終の箱庭 上





京極屋の勝手口が、人集りと異様な雰囲気に包まれていた。開店までの時間はまだ残っているが、それ程余裕があるとは言えない。は探る様にひとりの女へ声をかけた。

「何かあったの?」
「あっ、姐さん・・・」

出来る限り密やかに抑えた声だった。しかし、耳の良い新人はそれすらしっかり拾い上げたのだろう。人集りの中心から、甲高い声が響く。

「だ、大丈夫ですから!アタシ、元気ですから!」

世話係であるの為に、人の波がふたつに割れて道が開ける。大層気まずそうな顔をした善逸が、心許なく佇んでいた。簡潔に表すならば、酷い出立ちである。

「お遣いに出た先で転んだって本人は言うんですけど、どう見ても・・・」
「嘘じゃないです!本当に転んだだけなんです!こんなの全然、全っ然大したことないんです・・・!」

全身傷だらけ、泥だらけ、更には痣さえ拵えている。ただの転倒でここまでの惨状になるとは考えにくい。
しかし、日々強く慕ってくれる相手からの必死の訴えだ。真偽はどうあれ、は善逸の思いを守ると心に決めた。

「わかったわ。でも、この姿はお客様には見せられないわね」

疑われる緊張感から半ば逆立つようだった黄色い髪が、安堵したのかへなへなと肩ごと萎む。心の奥底に込み上げたのは、温かな庇護欲だ。は美しい笑みを穏やかな色へ染め上げ、周囲を取り囲む店の者を順々に見遣った。

「皆、後は私に任せて頂戴な。お店を開ける支度、お願いね」

店中の信頼を勝ち得たの一言だ。皆口々に従順な返事をして去っていく。中には善逸の怪我を案じ、励ましてから持ち場へ戻る者もいた。改めて自身の惨状を見下ろし、もじもじと恥じ入る善逸と目が合う。

「いらっしゃい、善子ちゃん」
「・・・はい、姐さん」

一目で男だとわかっていた。しかし、こちらに害が無い限り手を下す必要は無いと泳がせ、気付けば時が少し経つ。
明るい笑顔の似合う、素直で可愛らしい少年だ。世話係として共に過ごす時間を経て、はこの少年を好ましく思うようになっていた。

出来ることならこのまま何事も起こらないで欲しいと、願ってしまう程に。




* * *




容赦無く腫れ上がった頬から優しく泥が拭われ、消毒と薬を施され、そして柔らかな綿布で覆われる。時折痛くないかと気遣いながら手当てを進める女の顔は、今日も一段と美しい。蝶屋敷を思い出す様な手際の良さに、感心するやら癒されるやら。顔の距離が近い故香る甘さに、善逸は必要以上に鼻息を荒げないことにのみ注力した。

「はい、これでお顔は一通りね」
「ありがとうございました・・・すみません。お手数、おかけしちゃって」
「腕や足は、本当に自分で出来るの?」
「だっ・・・大丈夫です!!こんなのちゃちゃっと泥だけ拭えれば、全然へっちゃら!あは、あははは・・・!!」
「そう。じゃあ、後で使えるように一式揃えておくから、お部屋に持って帰って頂戴ね」

着物は脱げない。性別の偽りは決して明かせない。少々苦しい強がりだったが、は深追いをすることなく善逸に理解を示してくれる。薬箱から必要な分を風呂敷に詰め直す、その横顔は美しいと共に優しい。このまま時が止まってしまえば良いとさえ夢見る、その刹那。

「お友達と、喧嘩になってしまったのね」

それは、心臓を鷲掴まれた様な衝撃だった。まさか見られていたのではないかと、血流が急激にどっと乱れてしまう程に。
しかし、こちらを見遣り微笑むの表情は柔らかい。

「わかるわ。酔った殿方に乱暴されたならもっと騒ぎになるでしょうし、それに・・・ふふ。額に綺麗な歯型がついてしまう転び方だなんて、聞いたことがないもの」
「あっ・・・あー、あはは」

見事に推理された、それだけのこと。額の歯型だなんて物騒なものは確かに相当痛かったが、このお陰でが理解をしてくれたなら負傷した意味もあったというものだ。善逸は吹き出た汗を拭うなり、小さく俯いた。

「・・・少し、意見の食い違いがあっただけなんです。なのに何か、熱くなっちゃって。すみません、お店の仕事もあるのに取っ組み合いの喧嘩だなんて」

定期報告の集いは普段通りの筈が、ひとつ不穏な石を投げ込まれたことで波紋が広がり、見る見るうちに決壊した。必死で止める炭治郎を物ともせず、善逸と伊之助は殴る蹴る噛むと考え得る限りの方法で争ってしまった。

「喧嘩で手が出てしまうくらいに・・・善子ちゃんが、譲れないことだったんでしょう?」
「・・・はい」
「だったら、私に謝る必要は無いわ」

深入りも責めることもせず、は微笑んでいる。それだけのことが、今の善逸には救いとしか呼べないほどの喜びとなって満ちる。

「傷が目立たなくなるまで、少しの間はお掃除に専念して貰いたいんだけど、良いかしら」
「も、勿論です!裏方のお仕事、何でもします!」
「ふふ。善子ちゃんの三味線が聞けないのはお座敷のお客様も淋しがるでしょうから、早く治さなきゃね」

は善逸を責めない。出来ることをすれば良いと、受け入れてくれる。三味線の腕を認めてくれる。これ以上無い誉れを、惜しみなくくれる。

「それから、早く仲直りも出来ると良いわね」
「・・・はい」

伊之助とは大違いだ。
しかし、猪頭の友の言葉が真っ直ぐであることもまた、理解出来てしまう。

歯切れが悪くなった善逸を気遣って、がすぐ傍へ寄ってくれた気配がした。

「気持ちをぶつけ合える程のお友達は、宝物だと思うわ。大丈夫よ、善子ちゃんは眩しいほど良い子だもの」
「・・・っあの!」

一番世話になっているひと。
信頼を置けるひと。





『姐さんのことよく知らない癖に、変な言い掛かりつけるなよ!』

『あぁ?寝惚けてんのかタコ助が!鬼が潜んでるかもしれねぇんだ、はなから疑うのは当たり前だろうが!』





喧嘩の種には、相応しくないひと。

彼女が、人間以外の恐ろしい何かである筈が無い。

「姐さんは、友達と喧嘩したこと・・・ありますか」

気付けば、善逸はそう口にしていた。

「え・・・?」
「も、ももも勿論、今の姐さんはそんなこと縁が無いってわかってます!こっ・・・子どもの頃、とか!」
「子どもの、頃・・・?」
「その・・・仲直りのお手本に出来たら、なんて」

突然こんなことを聞いては不自然だと、善逸とてよく理解している。しかし、今日だけは引き下がれない。下唇を噛む善逸を前に、が困ったように眉を下げ苦笑を浮かべた。

「私の話なんて、きっと参考にならないわ」
「そんなこと無いです!!」

躱される。それを察知し追い縋る声は、締め切った小さな部屋で思いの外大きく響き渡ってしまう。静寂すら耳が痛く、善逸は居た堪れない思いで懸命に口を動かした。

心臓の鼓動が煩い。の音が乱れたことに、無理やり気付かない振りを貫ける程に。

「あっ・・・すみません、大きな声出したりして。でも、姐さんの話、知りたくて・・・」

の雰囲気はおかしいと、伊之助は言った。
人間にしては奇妙な違和感の残る空気だと。

ーーー鬼なのではないかと、そう言った。

たかだか一瞬、宵闇にすれ違っただけの間柄で何を言うのかと、血液が沸騰したかの様に善逸は怒り、取っ組み合いの喧嘩は激しさを増した。

だが、この状況でまずは疑うという伊之助の気持ちも理解出来る。理解したい。
ならば、が人間だと証明出来れば解決ではないか。まずは店に入るまでの話を聞き、理解を深め、そして折を見て昼間に伊之助や炭治郎に引き合わせることが叶えば万々歳だ。

思い出話を懐かしむことが出来れば鬼ではないなどと、誰が証明出来るというのか。敬愛する女を信じたい一心の善逸は、己の破綻しきった論理に気付かない。加えて、未だ陽光の下でと並んで歩いたことも無いのだと。それすら思考の彼方へ追いやり善逸は畳み掛ける。

「姐さんがお店に入る前、どんなひとだったのか・・・」
「善子ちゃん・・・」
「姐さんは優しいし面倒見も良いから、友達沢山いたんだろうな、とか。昔から、そういう上品な喋り方だったのかな、とか・・・。前に聞かせて貰った、大切なふたりとは、どこで出会ったのか・・・ここに来るまでの姐さんの話、聞きたいんです」

の音は確かに時折歪む。だが、変わった音のする人間などどこにでもいる。彼女が鬼である筈がない。こんなにも周りから信頼されて優しいひとが、人間を喰う筈が無い。は人間だ。人間の筈だ。

「・・・だめ、ですか」

知りたい。
彼女が鬼である疑いを晴らせるなら、が人間だと裏付けられるなら。どんな些細な思い出話でも、喉から手が出る程に欲しい。

善逸の祈る様な思いとは裏腹に、が浮かべたのは困りきった微笑で。そしてそれは、例え様も無いほど切なく美しく、胸に迫るものだった。




* * *




頭に靄がかかったような覚束ない思いに、足元が疎かにならないことを祈る。そうしては普段通りの完璧な人間を擬態し、ひとり店の通路を歩んでいた。

善逸に、昔のことを問われた。それはもう懸命に、乞い願うかの様に。彼は疑い様も無く、必死だった。
あまりに彼の瞳が真っ直ぐ過ぎて、適当な嘘を並べて繕うことが出来なかった。それは店と蕨姫の間を取り持つ者として、擬態を傘に蠢く諜報者として失格であると理解している。しかし、出来なかった。



『昔のことだから、今すぐには上手に話せそうにないの。少し、時間が欲しいのだけれど・・・どうかしら』



それは苦しい逃げの一手だったが、善逸はそれでも良いと頷き引き下がった。傷付いた様な、どうにか己を納得させている様な、思い詰めた顔はーーーあの少年がこれから先も無害でいる保証が無くなったことを意味すると同時に、の胸に小さな棘を刺した。

先延ばしにした約束は、果たせはしないだろう。善逸が決定的な行動に出れば手を下すしか無くなる。運良く何事も起きなかったとしても、今更遠い昔の記憶など、この手に取り戻せる筈も無い。は空虚な思いに苛まれた。

善逸が想像する様に、友達は沢山いたのだろうか。
昔の自分はどんな喋り方をしていたのだろう。
唯一絶対の大切なふたりとは、どうやって出会ったのだろう。
何もかも、手の届かない霧の中だ。

その時だった。漸く辿り着いた自室の扉が内から開かれ、音も無くは吸い込まれる。瞬きひとつの末、部屋の隅を背に妓夫太郎と向かい合っていた。
彼は先程の問答を全て知っている。退路は絶たれ、逃げることは許されない。それがわからないでは無かった。

「お前、もうあの餓鬼に関わるのは止せよなぁ」
「出来ないわ。私はあの子の世話係だもの」
「店から消えちまえば世話も必要ねぇ」

間を与えない即答に対し、は返す言葉を見失ってしまうが、妓夫太郎は追撃の手を緩めない。

「男だって看破した時点で、怪しいのはわかってた筈だよなぁ。奴が遂にお前の素性を探り始めた。それが答えじゃねぇのか」
「・・・それ、は」
「お前が出来ねぇなら妹の帯で取り込む。俺が陰で始末したって良い」

確かに今日の善逸は様子がおかしかった。様子見だと悠長に構えていられる段階を、一気に踏み抜いたと言っても良いだろう。

何かあれば手を下す。その信念は覆さない。
しかし脳裏に浮かぶ笑顔は、滅の字を負う隊服とは未だに直接結び付けることが出来ない。

「まだ、善子ちゃんが、鬼狩りだって証拠は・・・」
「証拠、だと・・・?」

ほんの悪あがきの様な、か細い声だった。
しかし僅かな一押しが決定打となり、妓夫太郎の米神に青筋が浮かぶ。

だん、との耳元で重苦しい音が響く。
妓夫太郎の拳が、血管の浮き出た腕ごと押し込められた壁に叩き付けられていた。

「んなもん集めるつもりが無ぇのに、よく言うよなぁ・・・!」
「そんな、こと・・・」

怒りに震える表情は、しかし嘆きの色に似ていた。鼻先が触れ合いそうなほど近くでそれを受け止めたからもまた、悲しみ以外の感情が瞬時に零れ落ちる。

「私は鬼だわ。何をすべきか、わかってる」

妓夫太郎にこんな顔をさせたかった訳ではない。誤解を与えたかった筈も無い。

「私が一番大事に思うのは貴方たちよ・・・」

語尾が震えてしまう程懸命に訴えた言葉は、まだ届く余地があったらしい。妓夫太郎の瞳から怒気が薄れ後悔に揺れ、深い溜息を吐き出すと共に頭を垂れる様な形で降りてきた。額と額が合わさり、祈りにも似た気持ちでが目を閉じると、瞼の裏にじわりと熱さが迸る。

「・・・寝返る気なんて無ぇことくらいは、わかってんだよなぁ」

至近距離で紡がれるそれは、泣いて癇癪を起こす彼の妹を宥める時の声に似ていた。この優しさに包まれると、ますます泣きたくなってしまう。

「ただ、お前がもう手を下せねぇところまであの餓鬼に入れ込んじまったことも・・・わかってるつもりだからなぁ」
「・・・そんなこと、無いわ」

言い聞かせる様に囁かれた己の致命的な欠陥を、は震える声で否定する。今否定しなければならないと、魂が叫ぶ。

「必要な人間から情報を抜き出せなくちゃ、役に立てない。役に立たなきゃ、貴方達の傍に置いて貰えない」
「・・・
「私が、私でいられない」

始祖の支配下にある以上、鬼であるには本当の意味での自由は永久に訪れない。ただでさえ戦闘能力に恵まれなかったこの身は、他の有益さを実証し続けなければ価値が無くなる。
役に立たなければ、ふたりから引き離されてしまう。それはにとって、死より惨い拷問に他ならない。

「人間の頃のことを善子ちゃんに聞かれて、頭がぼんやりして・・・今はもう、何も思い出せない。でも、そんな空っぽの私でも、わかることがひとつだけあるわ」

そっと手を伸ばせば、されるがまま頬に触れさせてくれる、その揺れる瞳を見て思う。目と目を交わすには近過ぎる距離で尚、更に傍へ行きたいと願わずにはいられない。いつ出会ったのか、どうやって心を通わせたのか。それすら無くした空虚な心でも、ただひとつ揺らぐことの無い想いがある。

「・・・愛してるの。離れたくないの」

閉ざされた部屋の片隅で、吐息混じりの懇願は遂に涙に濡れ始めた。いけないと思いながらも制御出来ない。気持ちの昂ぶりが作用して、熱く込み上げる透明なそれを抑えきれない。

「大丈夫よ。ちゃんと、するから。私が為すべきことをするわ。貴方たちの為にも、あの御方の為にも」

化粧が崩れることも構わず、強引に手の甲で目許を拭う。再度顔を上げた先には、動揺と苦悶に眉を寄せる最愛の姿があり、は懸命に笑顔を象ろうと試みた。
しかし今は、それすら儘ならない。上げた口角が保てず、頬が引き攣り、そして胸が締め付けられるように痛い。一層視界が歪んだ。

怖い。引き離されてしまうことが怖い。

怖い。見限られてしまうことが怖い。

「だからお願い・・・捨てないで」

数字を刻まれた瞳が、見開かれる。それ以上の言葉は呼吸ごと奪い取る様な口付けに阻まれ、何もわからなくなった。