に動けなくなってしまった。

「レッスンの時間なので、このお話はここまでにさせてください」

男は想定外の反応に慌てふためいたが、彼女は一切動じることなく話を打ち切る。

「さよなら」

別れの挨拶は、ありふれた文言の筈が聞いたことの無い響きがした。



* * *



二台のピアノソナタニ長調は、アンサンブルのクラスで出されたばかりの課題曲だ。
モーツァルトの明るい楽曲はその名の通り、二台のピアノにより奏でられる。よって、普段と違いピアノが二台並ぶ練習室を抑えた筈だった。

にも関わらず、予約の終了時間まで少々の時間を残した今、鳴っているのは一台のピアノのみである。
リストのラ・カンパネラは彼女たってのリクエストで、隣のピアノからわざわざ長椅子を寄せて聞き入る視線を感じつつも、妓夫太郎は演奏を続ける。

直前に聞いてしまったやり取りが嘘の様にはにこやかで、二台で音を合わせている最中も演奏をせがむ時も穏やかに笑っていた。
多少の気がかりはこの笑顔を前にすると大抵消し飛んでしまう。それが良いことか悪いことかは、ともかくとして。
最後の一音が消えたその瞬間、彼女は余韻を噛み締める様な表情をして静かに拍手をした。

「私この曲、好きだなぁ。謝花くんにすごく合ってるよね」

リクエストを聞いてくれてありがとうと花咲く笑顔を横目に、妓夫太郎は何とも言えない顔で頭を掻いた。
基本的には妓夫太郎を褒める。
ピアノの腕や解釈であったり、音楽に関わることもそれ以外のことも、手放しと言って良い程に褒める。
誰に認められずとも構わないと思っていた筈が、たった一人の賞賛の声がこうまで沁みるのは困りものだ。そうした内心をひた隠しに、彼は視線を逸らした。

「お前の黒鍵程じゃねぇだろうなぁ」
「えっ、そう?」

ラ・カンパネラを妓夫太郎に合っていると言うのなら、彼女に合っている楽曲はショパンの黒鍵だろう。思ったことを口にした妓夫太郎に対し、は目を丸くした末に嬉しそうに笑った。

「好きな曲のひとつだから、謝花くんにそう言って貰えるのは嬉しい」

予約の残り時間は数分、件の曲であれば余裕を持ち頭から通せるだろう。
話の流れでワクワクと期待に輝いた黒い瞳は、ふと思い付いたかの様に隣の楽器を控え目に指差した。

「そっちのピアノ、使っても良い?」
「おぉ」

それなりに行き届いた設備であっても、調律の加減や鍵盤の感覚によって微々たる個体差はある。
があえて隣に移ることも特別おかしなことでは無かった。
妓夫太郎が椅子から立ち上がり中央を譲り、何の気無しに彼女のすぐ斜め後ろで聞く姿勢を取ったことも、特別意味は無かった様に思う。
しかし長椅子の中心に腰掛けた彼女は、鍵盤に置きかけた指を不意に引っ込めてしまった。

「どうしたぁ?」
「やっぱり、この距離が良いなぁって」

振り返りざま、照れたように小さく笑うその表情が心臓に悪い。

「お隣じゃなくても、この距離に謝花くんがいてくれると、安心出来て良いなぁって。二台も勿論、音の幅が大きいから楽しいんだけど」

彼女が何を言っているのか、理解するまでに数秒を要した。
二台のピアノは当然ながらひとり一台。ひとつの長椅子を分け合う連弾とは、明らかにその距離感が違う。
課題曲は順調だった。順調過ぎて残りの時間を互いの演奏に充てたくらいだったが、じりじりと距離を測る様に長椅子同士をくっつけて一歩一歩近付いてきた彼女が、今この瞬間に今日一番の嬉しそうな笑みを浮かべている。
普段の様に肩と肩こそ触れないものの、手を伸ばさずとも触れ合えるこの距離を、は安心出来て良いと言う。

内心頭を抱えたくなる様な思いと、心臓の熱さが半々にやってきた。

「馬鹿なこと言ってねぇでさっさと弾けよなぁ。帰っちまうぞぉ」
「あっ・・・!待って待って!弾くから!」

慌ててピアノに向き合い、ひとつの深呼吸。スイッチの切り替わりが自然と伝わると同時に、彼女の指が黒の鍵盤上を走り始めた。
軽やかな跳躍と明るい曲調は、確かな技術無しには再現出来ない一曲である。歌や遊びの様に鍵盤を踊る指先は楽しげで、後ろからでもその表情が読めてしまう気さえした。
明るく力強い世界観に引き込まれる。この音はそのものだ。向き合っている時には浮かべられない様な表情を滲ませ、妓夫太郎は眩しい音に聞き入った。

二分にも満たない練習曲を、彼女は流れる様な音の波で締め括る。
パッと振り返り感想を求める笑顔が、あまりに想像通りに楽しげな色をしていたものだから。つい、張り詰めていた糸が緩んだのかもしれず。
その髪に手を置いて撫ぜた柔らかな感触に、妓夫太郎は一拍の間を置いて我に返った。

「・・・悪ぃ」
「ううん、全然」

素早く引っ込めた手のひらは背後に隠せても、今起きた出来事は隠せない。
気が緩むにも程があると自己嫌悪に陥る妓夫太郎を見上げ、は落ち着きなく頬を指先で掻いた。

「私、変なの」

困った様に笑うその瞳は、困惑した様なその声は。それでも照れ臭そうな笑みに乗り、妓夫太郎ひとりに向けられている。

「頭撫でて貰うなんて絶対に初めてなのに、初めてな気がしないの。変だよね」

一際大きな音を立てた心臓の鼓動は、どうしたって伝わらない。
思わず目を見開いてしまう妓夫太郎を前に、は苦笑を浮かべる。
彼女自身、理解の追いつかない感情に振り回されているといった様子だった。

「謝花くんが優しいから、私ってば調子に乗って都合良く記憶を操作してるのかも」
「・・・」
「気を付けないと、今に長年のパートナーみたいに大きな顔しだすかも。あ、気を付けるのは私かぁ。反省してます、うん。謝花くんにはお世話になりっぱなしなんだから、変なこと言って困らせたりしたら駄目だよねぇ」

空笑いと共に段々と早口になるのは、焦った時や周りが見えなくなった時の彼女の癖だ。
知っている。言えないけれど、よく知っている。
言葉を無くす妓夫太郎に向けて、は再度笑顔を向けて立ち上がった。

「時間だね。今日もありがとう、楽しかった。気を付けて帰ってね」

彼女は荷物をまとめて笑顔で別れを告げる。

「また、来週ね」

立ち聞いた『さよなら』に違和感を覚えた理由に辿り着く。
いつだって別れ際のが口にする言葉は、次に繋がる『またね』なのだと。
気付けば、軽く振られた細い手を手首から掴んでしまっていた。

「・・・謝花くん?」
「お前・・・」

口をついて出そうになったのは、一体何だったのか。
週末の予定か、妹に会う気はあるかという問いか。
小さく口の開閉を繰り返し、しかし妓夫太郎は全てを飲み込んだ。
今それらを告げる勇気が、どうしても出ない。

「・・・いや、何でも無ぇ」

手首を解放すると、当然戸惑った様な彼女の瞳とぶつかってしまい、悪いことをした思いがする。

「・・・連絡する」

取り繕うには雑な言葉だった。しかしは瞬間目を丸くした末、酷く嬉しそうに笑う。
それは妓夫太郎から発された、初めての次に繋がる言葉だった。


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