新入りの教育担当と紹介されたという名の女は、美しい花の様なひとだった。
いつも控えめに微笑んでおり、店の中での信頼も厚く、この店では最高位の花魁からも唯一好かれる存在と聞く。
客を取らない代わりに禿とは別口で花魁の世話をする必要がある彼女は、多忙を極める中でも善逸の世話を疎かにしない。
雛鶴のことを探るなら、様子を見つつも彼女に聞くのが手っ取り早いだろう。
善逸はそう感じ幾度もその機会を得ながらも、未だその核心的な問いかけを出来ずにいた。
美しく穏やかなの音が、時折歪んで聞こえるような瞬間がある。
澄んだ調べが、僅かな一瞬深い奈落の底のような暗い旋律を奏でているのだ。
不気味な違和感は善逸の胸中に爪痕を残し、同時に彼女があまりにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるものだから完全な懐疑へは至らない。
もやもやとした気持ちを抱えながら店内を歩く善逸の姿を見かけ、件の女がそっと声をかけてきた。
「善子ちゃん。ちょっといらっしゃいな」
「はい?」
小さな和室の扉を開けて優しく手招きをするは、今日も変わらず美しい。
こんな任務中でなければ喜んで飛び上がるものを。
そう内心で歯軋りをしつつ善逸が新入りの顔で和室に踏み込んだ、その時。
は扉を閉ざすなり、善逸の着物の身八口へ迷うことなく手を差し込んだ。
勿論下に長襦袢は着ているが、それにしたって状況は突然の危機に見舞われていることに違いない。
性別を偽っていること、そして密室でいきなり女性から脇に手を入れられるという非常事態に、善逸の脳内はパニックに陥った。
「って、ぇええええええええ?!あの、あのっ、あのぉ?!姐さん?!何をぉぉぉ?!・・・お?」
細く綺麗な手は無駄な動き無く長襦袢を整えると、続いて着物と帯の形を手早く整えて善逸の身体から離れた。
襲われるのではないかとあらぬ誤解に動揺していた善逸を前に、彼女は何てことは無いかの様に微笑んでいる。
「さ、これで直ったわ」
「・・・」
の表情からも、その音からも、手を入れたことによる身体の感触への違和感や疑問を抱く様子は無い。
バレてはいない。どっと汗が噴き出すような安堵感に、善逸は魂が抜けた心地で白目を剥いた。
「元気が良いから、脇の締めが甘いとすぐ崩れちゃうのね。あまり着慣れてないのかしら?」
「えっ・・・いっ、いいえっ?!ア、アタシは生まれてこの方着物以外は着たことが無いんですよぉぉ?!」
着物を着慣れていないという指摘を性別に置き換え、善逸の声が必要以上に上ずる。
懸命に着物一筋を主張する新入りの叫びを受け止めたの顔が、一拍の間を置いて優し気な笑みを象った。
「ふふっ、善子ちゃんは面白い子ね。でも、着崩れは気を付けなきゃ駄目よ。芸事と同じくらい、身だしなみは大切。わかった?」
「はっ・・・はひ・・・!」
女同士がそうする時のように。同時に、親が子に言い聞かせる時のように。彼女は善逸に顔を近付けて教えを説いた。意図的ではないにしても良い香りが間近に迫り、善逸としては気が気でない。
そんな折、和室の扉が外から静かに開かれた。現れたのは幼い禿で、は膝を折ることでその言伝に耳を傾けている。要件は至って単純だった。
「・・・ええ、わかりました。すぐに参りますと、蕨姫花魁に伝えて下さいな」
緊張に奥歯を食い縛っていた禿が、その返答を受けて安堵の息を吐きその場を後にした。善逸が未だ目通りを許されていない花魁は、相当に気難しいと有名な女の様だった。
そんな蕨姫の世話を任され、彼女の求めに応じ動き回る苦労は如何程のものだろうか。常軌を逸するほどに音が割れる瞬間は、無理が祟った結果生まれたものではないだろうか。
「・・・あのっ、姐さん」
「なぁに?」
気付けば善逸は、すぐさま花魁の元へ向かうべきを呼び止めていた。急いでいるだろうに、彼女はそれを感じさせることなく穏やかに微笑んでいる。
「無理、してないですか・・・?」
「え・・・?」
「姐さん、いつも忙しくされてるから・・・気をつけないと、倒れてからじゃ遅いと思って・・・」
不意を突かれたかの様にその黒い瞳が丸くなり、部屋の中に沈黙が生まれた。新入りから告げられた突然の言葉に唖然とした音を感じ取り、善逸ははっと我に返る。
「あっ・・・偉そうな口利いて、すみません・・・!!」
先輩に対し気を付けろとは何様だろうか。善逸は慌てふためき何度も頭を下げた。そうしてからくり人形の様な動きを繰り返す新入りをぼんやりと見つめていた女の瞳が、柔らかく細められる。
「ありがとう、善子ちゃん。優しい子ね」
「ひぃゃあっ?!」
頭を下げることを止めさせるために肩を支え、彼女が軽く頬と頬を近付けたことで、善逸は余計に奇声を発して煙を噴いた。
「私は大丈夫。でも、善子ちゃんの言う通り気を付けるわ。ありがとう」
また、一度。
の音が、一瞬不気味な旋律を奏でた。