その日、ひとりの遊女が身請けにより京極屋を後にした。
着物や髪飾り、化粧道具、半数ほど残されたそれらを片す役目を率先して引き受けたのは世話役ので、善逸はその手伝いを買って出た。
「姐さんには・・・大切なひと、いますか」
その問いかけは、和やかな思い出話から自然と溢れ出たものだった。想いを寄せた客に求婚された遊女の幸せそうな顔を思い起こし、この穏やかな笑みを携えた彼女にもそういった思いびとはいるのだろうか、と。
普通の恋が許される立場ならともかく、遊郭に於いては一見異質な質問に対し、は瞬間目を丸くした末に普段通り柔らかく微笑んだ。
「お店勤めも随分長いから、京極屋で働く子たちは皆大切に思っているわ。勿論、善子ちゃんも私の大切なひとよ」
「ひぇっ・・・あああそれはそのっ・・・嬉しい、です、けど・・・!!」
美しい笑みは実に的確に善逸の弱点を突いたが、欲しかった答えには程遠い。そうして狼狽える姿を可笑しそうに見つめていたの瞳が、不意に色合いを変えた。
「でも、そうね。善子ちゃんの澄んだ目を覗いていると、本当の気持ちを明かしたくなってしまうわ」
「・・・姐さん」
時折奇妙な旋律を奏でる彼女の音色を、最早危機感ではなく個性と受け止めてしまうほどに善逸はを信頼している。
「私と善子ちゃんだけの秘密。守れるかしら?」
「っ勿論!姐さんの信頼、絶対に裏切りません!」
閉ざされた部屋の中、敬愛にも近い気持ちを抱く相手からの秘密開示。善逸の背筋が伸びない筈は無かった。あまりに素直なその反応を前に女の頬が綻び、そして。
「私ね、とても大切なひとがふたりいるの」
初めて耳にする音に、善逸は目を瞬いた。
「ひとりは、何にも代えられない可愛い子」
それは割れる様な不協和音ではなく、しかし普段の穏やか一色な隙の無い音色とも違う。
紛れも無い、彼女の本心を謳う音がした。
「周りからは美しさを尊ばれていて、勿論評判通りの美貌の持ち主だけれど・・・私にとっては、不思議といつまでも幼い子どもの様に可愛いの。あの子の為なら何でも出来る、喜んで何でもしてあげたくなる。誰とも比べられない、可愛くて愛しい子」
未だ面通りを許されない花魁のことではないか。気難しく性悪という噂とは繋がり辛かったが、可愛い子と眦を下げるの音は善逸の中に自然と溶け入った。
「もうひとりは・・・私のここを、預けているひとよ」
心の臓を手で指し示し、が瞳を閉じて微笑む。
またひとつ旋律を変えた音の波に、善逸は多くを悟った。
「あのひとがいない世界で、きっと私は生きてはいけない。例え心臓が鼓動を刻めても、私の心は死んでしまう。そんな気がするの」
心に棲まう思いびと。その存在を思い描く彼女の音は、なんと甘美なものだろうか。
「難しい表情と素っ気の無い態度の裏側で、実は優しくて面倒見も良くて、それから・・・ふふふ、とても焼きもちさん。そういうところも全部含めて、堪らなく素敵なの」
普段は覆い隠されたの本心は、深く強く、そして何処か焦がれる様な音がする。
その思いびとは誰なのか、どんな間柄なのか。善逸の中で様々な好奇心が急速に膨らんだその刹那。
「心も身体も深く繋がったまま、ずっと離れずにいられたらどんなに幸せかしら」
「・・・え」
善逸の時が止まった。
言葉の真意を考えれば考えるほど、彼女の遠い目を見つめれば見つめるほど、体温がぐんぐんと上昇し頬が発火しそうに熱い。
数拍の空白に、は違和感を素早く察知し微笑む。堂々たる大人の女性の笑みだった。
「ごめんなさい、善子ちゃんには少し早かったかしら」
「えっ?!いえ、いえいえいえっ?!もう全然そんなこと無いですしアタシだってそういう話はだだだ大丈夫なんですよォ?!そそそそりゃあ色々ありますよねェ?!アタシ達、女!!ですから?!おほほほ!!」
性別を偽っているだけではなく、圧倒的に経験値が足りていない。同じ土俵で話すにはあまりに刺激が過ぎる内容にあたふたとしながらも、善逸は正座の上の拳を丸くした。
「で、でも、聞けて良かったです」
「善子ちゃん?」
「この店で仕事をしている内は、なかなか難しいのかもしれないですけど・・・。姐さんがそのふたりと・・・その、特にそのひとと、幸せになれたら良いなって、思います」
夜の顔とは違う、少女の様な笑顔で旅立ったこの部屋の持ち主を思い起こし、そして善逸は願う。優しく愛情深いこの女性こそ、いつかあの様な幸福に包まれて欲しいと。
「姐さんは、とても優しい良いひとだから。たくさん、笑顔でいて欲しいです」
小さな部屋の中、その一言がやけに響き渡る。
目を丸くする美しいひとを前に、出過ぎたことを口にした気恥ずかしさで善逸は顔を赤くした。
「な、なぁーんて!この店じゃ皆姐さんを慕ってるし、誰だって姐さんの幸せを願ってると思いますけどね!アタシなんかが余計なこと言わなくたって、きっと・・・!!」
「ありがとう、善子ちゃん」
白く美しい手が、善逸の手を包む。ぴっ、と甲高い声が魂と共に抜け出ようとしたが、はそれ以上悪戯に距離を詰めようとはして来なかった。
「最初に話したことも、嘘じゃないのよ。善子ちゃん、あなたも私にとって大切な可愛い子」
彼女から今も尚本心を語る音がする。それだけで善逸の心は満ち足りた。
が陽の下に出られぬ身であるなど、欠片ほども疑いはしない。
「いつかあなたもここを出た時、素敵な恋を叶えて欲しい。心から、そう願っているわ」