彼女のためのパートナー





ピアノ科の謝花妓夫太郎は、音大生らしからぬ見た目に反してそこそこ良い演奏をするらしい。

褒めているのか貶しているのか判断に困る風聞に憤慨したのは、彼の連弾パートナーであるだった。普段は温和な人柄で知られる彼女であったが、これには前髪に隠れた眉を吊り上げ廊下を歩く靴音も必要以上に鳴らしてしまうというものだ。

失礼極まりない話である。音大生らしからぬ見た目という言い方も悪意を感じるが、そこそこ良い演奏をするらしい、という表現にも訂正を求めたい。
彼の演奏は唯一無二のものだ、直接聞いたことがあればそこそこなんて言葉が出て来る筈も無い。

そうして鼻息荒く約束の練習室の扉を開けようとハンドルにかかった手が、中途半端な位置で止まった。
僅か生じた隙間から溢れる音の波に、足がそれ以上先へ進まない。

リストのラ・カンパネラ。自身のとても好きな曲が、彼の指先によって奏でられている。
彼女は時も約束も忘れたかの様に聞き入り、そっとガラス窓から中の様子を覗き見た。

午後の陽が差し込む練習室の中、妓夫太郎の細く長い指先が鍵盤の上を踊る。
難曲である筈がそれを一切感じさせることの無い演奏は、決して大きな手と長い腕だけが理由でないことをは知っていた。

正確な跳躍と細やかな技巧が情感を揺さぶるその世界観に酔いしれ、思わず彼女は感嘆の息を漏らす。
音大生らしからぬ見た目だ等と言う輩は、彼を妬ましく思う連中に違いない。
こんなにもピアノの才と音楽性に恵まれた彼に嫉妬して、悪意ある言葉で呪おうとしているのだろうが、この音を前にすれば全て無駄なことだ。
彼は素晴らしい。誰が何と言おうとも素晴らしい。

ふとした違和感には目を見張る。以前にもこんなことが無かっただろうか。
彼を悪く言う声を耳にし、何も知らない癖に勝手なことをと憤慨した、そんなことが。

その刹那、不意に音が途切れた。
はっと我に帰ると、呆れた様な表情でこちらを見ている妓夫太郎と目が合ってしまい、彼女は罰の悪い顔で練習室の中へと滑り込んだ。

「・・・見過ぎなんだよなぁ」
「ご、ごめんなさい。あんまり素敵で、つい・・・」

素直な謝罪と称賛の声に、妓夫太郎は眉間の皺を深めることで動揺を誤魔化す。
そそくさとやってきたは、空けられた椅子の右半分へと収まった。
約束していた連弾の楽譜を用意しつつも、その瞳は縋る様に先程までの楽譜を追っている。

「最後まで弾いて欲しかったな・・・」
「連弾に来たんじゃねぇのかぁ?」
「それはそうなんだけど」

音を合わせたい欲と、彼の音を聞きたい欲。その二つを天秤にかけて唸った末、彼女は前者を選択し姿勢を正した。
頭を切り替えたことは容易く伝わり、妓夫太郎が楽譜の表紙を捲る。

「すぐ行けんのか」
「勿論。頭からお願いします」

曲目はモーツァルトのピアノソナタ十二番ヘ長調、第三楽章。
一度横目に視線を交わし頷き合い、二人の指先が同時に鍵盤を叩いた。



* * *



彼と彼女は、端的に言うと音楽的な相性が抜群だった。

入学して初めのピアノアンサンブルでペアになり、初見にして絶妙な組み易さに感激してからというもののは妓夫太郎との連弾を希望し続けている。
彼もそれを拒まないということは、ピアノの相性の良さは一方通行では無い筈だと彼女は信じていた。
入って欲しいタイミングで最適な音をくれる。また、ここだろうという緩急の付け方が示し合わせずともぴたりと嵌まる。
呼吸が一揃いに重なる高揚感に、は連弾の度目を輝かせていた。

「音が充実してた・・・最高に幸せ・・・」
「・・・そうかよ」

頭から三回も通せた満足感は極上としか言いようが無い。
決して口数が多くは無い妓夫太郎との会話はそれほど弾む訳では無かったが、言葉よりも音で親交を深めるといった独特な手法で彼女は日々を楽しんでいる。

一見他人を寄せ付けないような雰囲気の彼は、実のところ非常に面倒見が良い。
こうして度々練習に付き合ってくれるし、他にも課題や解釈の悩みを相談すれば的確な意見を返してくれる。
こんなにも相性の良い相手との出会いは、音楽の神様に感謝しなくてはいけないだろう。

「謝花くんは、いいなぁ」
「あぁ?」

が思わずと言った様子で呟いた一言に、妓夫太郎が怪訝な顔をする。その羨望一色の眼差しは、彼の手と腕へ向けられていた。

「この手と腕は、ピアノを弾くひとなら誰でも憧れるくらい貴重な造形をしてると思う」
「そうかぁ?」
「そうだよ。謝花くんが羨ましい。こんな大きな手なら、私ももっと音域広がるのになぁって」

ちょっと失礼と告げた彼女の手が、妓夫太郎の手首をそっと掴む。
瞬間、彼が身を固くしたことには気付かない。

「・・・おい」
「ほら、こんなに」

こんなにも、手の大きさが違う。それを証明すべく、の手によって二人の掌が合わさった。
男女の違いも手伝い、確かに大きさはまるで違う、ピアニストを目指す者として憧れるという主張は正しい。

「・・・」

しかし、それは例えようも無い奇妙な既視感を伴った。
正確には掌を合わせたことではなく、手に触れたことそのものに対する記憶だった。
頭では理解の及ばない部分で懐かしさが込み上げ、確信を齎す。
この手に触れたことがある、と。

彼女の瞳が動揺に揺れた。
戸惑いに目線を上げると、多大なる緊張と不安、そして堪えきれない期待の混ざり合った青い瞳に絡めとられてしまう。

「あの、謝花くん」
「・・・」
「私、前にも謝花くんと・・・」

声が震える。お互いの掌伝いに、脈打つ心音が聞こえてきそうな緊張の頂点。
前にも会ったことがあるのではないか。
その台詞が喉まで出かかった瞬間、彼女ははっと目を丸くしてその手を離してしまった。

「・・・なーんて。やだな、そんな筈ないのに。ごめんなさい」

手に触れて、前にも会ったことがあるのではないか、だなんて。
これでは口説いている様ではないかと、自分から触れておきながら今更の気恥ずかしさには両手を振って弁解する。

「謝花くんみたいな素敵な音を奏でる人、前から知り合いだったら絶対放っておかないもん。勘違い勘違い」

心臓の鼓動を誤魔化す為に早口で捲くし立てる彼女は、その一瞬淋しげに俯いた青い瞳に気付かなかった。

「・・・訳わかんねぇこと言ってる暇あんなら、もっかい通すぞぉ」
「本当?まだ付き合ってくれるの?」

諦めにも似た自嘲の笑みは瞬間で掻き消え、妓夫太郎の手が楽譜を捲る。
まだ音を合わせてくれるという嬉しい申し出を受け、の声が弾んだ。
同い年でこれほどまでに息の合う巡り合わせに恵まれたのだ。この関係はこれからも大切にしたい。

「謝花くんは優しいね。ありがとう」
「・・・うるせ」

素直でない言葉を口にしつつ、練習に付き合ってくれる妓夫太郎は優しい。
既に頭を切り替えわくわくと目を輝かせる彼女は、肩が触れるほど近くにいる彼の胸中など知る由も無かった。



* * *



「おい」
「・・・」

今日の彼女は確かに、何時にも増してハイペースで繰り返しの通し演奏を要求するとは思っていた。
先ほどの気まずい空気を紛らわす為なのか、本当に波に乗った気分だったのかどうかはわからない。
しかし備付けのソファで次の楽譜の検討中に舟を漕ぎ出すとは思ってもみず、妓夫太郎は呆れた様な溜息を吐いた。

「ったく・・・力尽きるまで弾き込む奴がいるかよ。家じゃねぇんだぞ」
「だって・・・謝花くんと合わせるの、楽しいから、つい・・・」

強烈な眠気に苛まれたは最早目が半分も開いておらず、しかし口から飛び出す本音は頼りないながらも彼の心を掴んで離さない。
重い溜息をついた妓夫太郎が立ち上がった。ぼんやりとした彼女の肩を空いた方向へと押せば、抵抗なく二人掛けのソファへ横向きに沈み込む。

「十五分で起こすぞぉ、予約そこまでしか取ってねぇからなぁ」
「・・・何から、何まで・・・」

礼なのか謝罪なのか判別の出来ない言葉をもごもごと呟いたのを最後に、彼女はすんなりと意識を手放した。
早くも穏やかな寝息を立て始めた寝顔は見事に安心しきったもので、妓夫太郎は何とも言えない顔をして傍へと屈み込む。

「警戒心が薄いのも大概にしろよなぁ」

彼女は知らない。口から零れる悪態とは違い、眉を下げたその表情が限りなく優しいことを。
羽織っていた上着を上掛けに差し出すその手が、慈しみに満ちていることを。

ふわりと被せられた柔らかなカーディガンの感触にの表情が子供の様に緩む。これには彼も堪え切れない苦笑が漏れた。

「こっちの気も知らねぇでなんて顔してやがる、ばぁか」

その手に触れられた時、都合の良い展開を期待しなかったと言えば嘘になる。
しかし妓夫太郎はとうに現実を受け入れていた。
何もかも記憶しているのは、自分だけで構わない。望みは唯一、二度と彼女を喪わないことのみ。
もう一度傍にいる為ならば、友にでも連弾パートナーにでも、彼女の望むあらゆる者になってみせる。
どれほど焦がれ求めたことか。こうして寝顔を眺めていられるだけで、堪らなく幸福だ。

ソファからずり落ちた細い手を拾い上げ、今だけだと強く戒めた末に指先へと口付ける。
それだけのことで彼が途方も無い思いに切なく眉を寄せていることを、彼女は知らない。


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