隔たり





「本当に・・・本当に、すみませんでしたっ!!」

とんでもないことになってしまった。
冷静でなどいられる筈もない状況に、善逸は頭を畳に擦り付けるしか成すべきことが思いつかない。

「頭を上げて頂戴、善子ちゃん」

頭上から降り注ぐこの部屋の主の声は、まるでいつもと変わりない。恐る恐る顔を上げた先に待つものも、普段と変わらぬ美しい笑顔だ。
しかし、彼女の着物の下に隠れる腕は今一面包帯で覆われていることを善逸は知っている。

厨で熱湯の煮え滾る釜がひっくり返り、近くにいた善逸を庇いは左腕に酷い火傷を負った。事故としか言いようが無い状況であったが、女性に庇われ大火傷を負わせてしまうなど許容出来る筈が無い。素性を明かせぬ潜入中とはいえ、歯がゆさに眉を寄せる善逸を前に彼女は穏やかに笑った。

「新入りさんは店の宝よ、年上が庇うのは当然だわ」
「でも、姐さん・・・」
「幸い私はお客様の前には滅多に出ないし、それほど痛くもないの」

とんでもない大火傷を負いながら、痛みは少ないと告げる彼女の音に揺らぎは無い。
戸惑う善逸を宥めるかの様に微笑むの顔は、人間というより全てを許す菩薩を思わせた。

「善子ちゃんが火傷をしなくて良かったわ」

彼女は本当に人間か。
核心に触れながらも見当違いな妄想に呆けること数秒後、善逸は大事なことを思い出し背後に隠していたものを遠慮がちに前へ押し出した。

「あの、お詫びにもお礼にも全然足りないのは、わかってるんですけど・・・!」

皿に乗ったものを見て、の目が丸くなる。

「その、これなら火傷してない方の腕だけでも食べ易いかと思って・・・」
「・・・」
「まだ熱いうちの握り飯、美味しいんですよ」

至って質素な握り飯は、確かに十分な温かさを保っている様だった。
彼女の音が乱れたことに、善逸はそれほど気を取られることなく先を続ける。

「姐さん、いつも自分は最後で良いって食事後回しにしてるじゃないですか。残り物の冷えてるご飯より、炊きたてのあったかいご飯の方が元気出るし、たまにはゆっくり食べて貰いたくて・・・」

それは確かに、善逸なりの気遣いの形だった。握り飯ならば片手でも食べ易く、普段多忙や食欲不振を理由に食事を共にしない世話役の彼女に対し、温かい食事を摂って欲しいという願いに嘘は無い。
しかし、普段であれば早々に収まる筈の不協和音が鳴り続いていることに、善逸はようやく空気の不自然さを悟った。

懐疑より先に焦りが顔を出す程に、に対する信頼は日々強くなっている。
良かれと思い準備したが、やはり事前に何が好物か聞くべきだっただろうか。そもそも、女性を相手に詫びと礼に握り飯という選択自体に問題があったのではないか。善逸の頭の中で失敗の二文字が無数に踊り、彼に逃げを選択させた。

「・・・アッ、アタシがいたんじゃ落ち着いて食事出来ないですよね!すみません気が利かなくて!失礼します!!」
「待って、善子ちゃん」

焦るあまり器用に正座をしたまま後退る善逸を、の声が引き留める。

彼女の音は今、割れてはいなかった。

「ありがとう、いただくわ」

善逸の気遣いを受けて微笑むその表情は感謝に満ちており、堪らなく優しい。
火傷を負っていない方の手で彼女は温かな握り飯を手に取り、一口齧り付いた。

「・・・美味しい」

柔らかな笑みに心底安堵した善逸は、その違和感を見逃した。
の音は確かに割れてはいなかったが、息を止める様に慎重な旋律を奏でていた。



* * *



担当している新人が耳の良い少年であることを、は察していた。それ故十分過ぎる程に彼が部屋から遠ざかったことを確認して初めて、部屋の隅で出来る限りの声を殺して胃の中のものを吐き出した。
人間の食べ物はどうしたって吐き戻してしまう。多少の時間誤魔化すことは出来たとしても、そう長くは持たない程に身体の芯から受け付けない。冷や汗をかきながら桶を抱えて蹲る背は吐き気に震えていた。

不意に、その丸まった背に大きな手が宛がわれる感覚には目を見開く。普段であれば必ず気付ける気配にすら驚いてしまうのだから、今相当に様々な感覚が衰えていることを自覚して彼女の表情が歪んだ。
十分に気を付けるのではなかったか。自嘲の笑みすら満足に浮かばない中、再度こみ上げる不快感に桶を抱える。

熱湯から庇ったことも、食べられもしない異物を捻じ込んだことも、あの少年を育てている様な錯覚がにそうさせた。言い訳にしかならないだろうが、彼ら兄妹や自身の立場が危うくなる様な場面ではないのだから、問題無いと判断したのだ。結果、この様な醜態を晒している様では何も胸を張れないことはわかってはいるけれど。

「・・・ごめんなさい。見苦しいところを、見せてしまって」

返答が無い代わりに、その手が背を摩る。強過ぎることのない摩擦に促され、は胃に残った異物を全て桶の中へと吐き出した。助かったことは事実だが、彼に酷い介抱をさせてしまったことには罪悪感が残る。
口元を拭い礼を述べようとしたその時、目の前に差し出された小瓶を目に彼女の動きが固まった。

「あいつから預かった」
「・・・え?」

妓夫太郎は淡々とそう告げる。説明するまでも無く、それは彼の妹からの預かり物だった。
小瓶の中に揺らめく赤い液体は、鬼であれば確実に惹かれるであろう独特の存在感を放っている。

張り巡らされた帯により、兄妹はこの店で起きている大抵のことを把握していた。その小瓶は、避けられる火傷を甘んじて受け、更には修復に消耗した身体で異物を摂取するという苦行に呻く彼女への、救いの一手だ。

「さっさと飲んじまえよなぁ」
「駄目よ」

しかし、はそれを拒絶した。

「稀血でしょう」

瓶の蓋を開けずともわかる。栄養価の高い稀少な血液を前に、鬼の本能を殺して彼女は小瓶を妓夫太郎の方へと押し戻した。

「こんな貴重なもの、私には勿体ない。貴方たちが飲むべきだわ」

価値ある食糧は優先的に兄妹へ渡し、彼女自身は生きる為の最低限のものしか摂取しない。見るからに弱り切った今も尚自身に課した掟を順守しようとする頑なさに、妓夫太郎は深く溜息を吐いた。
はこうと決めたことは決して譲らない。それを理解しているからこそ、彼は渋い顔をして瓶の中身を一息に煽る。その様を確認し安堵の息をついた、次の瞬間。

不意打ちの拘束を受け、は目を見開くこととなった。

後頭部を抱えられることで退路を断たれ、もう片方の手で顎から上向きに顔を固定される。
まさかと思った時には、既にぴったりと唇を塞がれていた。

侵入を拒もうと咄嗟に口を一文字に噛み締めるも、どうすれば開くのかを知り尽くされている相手を前にしては無駄な足掻きに終わる。
決して乱暴ではない一押しに陥落し、抉じ開けられると同時に流れ込んで来た血液の特別甘美な香りに眩暈がした。
鬼である以上、理性では拒み切れないものを直接流し込まれてしまえば、どんな強靭な意思を持っていようとも飲み下さずにはいられない。こんな甘やかな手段を用いられてしまえば尚の事だ。

彼女の喉が諦めた様に確かに動いたことを確認してからも暫くその唇は離れることは無く、一滴も余すことなく吸収させようと貪る様に捻じ込まれた舌が絡みついた。
二人の間に隙間が生まれたのは、口の中に血の味がしなくなり暫く経った後のことだ。

「・・・お前の考え方は、それなりにわかってるつもりではいるがなぁ」

数字を刻まれた禍々しい瞳が、ほんの間近の距離での黒い瞳を射抜く。苛立ちに寄せられた眉の奥、一心に向けられる切ない思いを感じられない程、二人の関係は浅くは無い。

「こんな無駄な消耗の仕方を、いつまでも見逃してやれると思うなよ」

包帯の下の火傷は、既に完治していたとしても。吐き出せば全て無かったことになる異物も。一度あえて受け入れてしまう彼女のやり方を、妓夫太郎は良しとしない。

「譲れねぇ優先順位があんのは、お前だけじゃねぇからなぁ」

互いに座り込んだまま正面から抱き寄せられ、彼の肩に顎を乗せるような形では瞳を閉じた。

頭の先から爪先に至るまで、稀血が染み入り巡っていくのがわかる。隙間無く深く繋がれた摂取の手段も手伝ってか、身体中が燃える様に熱く、頭がぼんやりと霞がかる。消耗した全ての細胞と気力が、摂取した特別な血によって再構成されていく感覚だけが鮮明だ。

精一杯の気遣いで温かな食事を用意してくれた少年の気持ちは嬉しかったが、人間の食べ物の美味しさなど、とうに忘れてしまった。
鬼と人間の間に隔たるどうしようも無い壁の厚さを、今心の底から痛感する。

「心配をかけて、ごめんなさい」

詫びの言葉は言える。しかし、もうしないとは言い切れなかった。

は鬼だ。一番大切なものは決して揺らがない。しかし、その性分故にこの難儀な生き方を容易く変えられもしない。
熱に浮かされる身体を抱き寄せる腕は、それを承知しているかの様に強まり、悩ましげな溜息が零れ落ちた。