太陽と月





その日は朝から雲ひとつ無い晴天が広がっており、隅から隅まで明るく照らされた街は普段と少し違って見えた。
京極屋の玄関口に立った善逸は込み上げる欠伸を噛み殺し、組んだ手のひらをひっくり返し両脇をしめたままこっそりと伸びをする。女物の着物には注意が必要だ。うっかりすればすぐに着崩れる、そう教わった。
忘れ物は無しと一通り確認をして日向へ出ていこうとするその背中に、控え目な声がかかる。

「善子ちゃん」

この店で最も世話になっているの声だ。どんなに細くひっそりとした囁きも善逸が聞き逃す筈は無く、ぱっと勢いをつけて振り返る。今日も変わることの無い美しさがそこにあった。教育係の彼女は静かに歩み寄るなり、善逸の手に小さな巾着袋を握らせる。

「これ、少しだけど持っていきなさい」
「え・・・?あっ、饅頭・・・!」
「ふふ、内緒よ」

中身を覗き込んだ善逸の声が思わず弾む。美味しいと評判の店で売られている饅頭が、三つ巾着の中に納まっていた。
元よりある程度舌が肥えていることもあり、下っ端の食生活に音をあげかけていた善逸にとってこの贈り物は天からの恵みに等しい。瞳をキラキラと輝かせ喜ぶ善逸の表情を見て、は穏やかに微笑んだ。

「お友達と仲良く召し上がれ」
「姐さん、ありがとうございます・・・でもすみません。気を遣わせちゃって・・・」
「善子ちゃんは毎日頑張ってくれているもの。限られた時間ではあるけど、楽しんでいらっしゃい」

新入りの仕事は多岐に渡り、日中に遣いを頼まれることもそのひとつだ。他店に潜入している二人とは言えなかったが、外に出た際同じ時期に売られた友人と少し話をして来ても構わないかと相談したところ、この美しい女は快く承諾をしてくれた。加えて事前に申告した通りの人数分、なかなか手に入らない土産まで持たせてくれたのだ。
恐縮しきりといった顔をする善逸の顔を眺めて思案するなり、の白く美しい指先が悪戯にその頬を突つく。
ひぇ、と息を飲むことを見越していたかの様に、彼女は顔を近付け目を細めた。

「・・・でも、頼んだお遣いは忘れちゃ駄目よ」
「もっ!?ももも勿論ですともォ!おっ・・・ア、アタシに任せて下さいな!!」

声を裏返して文字通り元気良く飛び上がる善逸の反応に、は満足そうに微笑んだ。
咄嗟に出かけた言葉を捻じ曲げたことには、一切気付かない素振りを貫く。

「それじゃあ姐さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けて」

女はそれ以上前進することはなく、玄関口より幾分か内側で優しい笑みを象り新人を送り出した。
軒先の真下に、光と影の境界線がある。
雲に隔てられることなく降り注ぐ太陽光を浴びて瞬間眩しそうに手を翳した善逸は、最後にもう一度振り返ってに手を振った。

珍しい黄金色の髪、そして明るい笑顔。
はほんの一瞬目を見張った末に、普段通りの穏やかな笑みを返すことで善逸を見送った。
相手は特別耳が良いことを察している手前、今心の中で思い浮かべた言葉は決して声にはしない。

ああ、なんて―――太陽が、よく似合う。

背後の物陰からの視線を感じながらも、女は暫く少年の去った日向を影から見つめ続けた。



* * *



その夜のこと、は暗闇に包まれた狭い路地を足早に進んでいた。
形の良い眉は困った様に顰められ、行く先に悩んでいるのか左右を見渡し心細そうに前へと進む。辿り着いた行き止まりに彼女が手詰まりになるその時を見計らっていたのだろう、背後から下卑た声がかかった。

「さあ、ようやく二人きりだなぁ。随分と逃げ回ってくれたじゃねぇか、京極屋の別嬪さん」

大柄のその男は、近頃京極屋へ通っている客のひとりだった。
何とかしてを侍らせようとあの手この手で店に頼み込むも、蕨姫花魁付きの立場ゆえに客は取れないという事実は変わらず、今日こうして彼女が所用で外出した隙に強引な手段に出たという訳である。

「鬼ごっこは楽しかったかい?捕まえたら最後、もう離してはやらねぇ遊びだが」

路地は行き止まり、奥まったこの場所に夜間の今まともな人間は現れはしないだろう。
女の表情から、表向き装っていた焦りの色が抜け落ちた。

鬼を相手に鬼ごっことは、随分と愉快な言い回しだ。

「そうね、もう逃せなくなってしまったみたい」

男がその言葉の真意を問い質す機会は訪れなかった。
暗闇から伸びた手によってその首は奇妙な方向に捻じ曲がり、男の身体は血の一滴も流すこと無く静かに命の機能を停止する。巨体がドサリと物の様に横倒しになったその先、命を消し去った張本人の姿を捉えたの目が丸くなった。

「何を呆けてやがんだぁ?」

妓夫太郎は機嫌の悪さを沈み切れていない顔で佇んでいた。彼女にしつこく付き纏っていた男だった物を足で乱暴に転がし、微動だにしない女鬼の元へと近付く。
の血鬼術をもってすればこの程度の人間は何事も無く始末できるだろうことは理解していたが、これ以上汚い視線に彼女を曝すことは我慢がならなかった。特別有益な情報を持っていそうも無い男だ、葬るのが遅かろうが早かろうが大差は無いだろう。
しかし、指一本触れさせることなく救った筈の彼女は未だぼんやりとした様子で佇むばかりである。妓夫太郎は思わず眉間に皺を寄せて詰め寄った。

「・・・おい。まさか何かされた訳じゃ、」
「ありがとう、助けてくれて」

随分と遅れた感謝の言葉が零れると同時に、漸くの表情が変わった。不自然な程にぼんやりとしていた双眸は今、柔らかく細められている。何事かあったのではないかと両肩を掴む妓夫太郎に向け、彼女は気の抜ける様な声色でのんびりと事実を告げた。

「月を背にした貴方の立ち姿があまりに素敵だったから、見惚れてしまったの」
「・・・・・・はぁ?」

空白はたっぷりと空いた。
訳がわからない。心の底から理解に苦しむといった様子を隠すことなく、妓夫太郎は深い溜息を吐き出した。注意深く見ていたとはいえ、何かされたのではないかと肝を冷やした時間を返して欲しい。
まったく、何を言い出すかと思えば―――そこまで考えた刹那、不意に影から日向を眺め続ける背中が思い起こされ、彼は僅か眉を顰めたまま視線を逸らした。

「月とも相性が良いとはとても思えねぇが・・・まぁ、太陽よりかはマシだろうなぁ」

口に出した途端に覚えた後悔は大変に後味が悪かった。頭痛のする思いで妓夫太郎は辛うじて舌打ちを飲み込む。

彼女が何かと気にかけている人間。男であることを看破しながらもが粛清をせずに様子を見続けている少年。
太陽の下で笑うその人間を見送った彼女の背中に、言い知れぬ胸の騒つきを覚えたことに嘘は無い。
しかし、言葉に出した際のこのみっともなさは常軌を逸している。

「やっぱり、今日はずっと傍にいてくれたのね」

妓夫太郎が自身の見苦しさに唇を噛むと同時に、はそう告げた。
太陽を引き合いに出したことで何を見られたのか、どんな気持ちを抱いたのか。
不貞腐れた様な台詞から、彼女はすべてを察して自ら妓夫太郎との距離を詰める。

「太陽は確かに眩しいけれど、私は月が好きよ」

鬼である以上、陽光は禁忌以外の何物でも無い。にも関わらず彼女がその様な言い方をするのは何故か。
太陽と月に何を例えているのか、相変わらず理解の範疇を超える言動に妓夫太郎が溜息を吐いたその時。の白く美しい手によって、その頬は優しく包まれた。

「不安にさせてしまった?」
「お前なぁ・・・」

の言う不安がどこまでのものか、それは計り知れない。
しかし頬に触れる滑らかな手を包み込み覚える気持ちは、熱いものに他ならず。
返答に代えて顔を近付けた次の瞬間、隙間に割り込んだ彼女の逆側の手に、妓夫太郎は顔を顰めた。

「残念だけど、駄目」

黒い瞳は愛おしい気持ちを隠そうとはしていなかった。その滑らかな指先は慈しむ様に妓夫太郎の唇をなぞり、しかし退く様子は無い。

「誰かに見つかったらと思うと集中出来ないもの、そんなの勿体ないわ」

余計な鼠など片っ端から葬ればそれで済むだろうに、必要以上の殺戮を好まない女鬼はそれを良しとしない。納得は出来ないがわかってしまう、はそういう女だ。不満気に目を逸らす妓夫太郎を見遣り、また一度彼女の指先が唇を優しく這った。

「気が変わっていなければ、夜半に訪ねて来て頂戴な」
「・・・」
「私がどれくらい月を好きか、証明するわ」

甘やかな声が誘う、それは紛れも無い彼女の気持ちの証だ。
月に例えるのはいい加減に止めろという言葉すら発することが出来ない。
それ程に心の奥底までしっかりと掴む様な声色をもっては微笑み、すんなりとその身を翻し帰路を辿り始めた。
唇には指先の感触が不思議と残る、彼女の部屋を訪れない選択肢など無い。
これだから敵わないのだと妓夫太郎は苦笑を浮かべ、その時になり漸く足元に転がる塵の存在を思い出した。

「・・・おい、食わねぇのかぁ?」
「ええ。私は大丈夫」

挨拶の様にひとつの食糧を不要と告げて、は路地の暗闇へと消えた。
妓夫太郎は気怠い様子で屈み込み、人間だったものを見遣る。未遂な上どうにか出来る筈も無かった訳だが、彼女に手を出そうとしていた男だ。食欲は決して掻き立てられないが、妹はこの類の人間を食わないだろうしからも不要の返答を貰ってしまっている。
実に、処理に困る。

「死に損じゃねぇかよ、馬鹿な奴だなぁ。あいつに妙な気を起こさねぇでいれば、明日の太陽を拝めただろうになぁ」

そこまで口にし、妓夫太郎は言葉を切った。
太陽が、何だと言うのだろう。
と話すまで胸の内に巣食っていた騒めきは、最早無いに等しい。

「まぁ・・・陽光なんざ、拝めたところで何の得もねぇ代物だけどなぁ」

気は進まないが仕方が無い。一刻も早く店に戻るべく、彼は獲物の処理に取り掛かった。