傘の下に芽吹く



距離感がおかしくなっているのかもしれない。
雨の中をひとつの傘の下で並んで歩く道すがら、妓夫太郎はぼんやりとそう考えた。

「次はショパンが弾きたいなぁ」

すぐ隣から聞こえてくる声は、悪天候もまるで楽しんでいるかのように軽快な色をしている。

練習後、急な雨に傘の用意をして来なかったは、嫌でなければ傘に入るかという問いに迷わず頷いた。
殆ど毎日同じ長椅子を分け合い、肩が触れ合う距離で連弾をしている。それが当たり前になった今、同じ傘の下も特別意識することは何も無いのだろう。
距離感がおかしくなっていたとしても、悪いことでは無い筈だ。妓夫太郎は自身にそう言い聞かせた。

「『雨だれ』は連弾向きじゃねぇ気がするけどなぁ」
「・・・読まれてた」

放っておけば鼻唄を歌い出しかねない曲名を言い当てれば、は驚きに目を丸くして見上げてくる。
読むも何もこの状況でショパンと言われれば雨だれ以外に無いだろうし、いかにも彼女が考えそうなことだ。驚かれるようなことは何も無い。

ちらと横目に見遣った妓夫太郎の視線が、様子を伺うように隣を見上げ続けていたの視線と絡んだ。
前を見て歩けという苦言は、嬉しそうな笑顔によって封じられてしまう。

「良いの。謝花くんとなら何でも弾きたい」

それは、連弾向きでないことを指摘されても尚弾きたいという意味か、違う曲でも良いという意味か。
どちらにせよ、無意識の発言に度々深読みさせられる様な感覚は困ったものだ。
嬉しそうな顔をして謝花くんとなら何でもなどと言わないで欲しい。
妓夫太郎は素っ気なさを装い、引力の強い笑顔から懸命に視線を引き剥がし前を向く。

何も知らない彼女の傍で単なる友人の顔をしていることは、時折酷く難しい。

「傘、そんなに傾けないで良いよ」
「別に。普通だろぉ」

些細な動揺のためか雨から守る盾の角度が際立ち、これには流石に彼女の指摘が飛んだ。
普通と呼ぶには傾き過ぎている傘は押し戻そうにもびくともせず、有難いがこれではいけないとの表情が若干険しくなる。

「そっちの肩濡れてるでしょ」
「濡れてねぇ」
「うそ。見せて」
「どうでも良いだろうがよぉ。おい、傘から出るなよなぁ」

問題の逆側を確認すべく回り込もうとする彼女に対し、妓夫太郎がかわす様に肩を引くものだから、傍から見ればひとつの傘の下で戯れ合っている様にしか見えない。

追い抜かされた同じ音大生達の忍笑いに、二人はギクリと動きを止めた。
やはり付き合っているのではないかと、はっきりそう聞こえた。
途端に二人して黙り込んでしまうものだから、雨脚は変わらないにも関わらず強まった様に感じる。

「・・・行くぞ」

妓夫太郎に促され、再度並んで歩き出す。
軽快だった足取りはぎこちなく、バッグを掴む彼女の手に力が入った。

「ごめんなさい」

二人して前を向いたまま、視線は絡まらない。大学内で誤解されていることは、お互い既に耳にしていた。
男女比で圧倒的に男子が少ない状況の中、只でさえ目立つ妓夫太郎と連弾しているだけで注目を集めるというのに、最近講義や食事も二人で並ぶ機会が増えたものだから噂も当然加速した。

恋人同士だと、完全に誤解されている。

「私が謝花くんのこと離さないせいで、噂になっちゃってる」
「・・・謝ることじゃねぇだろ」

彼女は一方的に責任を感じている言い方をするが、妓夫太郎もまた彼女以外は露骨に寄せ付けないのだからお互い様だ。
傘が雨を弾く音が続いた後、沈黙を先に破ったのは思い詰めた様な顔をしたの方だった。

「私、謝花くんのピアノ大好き」
「はぁ?」

これには妓夫太郎の肩が僅かに跳ねた。一体突然何を言い出すのか。しかし彼女の横顔は真剣そのものだった。

「こんなに息が合うひとは他にいないと思うし、ピアノ以外でも謝花くんが優しいのも知ってるし、本当に良いひとに巡り会えたなって思ってる」
「おい」

話の先がまるで見えない。動揺と怪訝さに歪んだ青い瞳と交差した彼女の黒い瞳は、望まぬ決断に淋しそうな色をしていた。

「でも、謝花くんの迷惑になるなら、自重します。色々」

迷惑とは。自重とは。
自分で言っておきながら既に辛そうに揺れる瞳を前に、妓夫太郎は重い溜息を吐いた。
何が正解かは正直なところ自信が無いものの、このまま勝手な思い込みでを遠ざけることは是が非でも避けたい。

「誰がいつ迷惑だって言ったんだぁ?」
「謝花くんの彼女がどれくらい心が広いのかは知らないけど、流石に最近甘え過ぎたなって反省してるの」

空白にして、数秒後。
静かな雨音に支配される中、妓夫太郎は二人の間に生じた明確な擦れ違いにようやく気付く。

「・・・俺が、誰と付き合ってるって?」
「物凄い美人の、白い髪の女の子」

頭を横殴りにされた様な衝撃に、思わず足が止まる。
それを違う意味に捉えたは、申し訳無さそうに俯き眉を下げた。

「ごめんなさい、昨日偶然見かけて・・・腕組んで、歩いてたから・・・」
「・・・俺の妹だなぁ」

とんでもない誤解をしているのは彼女の方だったらしい。
内心頭を抱えたい様な気持ちで妓夫太郎は眉間に皺を寄せた。
消え入りそうな声から一変、の目が丸を通り越して点になる。

「え?」
「俺の、妹だ」

まさか彼女の脳内で梅がそうした存在になっているとは思いもしなかったというのが妓夫太郎の本音だったが、ひとまずこの場で正せたことに安堵する。
比較的ゆっくりと繰り返すことで、ようやく頭の整理がついたのだろう。
いもうと、との口元が小さく動き、丸い瞳が若干揺れながらも妓夫太郎を見上げた。

「確認だけど、他に付き合ってる人は?」
「いねぇなぁ」

彼女の懸念は妓夫太郎との関係を誤解されていること自体ではなく、そこに影響を受けるであろう架空の恋人の存在の様だった。
陰で誰かを不快にさせることを良しとはしない彼女らしさに密かに息をついた妓夫太郎の目の前で、の目に光が戻る。

「・・・そっか」

その一言は、彼女の心境を色濃く物語った。
心からの安堵と、嬉しさと、小さな期待。疑い様の無い仄かな好意の表情を目の当たりにした妓夫太郎の心音が、異様な音を立てる。

がはっと瞬いて我に返ったのは丁度そんな時のことだった。
本音が駄々洩れになったことに頬を染め、何とか場を取り繕おうと落ち着きなく目を泳がせるその様が、更に彼を焦らせる。
まさか。そんな馬鹿な。
とうに諦めていた期待が違った形で芽吹く感覚に戸惑う妓夫太郎に向けて、彼女は懸命に言葉を選び問いかけた。

「あっ・・・えっと、それじゃあこれからも、謝花くんの傍にいても大丈夫?」

半ば死に物狂いで音楽の道を志したのは何のためか。
どんな思いで今こうして向き合っているのか。

何も知らない彼女に伝わらないことを、ここまでもどかしく思う日が来るとは思っていなかった。
何も無い状態から新たな可能性が生まれることなど、考えもしなかった。
傍にいたいのはこちらの方だ。叫び出したいほどの本心を明かすことは、出来ないけれど。

「勝手にしろよなぁ」
「・・・ありがと」

妓夫太郎が視線を逸らしたことで、もまた照れ臭そうに髪を弄りながら俯く。
彼の真意の全ては伝わらないが、お互いに胸の奥の熱さを感じていることだけは、目が合わずとも通じている様な不思議な心地がした。

雨脚の弱まりを感じながら、どちらともなく二人の足が再び前へと進み始める。
遠くの空が明るくなってきた。


BACK Top NEXT