毒と思いを馳せる夜





「さあ、ご覧なさい」

女の声は優しく、柔らかく、甘やかに獲物の耳へと染み入った。
老若男女を問わず穏やかに自由と思考を奪い、そうとはわからぬ毒で犯す。これがの遣り方であり、この血鬼術を破れる強者はそう現れはしない。
隠として決して不義理は無く任務に忠実であった男もまた、例外では無かった。

「今侵入している鬼狩りの手の者達は、この名前で間違い無いかしら。不足は無い?」

すっかり弛緩した四肢での膝を枕に、男は問いかけに応えようと懸命に霞む頭を働かせた。何が正しいかはもう判別がつかない。ただ無性に、この女に全てを委ねてしまいたい。男はその一心で差し出された紙に記された名をなぞり、二度、頷いて見せた。

「そう。良い子ね、ありがとう。とても助かったわ」

の白い指先が、深い慈しみを乗せて男の頭を撫でる。ゆっくりと、男の意識は堕ちていった。

「ゆっくり、お休みなさい」

苦痛とは無縁の猛毒が、今宵ひとりの命を静かに吸い上げた。




* * *




静かな夜だった。全てを吐いて逝った屍を膝に乗せたまま、は格子越しの月を見上げ囁く。背後には、絶世の美女が立っていた。

「今度の刺客は皆さんとてもお上手ね。裏を取るまでに少し時間がかかってしまったわ。ごめんなさい」
「別に。謝ることじゃないけど」

堕姫はその場に屈み込むなり物言わぬ男を乱暴に押し退け、自らがの膝枕に寝そべった。ご丁寧に足を使い徹底的に障害物を排除する光景を見下ろし、は不思議そうに小首を傾げて見せた。

「あら。食べないの?」
「いらないわよ、こんな不細工」

声は荒げないが、語尾が密かに強い。これは怒りを溜めているとわからぬ女ではなく、白い手が両側から堕姫の頬を優しく包み込んだ。

「怒っているの?私が見破るのが遅かったから?」
「違うわ」

上と下から、しっかりと視線が絡み合う。堕姫は美しい眉を顰め二、三度口の開閉を繰り返した後、溜息混じりに優しい女から瞳を逸らした。

「いつもそうだけど。何もわざわざ、こんな面倒なことしなくたって良いじゃない。気に入らない鼠なんか、鬼狩りだろうが無関係だろうがすぐ消してやれば良いのにって、人間の命なんかどうだって良いのにって・・・そう思っただけ」
「・・・そうね、貴女の言う通りかも」

人間を始末する。ほんの一瞬で済む瑣末なことに、は必要以上に時間をかける。殺すべきか、殺さぬべきか。およそ考える意味の無いことを確認し、最低限の命しか奪わない。堕姫はをこの上無く好いていたが、この点だけは同意しかねると不満を露わにした。
は困った様に眉を下げそれでも真っ向からの反論を避ける。堕姫の体内から影が伸びたのはそんな時のことだった。音も無く分離した兄は、妹の膨らんだ頬を優しく小突く。

「お前が気に入らねぇ人間を片っ端から始末したらよぉ、一晩で街中が大騒ぎになっちまうだろうが」
「・・・でも」

正論だ。彼らの使命は鬼狩りの殲滅であると同時に、この地を拠点とした青い彼岸花の捜索任務である。遊郭中の人間を無闇に食い荒らすことでは無い。
確かな愛情を二対の視線から感じつつ、堕姫が余計に面白くなさそうな顔をした。わかっている。その様なこと、言われずともわかっている。その主張がありありと浮かんだ美しい顔を見下ろし、の表情が和やかに綻んだ。

「大丈夫よ、貴女はとても賢くて優秀な鬼だもの。あの御方のご意思は、きちんと理解出来ているのよね」

寄り添う理解と共に、疑い様の無い慈しみが降り注ぐ。

「心配しなくても、私は人間に心を移したりしない。ずっと傍にいるわ、可愛いやきもちさん」

目を丸くする静寂はほんの一瞬。
数字を刻んだ瞳が、甘える様な色に蕩けた。

「・・・何よぉ、わかってるんじゃないの」
「ふふ。わかるわ。だって私も貴女が大好きだもの」

膝枕だけでは飽き足らず、ぎゅうと堕姫の両腕がの腰を掴んで離さない。どれだけ甘えても包み返して貰える。その確信を隠さない幼子の様な美女を見下ろし、女はますます優しさを深めた掌で堕姫の頭を撫でた。

「でもね、人間を装う生活は面倒事も多いの。貴女たちの為にも、あの御方の為にも、何事も適度に上手に、ね。お店と貴女の間に立つのが私の役割よ、どうかわかって貰えないかしら」
「もう・・・わかったわよぉ、しょうがないわね」
「偉いぞぉ。お前は大人だなぁ」
「ふふっ、そうよぉアタシは大人なんだから」

傍に屈み込んだ兄からも背を撫ぜられれば、機嫌の悪さなど夜風に乗ってどこへやら。すっかり笑顔を取り戻した堕姫を見下ろし、二人は静かに視線を交わし合った。
侵入者が判明した以上、為すべきことは決まり切っている。

「それで、どうすんだぁ」
「なるべく早く終わらせなくてはね。外に異変を漏らされる前に、まずは・・・」

刹那、膝に転がっていた堕姫の身体がびくりと跳ねる。米神に青筋が立てられ、帯からの伝達内容が好ましくないことを知らしめた。

「・・・糞忌々しい女鼠。毒を飲みやがった」
「怪しまれたことに勘付いたなぁ。店から逃げるには上等な手段じゃねぇか」
「お見事な覚悟のお嬢さんだこと」

は瞬間感心した様な声を上げたが、即座に考えを切り替える。獲物は狩られることを悟り毒を煽った。ならばこちらは出方を変えるまでだ。

「じきに女将さんが彼女を連れて来る筈よ。貴女から直接、帯の一部を渡して差し上げて。蕨姫花魁からの餞別なら、受け取らない方が不自然だわ」
「ふふっ、そうね。しっかり見張っておいてやらないと。準備してくるわ」
「ありがとう、助かるわ」

直前まで存分に甘えていた反動か、堕姫は不敵に口端を上げながら素早く部屋を出た。軽くなった膝と温もりの名残を掌に感じ入る様に、は何処か虚に見える。妓夫太郎は眉間の皺を深め、細い肩を掴むことで僅か詰め寄った。

「おい、まさかとは思うが。この期に及んで、情けをかけようって訳じゃねぇだろうなぁ」
「勿論よ、手は抜かないわ。ただ・・・」

は一度月を見上げ、そして妓夫太郎へと目を向ける。普段通りの穏やかな黒い瞳がそこにあった。

「ただでは済まないでしょうに。迷わず毒を煽るほど、彼女を動かす情熱の根源は何かしらと考えたら・・・少し、素敵だと思って」
「はぁ・・・?」

は鬼だ。しかし、考え方がどこかずれている。少なくとも、これから始末する獲物の背景など妓夫太郎にとってはどうでも良いの一言に尽きるものを、は情感の乗った声で素敵と呼ぶのだ。

「相変わらず、お前の頭の中はわからねぇなぁ」
「理解出来ない女は嫌い?」
「・・・」

本気でそう考えてはいないだろう。しかし、本人からそう言われてしまうとどうにも弱い。妓夫太郎は瞬間片眉を顰めた末に、舌打ちと共にの頬を手の甲で擦った。

「わかり切ったことは言ってやらねぇからなぁ」
「ふふ。残念だわ」

口調や表情の険しさとは裏腹に、その戯れる様な手付きは酷く優しい。は確かな安らぎを目を閉じて堪能し、そっと立ち上がった。

「さて。ときと屋へ行ってくるわ。荻本屋へは・・・」
「あいつが帯を向かわせたみてぇだなぁ」
「流石ね。後で沢山褒めてあげて」
「お前もなぁ」

この場にいない堕姫を讃える二人の目は堪らなく優しく、穏やかな空気が夜風に溶ける。部屋の隅に転がった屍を妓夫太郎が担ぐと同時には扉に手を掛け、ふとした思い付きに一瞬思いを巡らせた。
暫く花魁付きの仕事が多かった為、新入りとは話せる機会が少ない。故に今回の間者とは接点が無いに等しかったのだ。

「次からは、新入りさんの教育係・・・お願いしてみようかしら」

ぼんやりとした一言を残し、はときと屋へ向かう。拾ってしまった爆弾発言は妹の不興をかうことが約束された様なもので、妓夫太郎は悩みの種をひとつ増やしたのだった。

妓夫太郎が溜息混じりに部屋を去ると共に、白い紙が自然と燃え散る。
荻本屋のまきを、ときと屋の須磨、京極屋の雛鶴。紙にはそう記されていた。