夢のつづき



考え過ぎであって欲しいと願ったすべてが、時限爆弾の様に悉く形を成した。何も確認せずともが記憶を取り戻したと察せた。それと同じく、彼女もまた妓夫太郎がすべて承知の上でこれまで隣にいたことを、ほんの数秒で看破してしまった。

核心的なことを上手く説明できない妓夫太郎の胸に顔を押し付け、は随分と長いこと泣き続けている。どうしたら良い。何から話せば、何をすれば彼女の痛みを取り除けるのか。妓夫太郎が懸命に考えを巡らす中、熱い吐息を短く切りが顔を上げようとする気配がした。

「ごめん、なさい」

目と目は合わない。涙に濡れる長い睫毛を不安で震わせたまま、は俯いていた。

「私には、妓夫太郎くんに甘える資格が・・・無いのに」

鼻を啜り、未だ枯れぬ涙に咽びながら。大切なひとが選んだ言葉は酷く悲しい響きがして、妓夫太郎は出来る限りの優しさを心掛けたまま溜息を吐く。

「何言ってんだ、お前は・・・」
「ごめん、今頭の中ぐちゃぐちゃで・・・」

これまでの常識が、突如覆ったのだから無理もないことだ。ならば前世からの縁を喜び一色で受け止めないであろうことは、最悪に近い想定として準備はしていた。

「でも、全部わかったの・・・私が、どんなに酷いことしてきたか、全部」
「尚更意味がわからねぇなぁ」

だからこそ、妓夫太郎は真っ向からそれを否定する。涙に縮こまるを、再び強く抱き締めた。

は何も悪さしてねぇし、俺がしたくてこうしてるんだよなぁ」

淋しいことを言わないで欲しい。悲しいことを考える必要は無い。祈るような思いで一言一言を紡ぐ。
いつまでも逃げてはいられない。目を見て話さなければ。どんなに難しくとも、が負い目を感じる必要は無いのだと、伝えなくてはならない。そうして妓夫太郎が硬く目を瞑った、その時だった。

「・・・ねえ、妓夫太郎くん」
「何だぁ?」
「私、何回がっかりさせた・・・?」

心臓が強張る。先手を取られたのだと、明確にわかる。

「何十回、何百回・・・っ妓夫太郎くんのこと傷つけた・・・?」

違う。違う。がその様に感じる必要は無い。心の内ではそう断じられても、の声のあまりの悲痛さに上手く言葉が出てこない。

「傷付いてなんか」
「っ嘘・・・!」

意を決したのはの方で、胸板を押されると同時に目があう。涙で潤み自らを責める黒い瞳は、至近距離で受け止めるには厳し過ぎる痛みを伴った。

「客席に梅ちゃんを見つけて・・・私、前にも同じ目を見たことがあるって、思って」

言葉に閊えながらもの声が経緯を語る。ああ、やはり梅の姿が引き金となっていた。遡る発表会の日に通路で棒立ちになった己と妹が、彼女の中で被ってしまった。
綺麗な青だと。が褒め称えてくれた妹との共通点が、この局面で裏目に出てしまうとは。妓夫太郎は今更どうにもならない事象に眉を寄せる。

「あの子のお世話しながらも、頭がぼんやりしてたけど・・・花火の音で、全部晴れた。前のことも、発表会のことも、今になってやっと思い出せたの」

きっかけも、決定打も示された。しかし、今この瞬間はそれすらどうでも良いと。妓夫太郎はひたすら、が自責の念に圧し潰されないで済む方法を探る。

「あの時、私が、何も気が付かなかったから」
よせ」
「妓夫太郎くん、あんなに一生懸命に私を見てくれたのに、何もわかってなかったから」
・・・」

十年前の己が恨めしい。記憶が一方通行なことくらい、わかっていた筈だろうに。

「私から目を逸らそうとしたとき、すごく悲しそうな顔をしてた・・・!」

何故、一番大切なひとの前で迂闊に情けない顔を晒したのか。

「ごめんね・・・どんなに謝っても足りないのはわかってるけど、本当にごめんね、妓夫太郎くん」

再び堰を切ったかの様に、の瞳から透明な涙が溢れ出す。謝罪の言葉などいらない。が気に病むことはひとつも無い。そう思っていることは間違いない筈が、何故こうも上手く立ち回れないのか。

「私、何も知らなくて、何も思い出せなくて、なのに・・・懐かしいとか、知ってる気がするとか、思わせぶりなこと、何度も言ったよね」

悔いることなどない。傍にいられるだけで、心の底から満ち足りた。

「妓夫太郎くんがどんな気持ちになったか、どんなに辛い思いしたのか、何もわかってなかったよね」

悲しむことなどない。ただ笑ってくれるだけで、生きる意味を感じられた。

「ごめんなさい、妓夫太郎くん。こんなに近くにいたのに、ずっと傷つけて・・・本当に」
「っ・・・!」

これまでの時間はこんなにも、幸福で優しく彩られているのに。他でもないの言葉で、それを否定しないで欲しい。

薄く細い糸がプツリと切れると共に、妓夫太郎はの唇ごとそれ以上の言葉を飲み込んだ。

「んっ・・・!」

唇が触れ合う間際の空気を慈しむ間も、そっと髪を撫でる余裕も無い。荒く強引な、そして懇願する様な口づけだった。

「んん・・・ふっ・・・」

酸素を求め、が息苦しさを主張している。それをわかっていながら後頭部を引き寄せ退路を断ち、こじ開ける様に舌を捻じ込んだ。常であれば必ず残す抱擁の隙も、分かり易い息継ぎのゆとりさえも作ってやれない。
耐え難かった。を中心に回る眩しい記憶を、本人に否定される。そんな痛みをこれ以上受け止め切れる自信が無かった。
深く荒く、貪る様な口づけの最中、肺いっぱいに彼女の香りを吸う。にこれ以上の謝罪を言わせぬ為とはいえ、こんなにも強引な奪い方に対する罪悪感で胸が痛んだ。
やがて抵抗が弱まり、華奢で強張った身体から力が薄れ、の吐息が鼻から抜けていくのを直に感じた頃合いに、漸く二人の間に空間が生まれた。
肌寒い筈の夜、祭りの気配は遠く、そして互いに感じる吐息が熱い。感情の昂ぶりに蕩けながらも涙の痕が色濃い瞳を間近に捉え、妓夫太郎は溜息とも苦笑とも取れる息を短く吐き出した。

「―――俺が今まで、不幸だったみてぇな言い方すんなよなぁ」

肩で息をし、『でも』や『だって』と小さく繰り返すか細い声に、首を振って否を突き付ける。
相手がであってもこれだけは譲れない。これまでの多幸感溢れる道のりを、悲観など欠片もしたくはなかった。

「何も覚えてなくたって、良かったんだよなぁ」
「妓夫太郎、くん・・・でも、でも、私」
「記憶があろうが無かろうが、は何も変わって無かった」

先手を取られ通しではいられない。手荒な真似をした覚えは十分にあったが、今度は細い両肩を包み込むよう大切に抱き寄せ、妓夫太郎は眦を下げる。

「周りが俺をどんなに遠巻きにしようが、気にもしねぇ距離の詰め方も。笑い方も、話し方も、ひとつ残らず俺が知ってるままのだったからなぁ」

何ひとつ覚えていなくとも、のままだった。
罵声に囲まれ俯いていた妓夫太郎を照らしてくれた幼馴染。命が幾度流転しようとも、彼女の在り方は何ひとつ変わっていなかった。
例え記憶が一方通行であろうとも、この巡り合わせを奇跡の様に尊く、心より愛おしく感じていた。妓夫太郎の今世は間違いなく、幸福としか呼べない。
かつて恨み憎しみ他者を嫉んだ傷だらけの世界は、を中心に据えることで優しく姿を変えた。

「俺はただ、もう一度お前の傍にいられりゃあそれで良かったんだがなぁ・・・まっさらな状態から、お前はまた俺を選んでくれて・・・奇跡的に、夫婦にもなれて・・・俺はもうどうしようもねぇ程、人生で一番良い思いをしてんだ」

熱く腫れた瞼を、指先でそっとなぞる。じわりと滲む新たな涙に眉を下げ、そして妓夫太郎は目線を足元へ落とした。

「・・・謝るのは俺の方なんだよなぁ」
「え?」

ドン、と一際大きな音と共にふたりの影が伸びた。楽し気な歓声と拍手が遠くに響き、寒空に咲いた花火の終わりを告げる。

ゆるりと視線を上げた先、待っていたのはやはり戸惑うような黒い瞳だった。
涙に濡れ、動揺に揺れ、突然のことに困惑しながらも無用な責任を負おうとしている。妓夫太郎が遠い昔に唯一を誓った、あの日のままのが今目の前にいた。

「お前を探し回ってる間、色々考えた。もしが奇跡的に昔のことを思い出して、それを気に病んで姿を消しちまったなら・・・いっそ、余計な記憶なんざいらねぇって、本気でそう思った」

を傷付けるものはいらない。の笑顔を曇らせるものは毒でしか無い。そう感じた気持ちに、嘘は無かった。

「けどなぁ。いざ記憶を取り戻したお前を前にして・・・みっともねぇ話だが、前言撤回したくなっちまった」

を第一に守る。天秤にかけられない妹とはまた別枠に位置する、決して失えない特別。目の前にいる存在が、己より遥かに優先順位が高いことはこの先も変わらない。
しかし、今この瞬間だけは手痛い矛盾に自嘲するしかない。ほんの至近距離に絡んだ視線をそのままに、青い瞳が大きな慈しみと葛藤に染まる。

がこんなに泣いて、傷付いてるってのに・・・俺は、今こうやって昔のままのお前と会えたことが・・・途方も無く、嬉しいらしい」

諦めていた。記憶の継承という異常な奇跡は、己以外に起こる筈が無いのだと、そう思っていた。
それでも構わない。何も無いところからもう一度と関係を築けた、それだけで十分過ぎる程に幸せであった筈なのに。

何もかも思い出した彼女との“再会”は、想像を遥かに超える衝撃を伴った。

記憶があろうが無かろうがに違いない。しかし、今目の前で潤む黒い瞳は信じ難い程懐かしく。
こうして向き合う時間は、あの日固く閉ざされた幸福の続きを思わせた。

「・・・妓夫太郎、くん」
「悪いなぁ、。お前を泣かせちまうくらいなら、記憶なんて戻らなきゃ良かったとは・・・今更思えねぇんだ」

悪い。小さく謝罪を繰り返せばが首を横に振る。その拍子に零れ落ちた小さな煌めきが、痛ましいのに美しい。
思えば昔からそうだったと妓夫太郎は眉を下げる。を悲しませたくないという思いとは裏腹に、この世で一等美しいものは、妹の美貌ではなくこの涙ではないかと。そんな思いが、ずっと心の奥底に根付いている。

が辛い思いをするなら、記憶ごと手放しても構わないとはもう思えない。この美しい涙ごと、一分一秒も余さずこの腕に抱き締めたい。酷く自分本位な言い分であると承知の上で、妓夫太郎は感情の雫を指先でそっと拭う。彼女の熱を帯びた頬に、力が入るのを感じた。

「違っ・・・妓夫太郎くんが、謝ることなんて、ひとつも」
「・・・お前なら、そう言うだろうなぁ」

昔から彼女がすべてを肯定してくれた。妓夫太郎が卑屈になる分だけ、余りある賛辞を真っ向から惜しみなく与えてくれた。
ならばこそ、今この瞬間はそれをに返したい。

「けどなぁ。俺も今、お前と同じ気持ちでいるんだよなぁ」

の瞳が狼狽えに揺れた。そんな表情の動き、細く吸った息の音、ひとつたりとも見聞き逃すまいと妓夫太郎は目を細める。
記憶を取り戻したとの時間が尊くて堪らない。しかしながら、やはり大切な相手の顔が曇る様は心が傷む。

は謝らなくて良い、悲しまなくて良い。んなこと、俺はひとつも望んじゃいねぇ」
「・・・妓夫太郎くん」
「お前の隣にいる様になってから、俺は幸せ過ぎて傷付く暇なんざ一切無かったからなぁ」

が悔いて嘆くこれまでの時間は、どこを切り取っても幸せだった。文字通り、幸福過ぎて忙しかったと言える。
一言一言をじっくりと言い聞かせた甲斐あり漸くが口を噤み始めたことに、妓夫太郎はこの機を逃すまいと言葉を選ぶ。

「なぁ。明日の食い物に困る訳でもねぇ、そこそこ安全な場所で・・・俺も梅も今度こそ普通の人間で、は両目で陽の光を感じ取れてる。大分時間はかかっちまったが・・・これは、あの頃手が届かなかった外の世界ってやつに、近ぇと思わねぇか」

黒い瞳が丸く輝く。その光景の愛おしさに、思わず頬が緩んでしまった。

手探りで積み上げた夢は、成就寸前で呆気なく砕け散った。
人でなくなった後、再び巡りあえたことに気付いた時には、全てが遅かった。

三度目の今を、もう一度全て思い出したと共に歩めると云うならば。
それはきっと、閉ざされた道の続きではないかと。今ならば、そう信じられる。

「あの時叶わなかったお前との夢を、これから先も隣で守れるなら・・・俺の人生、これ以上の意味は無ぇだろうなぁ」

平凡だが鬼も出なければ戦も無い世に、飢えや病に悩まされること無くふたりで前を向けている。
あの頃が夢見た明るい“外の世界”で、この先ずっと傍にいられる幸福を噛み締めて生きていけるなら。それは妓夫太郎にとってこの上無く、誇らしい勲章に他ならない。
大事なひとと、潰えた夢の続きを奏でていく。自分はこの為にもう一度生まれてきたのだと、今強くそう感じる。

「頼む、。笑ってくれねぇか」

ひとつひとつ、叶えたい願いを増やして此処にいる。身体の芯から柔く溶かすような陽だまりに包まれ、少しずつ傍にいることを望み続け今日がある。
そして今、一番に願うことは最愛の笑顔だ。涙が綺麗で、真剣な横顔が美しい。それでもに一番似合うのは、笑顔なのだ。

「お前が笑ってくれりゃあ、それで良い」
「・・・」
「全部思い出してくれたならなぁ。俺はあの頃の続きを、笑ってるお前の隣で見てぇんだ」

悲しまなくて良い。謝らなくて良い。ただ、笑って欲しい。これから先、同じ記憶を持って歩んでくれるのならば。今度こその笑顔を守り、生きていきたい。

祈りにも似た思いが通じたのか、彼女なりの責任感か。ぐいと涙を拭い息を吸い込み、精一杯に上げようとした口角は、やはり歪に固まってしまう。

「・・・まだ、頭も気持ちも、うまく、まとまらない、けど」

けれど、わかることがある。また涙が滲み始めたその瞳が、今は悲しみ一色ではないこと。

「もし、許してくれるなら・・・私、妓夫太郎くんと・・・今度こそ、長く・・・っ一緒にいたい・・・!」

笑顔には程遠くとも、確かに前を向いてくれていること。妓夫太郎は穏やかな苦笑を浮かべ、最大限に優しく力強く、最愛を抱きしめた。

「許すも何も・・・お前じゃなきゃ意味がねぇんだよなぁ」

長く、一緒にいたい。平和な現代ならば意識せずとも叶うことだろうが、理不尽に引き裂かれたふたりにとっては切実な願いそのものだ。

ああ、何て―――あたたかい。

「っ・・・今までずっと、傍にいてくれて、あり、がと・・・!!」
「当たり前だろうが」
「私のこと・・・っ見つけて、くれて・・・ピアノ、がん、ばってくれて・・・あり、がとっ・・・!!」
「・・・おお」

感情の波が再び揺れ、が涙に咽びながら熱い思いを口にする。ひとつずつを大切に受け止めながら、妓夫太郎は華奢な身を包んだまま目を閉じた。
死ぬ気で努力したことが、本当の意味で報われたと。この時ほど十年の道のりに安堵したことは無いだろう。

「妓夫太郎くんっ・・・妓夫太郎、くんっ・・・!」
「・・・此処にいる」

実を結べるかまるで不明瞭なまま、未知の楽器を始めて今に至る。結果、当初の願いより遥かに大きな花が咲いた。

「ずっと、一緒だ」

今度こそ違えることの無い約束を、妓夫太郎は漸くに届けることが叶ったのだった。


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