終の箱庭 中





静かな昼下がりのことだった。玄関口で台帳に目を通していたの前で、暖簾が揺れる。

「御免ください」

礼儀正しく、それでいて初夏の風鈴の様に涼やかな声がした。導かれ顔を上げ、そしては一切を表情に出すこと無く悟る。ああ、本当に潮時なのだろうと。

「開店前でお忙しいところ、すみません」

今目の前に立っているのは、女物の衣に袖を通している少年だ。太陽に似た色をした髪の彼と、同じに。警戒心は決して悟らせない。普段通り、京極屋で長年勤め頼られている顔をしては微笑んだ。穏やかに用件を聞こうとするより一瞬早く、少年が頭を下げる。

「・・・女将さんのこと、お悔やみを申し上げます」

瞬く程の一瞬、は迷い子になった心地を味わった。女将の三津が亡くなり二日経つが、この様な訪問は初めてのことだ。憐れ堕姫の逆鱗に触れた彼女は天高くから地に叩き付けられ、血だまりの中で奇妙に捻じ曲がっていたのだから。他店の者たちが震え上がり顔も出さないことも無理はない。
そんな中現れた少年の放つ言葉の誠実さに、思わず目を見張るのは一瞬のこと。は敬意を持って頭を下げ返した。

「ご丁寧に・・・ありがとう。優しい気持ち、確かに頂戴したわ」

女将が一人亡くなるということは、管理者の椅子がひとつ空くということだ。これが病や老衰であったなら、卑しい下心で弔慰を示す者が大勢いただろう。この町では店を支配する側が圧倒的に強い。少しでも美味い蜜を啜れる座には、光に群がる蛾の様に次の人間が湧いてくるものだ。
そう、母が亡くなった時も―――。

そこでの思考は停止した。
時が止まる。母とは、一体誰のことを指すのか。

「あの、大丈夫ですか?」
「あ・・・ごめんなさい、大丈夫よ」

今己が何を振り返ろうとしたのか、咄嗟には理解が追い付かない。らしからぬ失態への自嘲は、故人を偲ぶ表情へ巧く塗り替えた。

「女将さんのことを考えたら、淋しくなってしまったの。長いこと、お世話になったひとだったから」

事実だった。蕨姫として堕姫がこの店に入ると同時にもまた京極屋へ入り込んだ。圧倒的な美貌で人気を得ると同時に内部では問題ばかり起こす堕姫に代わり、店との緩衝役を一手に引き受けていたのがなのだ。亡くなった三津と膝を突き合わせた機会は数えきれない。激昂も、涙も、時には笑いかけてくれることもあった。人間を善悪のふたつに区分するとしたら、恐らく悪人ではなかった。
あの日も普段通りこちらを通してさえくれたなら、今頃も彼女は店の準備に励んでいただろうに。それらを今僅かにでも表に出せばどうなるか、目の前の少年がそれを探りに来た可能性を危惧せぬではない。

「ごめんなさいね。それで、貴方は・・・」
「あっ!たん・・・っ炭子!」

慌てて駆け付けてくる足音に救われた心地がする。
は変わらぬ穏やかさで背後を一度振り返り、そして正面で苦笑する少年に向かい再度微笑みかけた。

「善子ちゃんのお友達だったのね」
「ときと屋の炭子です。善子がいつもお世話になっています」
「京極屋のよ。こちらこそ、善子ちゃんには沢山助けて貰っているわ」

あの日から数日が経過した。善逸の顔は治療の甲斐あって傷が癒え、綻んだ表情からは互いへの親密さが滲み出ている。ふたりして女を装った男性であることは間違いないが、並んだ姿はどうにも愛らしい。
ふと脳裏に過ったのは先日の過去への問いかけであり、己の幼少期の姿は相変わらず霧の向こうであったが、はそこに蓋をした。胸の騒めきは沈め、今は目の前の少年にそうとは悟られぬよう注意を払わなくてはいけない。

「善子、確認だけど・・・」
「うん。このひとが、いつも話してる姐さん」

深い緋色がを捉え、そして柔く綻ぶ。

「お礼が大変遅くなってしまいましたが、あの時は美味しい饅頭を持たせていただきありがとうございました。善子からも優しくて素敵なひとだって聞いていたので、一度お会いしてみたかったんです」

その笑顔はあまりにも、猜疑心や謀略とは程遠いものだった。先ほどの弔慰と云い、が密かに身構えた先からこの少年は圧倒的な善性で先手を取る。お手上げだ。少なくとも、今は未だ。
思わずといった様子でが笑みを零すと、まず善逸が嬉しそうに笑う。次いで、赤い目の少年が優し気に目を細めた。

和やかな団欒は、しかしの胸中にはっきりとした爪痕を残した。
何も無かった頃であれば穏やかに見守れたのだろうが、事は既に動き出してしまっている。

花札のような耳飾りが揺れた。始祖が探している少年―――鬼狩りだ。




* * *




もうじき陽が沈む。この街が目覚める刻限が迫る。

そんな折、この男は前触れ無しに現れた。
これから“大事な依頼”で遠地へ向かう前に寄ったのだと、だけを呼び寄せ狭い部屋で向かい合う。

「鬼狩りの子どもがいるね。二人、いや三人かな」

の身が芯から凍り付く。格子窓の外で煌き始めた灯も、刻一刻と増える雑踏も、何もかも遠く感じる程に世界は閉ざされている。上弦の弐と刻まれた虹色の瞳は、興味深そうにを観察していた。

炭子と名乗った少年は、店の遣いついでに善子の顔を見に寄ったのだと言い、あれからすぐに京極屋を後にした。彼が実際の所何を目的として現れたのか。先日の善逸の様子からして、を探りに来たのか。それとも蕨姫の正体に勘付いたのか。真偽の程ははっきりとしなかったが、あの耳飾りは重い確証を齎した。
花札のような耳飾りを付けた少年。は始祖たる男に直接謁見出来る立場に無いが、少し前に遠隔で頭の中へ刻み込まれた伝令を忘れ得る筈が無い。
彼は鬼狩りだ。それはつまり、善逸もまた鬼狩りである証となっての胸に圧し掛かったが、来るべき時が来たに過ぎぬと己を律した。
譲れぬものがある。どんな対価を払ってでも失えないものがある。その決意を固めた頃合いに、圧倒的に格上の鬼からの言葉は声色の柔らかさと裏腹に剣山の如く突き刺さったが、は静かに頭を垂れることへ全神経を注いだ。

「申し訳ございません。私の力不足で、見破るまでに時間がかかり過ぎました」
「お嬢さんを責めている訳ではないよ。ただ、君のことが少し心配でね」

童磨の手には、美しい趣向の凝らされた扇子が握られていた。汚れひとつ無いその先端が、俯いたの目線の下へと差し込まれる。促されるまま、どんな罰だろうと甘んじて受ける覚悟と共に顔を上げる。
表向き優しげな問いかけを、言葉の通りに受け取ってはいけない。どこに穴が待ち受けているかわからない。懸命に自らを奮い立たせるの姿を前に、童磨は小首を傾げ憐憫の情を浮かべて見せた。

「可哀想に。情が芽生えてしまったんだろう」
「いえ。私は・・・」

この男にどこまで知られているのか。それは考えるだけ無駄なことだ。善逸が鬼狩りとわかった以上は切り捨てる、それだけのこと。
大事なことは違えない、揺らがない。そうしてが強く己を叱咤した、次の瞬間のことだった。

「無理も無いよ。君は昔から、そういう性分をしてたから」

甘い声色で紡がれた突然の囁きに、頭の中が白くなる。

虹色の瞳は依然として、哀れみと同情に煌いてを見ていた。

「幼少からずば抜けて賢過ぎて、周りからはなかなか理解を得られなかった異質な存在だ。環境の劣悪さが君を弾いたようなものだけどね。無条件に慕ってくれるような相手を、君は決して無碍には出来ないのさ」

何てことは無いかのようにすらすらと齎される情報は、自身ですら手放してしまった記憶の断片だ。
友は。話し方は。はじまりは。善逸に問われ悉く躱してしまった問いの答えを、この男に握られている。当然の様に語られる生い立ちや性分は己のことだと、理解が追い付かず心が押し潰されていく。

異質な幼少期とは。何故三津の死から顔も思い出せぬ母のことなど連想したのか。心に巣食う孤独さ故に慕ってくれる相手を無碍に出来ず、善逸に心を許したと云うのか。
ならば、あのふたりとは、何処で。

手繰り寄せども記憶は浚えず、もどかしさから頭の奥が鈍く痛む。
意図せず揺らした視界の端、童磨はこちらを慈しむ様に微笑んでいた。

「でもお嬢さん、君には生涯違えることの無い優先順位がある筈だ。一時の情で失ってしまうには、お嬢さんにとってあのふたりの存在は大き過ぎる。だからあの夜だって、三人揃って死にかける道を選んだんだろう」

それは、頭を強く殴られた様な衝撃を伴った。

「・・・え?」
「賢い君なら、ひとりで危険を避けることも出来ただろうに」

三人揃って死にかけた夜。
覚えの無い話が、突如として頭を強く揺さぶる。

頬に感じた、限度を超えた熱さと痛み。誰かの悲鳴。吐気のする下卑た笑みに見下ろされ、願ったこと。

―――逢いたい。

変則的な苦痛や悲しみが綯交ぜになり、急激な記憶の波に対応しきれないが故に全身が悲鳴を上げる。身体を二つに折り曲げ自らの腕で抱き締めなくては、散り散りになってしまいそうだ。
礼儀を気に掛ける余裕を無くし縮こまるを見下ろし、童磨がおろおろと扇子で口元を隠した。

「ああ、突然昔の話をされて混乱しているんだね。助けてあげたいけれど・・・」

彼は腰を下ろしたまま、ずいと傍へ寄った。許容量を超えた動揺にもがき苦しむを覗き込み、耳許へ唇を寄せる。

心配そうに寄った形の良い眉が、不意に可笑しさを隠しきれなくなった様に柔らかな弧を描いた。

「君の脳は、長年楽しみに熟成させた俺のとっておきでね。どうしても我慢出来なくて、鬼に変える過程でほんの少し摘んでしまったんだ。再生するとはいえ頭を弄ってしまった訳だから、記憶が戻りにくいのかもしれない。すまないね。でも、とても素敵な味だった」

の頭はとうに限界を超え、正気を保つのがやっとの状態だ。百年越しの残虐な告白はまともに届きはしない。
激しく打ち震えるその身は、大袈裟な抱擁によって強引に制止された。

「大丈夫さ、お嬢さん。何も心配いらないよ」

優しげな反面、その両腕から情愛は欠片程も感じられなかった。しかし、その言葉は劇薬の如く作用し、を安定へと導く。
生まれながらにして”神に祝福されし子“と祀りあげられた男は、確かにひとを思うまま扇動する能力に長けていた。

「お嬢さんの役割は、殺戮ではなく救済なのだよ。憐れな子がこれ以上無用な戦地へ駆り出されることの無い様に、君が優しく眠らせてあげるんだ。崇高で平和的な、ただひとつの解決策さ。それは妓夫太郎と堕姫の為でもあるし、延いてはお嬢さん自身の為でもある。俺はね、皆が笑顔でいてくれる、そんな未来をいつだって願っているんだ」

にこやかな虹色と虚ろな漆黒が見つめ合う。震えは既に止んでいた。

「君たち三人がこの先もずうっと一緒に仲睦まじく生きていく。その為なら、君は何だって出来る。そうだね?」
「・・・はい、必ず」

何処からともなく琵琶の音が響くと共に、童磨の姿は幻の様に掻き消えた。次の瞬間には襖が乱暴に開き血相を変えた堕姫が飛び込んで来る。歯がゆい思いで様子を伺っていたのであろう、美しい顔には焦燥が色濃く浮かんでいた。

「あいつ、一体何したの・・・!!」
「・・・大丈夫よ。何も問題無いわ」
「問題大有りなんだよなぁ・・・!!」

身体は堕姫だが、中身の操作は妓夫太郎も噛んでいる様だ。直接言葉を被せてくるとは珍しいが、それだけの消耗に憤っている証とも言える。
愛する者から大事に思われている。にとって、それは何よりの幸福だ。疲弊しきった身が癒されていく思いに、は思わず目を細める。

「アタシ今からでも追いかける、絶対後悔させてやる・・・!」
「どうか落ち着いて。もう近くにはいない筈よ」

何を対価にしたのかはわからず仕舞いだが、随分と手の込んだ訪問だった様だ。矛先を失った怒りを鎮める為、そして己の無事を訴える為、は堕姫の身体にそっと腕を回す。“ふたり”を心から、大切な宝物の様に抱き締めた。

「本当に大丈夫よ。私、目が覚めただけだから」
「・・・」

突如甦った苦痛の記憶は穴だらけで、まともな形など成していなかった。しかし、それだけでも十分に理解出来たことがある。

は人間の悪意によって一度殺されかけている。恐らくは、妓夫太郎と堕姫もまた同じ。
百年に渡りこの濁った町で、この世で最も醜い存在とは何か、幾度となく見続けて来た。
守らなくては。醜悪な魔の手から、何より大事な存在を守る。例え力は弱くとも、この身に宿った毒がある。必ず守って見せる。

突然の訪問は激しい消耗と引き換えに、人間への嫌悪と最愛を喪う恐怖を思い起こさせてくれた。が童磨に心から感謝すると時を同じくして、黙って抱かれていた堕姫が探る様に口を開く。

「・・・黄色い頭の不細工、アタシに楯突いてきたわ。殴り倒してやったけど、受け身を取られた」
「そう・・・」
「店の連中が離れに寝かせてる。帯に食わせるけど、それで良いわよね」

頭の中で、太陽に似た笑顔が煌めく。は静かに心の隙間に蓋をした。二度と開かぬ様、強く、固く。

「いいえ。私が終わらせるわ」
「どうして!アタシの帯ならすぐ終わるじゃない!」
「そうね。でも・・・これは、私がしなきゃいけないことよ」

これはけじめだ。今まで自らの欠点に背を向け続けた、自身が終わらせなくてはならない。
救済という言葉を鵜呑みにするつもりは無かったが、妓夫太郎と堕姫を相手に圧し勝てた鬼狩りなどいない。今までも、これからも。ならば早い内に幕を引いてやるのが、世話役たる己の責務の筈だ。

「傍にいながら今日まで鬼狩りと見抜けなかった私の落ち度、自分への戒めなの」
「そんなの誰も責めたりしないわ!わかるでしょ!」

納得がいかない。その一心で美しい顔を怒りと焦りに乱し、堕姫がを抱き締め返す。着崩れも構わずぐいぐいと身体を押し付けるその様は、まるで幼い子どもの癇癪を思い起こさせた。

「アタシもう我慢出来ないわ!あの餓鬼と一言だって口利いて欲しくない!良い加減アタシ達だけのお姉ちゃんに戻ってよ!」

不意に、の目が丸くなる。
緊張感でも、焦燥感でも無い。ただ、花が一輪咲く様に心が綻んだ。

「・・・なんだか、随分久しぶりにそう呼ばれた気がするわね」

お姉ちゃん。
血縁関係は恐らく無い。それはわかっていながら自然と受け入れていた呼び名は、確かに久方ぶりの響きであると共に、の胸の内を熱くする。

「な、何よ・・・悪い?」
「いいえ、嬉しいの」

日の本一美しい花魁。数多くの人間を食らう強き女鬼。にとってはどちらも関係無く、彼女はかけがえなく尊い、いつまでも少女の様な愛おしい存在だ。
白梅香の匂いを手繰る様に抱き締め、そっと頭を撫でれば、どちらともなく満ち足りた溜息が零れ落ちる。思えば、ここ最近はこういった時間をなかなか取れずにいたように思う。
潮時だったのだ。今なら心からそう感じる。

「この『見送り』が終わったら、新人さんの世話係からは退かせて貰うわ。貴女達だけの、私に戻るの」
「・・・本当?」
「ええ、約束」

こちらを抱き返す腕に、僅か力が籠もる。

「・・・信じて、良いんだな」

堕姫の声に乗った、妓夫太郎の言葉が鼓膜をくすぐる。
は益々慈しみの色を深め、最愛へそっと頬擦りをした。

「勿論よ。貴方達とのこれからを、守る為だもの」

弱き女鬼の覚悟は、今宵遂に固まった。