花ひらく夜



舞台の正装一枚で飛び出すには心許ない肌寒さ、人ひとり探し出すには不向きとしか言えない会場外の人だかり。それらに悪態をつくことはあれど、怯む理由にはなり得ない。
構わず人波に目を凝らす最中着信音が鳴り、妓夫太郎は食い付く様に端末を耳に押し当てた。

「っ見つかったか?!」
『・・・まだ。ってことは、お兄ちゃんも見つけられてないのね』

が姿を消した。待っていると思われた舞台袖におらず、控室に着替え一式を残し本人だけが突如としていなくなった。
彼女が小さなバッグで舞台袖へ持ち込むのは水とハンカチ、小銭までだ。日頃から携帯機器は控室に置いて行く習慣が裏目となり、今この状況でと連絡を取る手段が無い。梅と幸太郎もサプライズの種明かしどころではなくなり、三人で手分けをして彼女を探すこととなり今に至る。

「・・・悪いなぁ。そっちはそっちでもう少し探してくれるか」
『ねえ、アタシのせい?』

梅の声が暗く沈む。

『アタシが先生に内緒にしてって頼んだの。お兄ちゃんと子ダヌキを驚かせたいからって・・・でも、あんなに動揺するなんて思ってなかったし、まさかいなくなっちゃうなんて・・・』

今はひとまず梅が幸太郎を《先生》と呼ぶことも聞き流し、妓夫太郎は硬く目を閉じた。
確かに花束を受け取った後のは様子がおかしかった。いなくなるにあたり何らかの引き金となった可能性は否定しきれない。しかし、それを妹本人に告げることが得策とは、兄として到底思えない。

「聞きてぇことは山程あるが・・・安心しろ。のことは、お前のせいじゃねぇからなぁ。とにかく、何かあったら連絡頼む」

電話を切り、妓夫太郎は兄から夫へと頭を切り替える。
考えろ。は何故消えたのか。考えろ。に何が起きたのか。考えろ、考えろ、考えろ―――。

「お父さん、おまつりすごいねー!」

不意に、すれ違いざまの親子の会話が耳に飛び込んだ。ホールの完成式典というより祭りに近いのだと幸太郎が称した通り、表通りには露店が立ち並び、夜風の冷たさに負けない賑やかな様子は下町の祭そのものと言えた。

こんな時に、とも思う。しかしこんな時だからこそ、遠い日の祭の光景が心を波立たせる。

ただただ、自らを忌避しない幼馴染の優しさに甘えていたあの頃。の働きによって一夜の外出を許され、初めて踏み入った江戸の祭。何処を歩いても誰に眉を顰められることも無く、目新しい食べ物に目を輝かせる梅を連れ、隣には楽しそうに笑うがいて。幸せとはどんなものか、その輪郭を初めて意識した夜。
そして外界を夢見るの進む先に、自分たち兄妹も共に来て欲しいのだと。途方も無く現実離れした、しかし心から渇望する将来を提示された夜だった。

余計なことを考えている暇があるなら目を凝らせと自身に厳命する最中、妓夫太郎の脳裏にステージ上で最後に顔を合わせたの表情が甦った。梅から渡された花束を抱え、大きな戸惑いに揺れる黒い瞳が、まるで―――

「・・・」

まるで、あの祭の夜。河原で花火に照らされた“彼女”の様ではなかったか。
外の町で生きたい。その時は自分たちも共にと。
初めてその願いを口にし、衝撃のあまりなかなか返事を返せなかった妓夫太郎に対し、我に返ったかの様に戸惑い、誤解から焦り、一歩引こうとした幼馴染。

「・・・っ」

妓夫太郎は居ても立っても居られず走り出した。

信じ難く低い可能性だと理解している。勘違いならそれで構わない。しかし、もしもがあの舞台上で何かを思い出したとするならば。
出会ってすぐの頃ならいざ知らず、今のには《妓夫太郎が妹の最後の発表会を境に突然ピアノを始めた》という情報がある。加えて、これまで度々彼女自身が首を傾げてきた奇妙な既視感に対し、妓夫太郎は曖昧な誤魔化し方で遣り過ごしてきた。

聡い彼女がもしも記憶を取り戻したならば、どんなに遠くとも点と点を繋げてしまう。妓夫太郎がひた隠しにしてきた、現実離れした事情の何もかもを。
そして、ならどう思うか。十年前の発表会から音大での出会いを経て、何年もかけて新たに構築された関係性。これまで何も知らずにいた己と、全てを知っていた妓夫太郎。この状況を、どう感じるか。

考えれば考える程嫌になる。嫌になる程、彼女の人となりを知っている。決して、喜び一色でそれを受け止め切れる性格ではない。万一、混乱と自責の念から姿を消してしまったとするならば。

「・・・っくそ・・・!」

に記憶が無いことをもどかしく、時に淋しく感じた時期もあった。しかし今となっては真逆の葛藤を抱え妓夫太郎は息を切らし走る。

―――いらない。

に不要な負い目を感じさせるだけの記憶なら、無くて構わない。取り戻すことでを傷付け苦しめると云うならば、大切なものとは呼べない。積み重ねて来た時間は、歴史は、間違いなく尊い。しかし、の笑顔と引き換えならば話は別だ。


『これ以上欲をかいたら、代わりに何かを取り零しちまう様な気がして・・・怖ぇんだ』


そら見たことかと、かつての自分が暗い顔をする。余計なことを望んだ罰だと。これまでも、夢はいつもあと一歩の局面で踏み躙られてきたではないかと。しかし妓夫太郎は強く奥歯を噛み締め、どす黒い幻影を振り払う。

『怖くないよ』

後悔したくない。
本人に導かれ一歩先へ踏み出したことを、決して後悔したくない。今度こそ、どんなことをしても取り零せない。漸く成就した生きる意味を、今になって失えない。
考え過ぎであって欲しい。思いもよらない理由で会場を離れ、いそいそと戻って来てくれたなら何も言わない。
いつも通りのを抱き締めたい。辛さや悲しみとは縁遠く、陽だまりの様な笑顔に会いたい。あいたい。あいたい。
妓夫太郎の足が止まった。

『個人的には、中庭も落ち着いた雰囲気でおすすめですよ』

何故その瞬間が切り取られたのかはわからない。しかし、不意に昨日この地に降り立ってからの幸太郎の言葉と、興味深そうに頷く彼女の姿が思い起こされる。妓夫太郎は直感を信じ、会場方面へと踵を返した。



* * *



今宵集った者の多くが、今も演奏が続くホール内と外の祭会場のどちらかに二分されている様だった。建物裏手に位置する中庭は緑に溢れ、日中は程よく賑わったものだが、夜の訪れと共に簡素な照明のみの少々淋しい佇まいへ変化する。
一見すれば人の気配の乏しいその場所へ、勘の向くまま駆けてきた妓夫太郎の足が止まった。白い壁に凭れ掛かり、思わず深く溜息を吐いてしまう。

だ。中庭と屋内を隔てるガラス越しに、ドレス姿のままの背中を見つけた。しかし、彼女は今ひとりではない様だった。

「ごめんなさい。パートナーのひとの演奏、途中だったのに」
「後でちゃんと説明するから、心配しないで。連れ出したのは私なんだから」

の流れる様なオフホワイトのドレスと違い、ふわふわとボリューム感のあるピンクのドレス。ふたつの背中がガラス越しに並んでいる。の前に演奏していた子どもであると、妓夫太郎の頭の中で情報が繋がった。

「外の空気吸ったら少し顔色良くなったかな。気持ち悪いのは治まった?お水、まだ飲めそう?」
「ありがとう・・・もう大丈夫。わがまま言ってごめんなさい」
「ううん、大丈夫。大げさにしたくなかったんだよね、きっと」

そういうことか。深い安堵が込み上げ、再度密かな溜息を吐きながら妓夫太郎は目を細めた。
舞台袖へ戻るなり具合を悪くした子どもを見つければ、彼女は放ってはおかないだろう。話の流れからして、医務室や親を呼ぶことを拒んだのは少女本人の様だ。相手がもっと幼ければ話は違っただろうが、そこそこに話も通じる子どもであれば本人の意思を尊重した措置を取ったことも頷ける。実にらしく、納得のいく失踪劇ではないか。

「緊張すると具合悪くなっちゃうこと、あるよね。演奏の前もそうだけど、終わった後色んな疲れに圧し潰されちゃうの、私も経験あるからわかるよ」

口調も物腰も柔らかい、普段通りのだ。
大丈夫、恐れていた事態とはほど遠い。ほぼ有り得ない可能性に怯えていた己を笑ってやりたいような、ひとまずは何事も無く妻を見つけられたことを労ってやりたいような、不思議な心地がした。

ただ、どっと疲労が押し寄せ今すぐには梅と幸太郎に連絡出来る気力は無く。かと言って女性ふたりの中庭は静けさも相まり中へ踏み込める雰囲気にも思えず。
聞き耳を立てることに少々罪の意識はあれど、それくらいは心配をした対価として自身を納得させ、妓夫太郎はその場に潜み体力回復に努めることを決めた。

「・・・どうしたら、あんなにキラキラした音が出せるの?」
「え?」
「あっ・・・急にごめんなさい」

話の風向きが変わる。これには妓夫太郎も目を瞬く中、に促されるように少女が口を開いた。

「私、ピアノひけるけど・・・あんまり、楽しくなくて。お母さんは褒めてくれるけど、楽しくないって言えなくて・・・辞めたいわけじゃないけど、ずっとモヤモヤしてて・・・」

子どもなりに、悩んでいるということだろう。昨日の少年の件といい、夫婦揃って知らぬ土地で奇妙な縁があったものだ。

「さっきの・・・特にラプソディ・イン・ブルーみたいに、ワクワクする演奏できたこと、一度も無いから。どうしたら、変われるかなって・・・」
「十分素敵な即興曲だったと思うけど・・・そっかぁ。楽しくない、か」

少年より気持ち大人びたような少女を前にがどう応えるのか。思いがけず今度は見守る立場となったことに妓夫太郎は僅か口端を緩める。

「私ね、ピアノを習い始めたきっかけは、ストリートピアノなの」
「え?」

妓夫太郎が明かせないのならば、も敢えて秘めると言ってくれた、音楽のはじまり。思わぬ局面で紐解かれる今の彼女の原点に、自然と強く意識を引かれた。

「家族で出かけたショッピングモールの、誰が弾いてもオーケーな小さなピアノで・・・おじいさんとおばあさんが、連弾してた」
「おじいさんとおばあさん?難しい曲をひいてたの?」
「きらきら星」

それは、幾度となくふたりで練習を繰り返した曲のひとつ。

「・・・普通ね」
「ふふ。そう、今思えば普通の曲」

普通の曲、その表現に誤りは無い。
しかし遡る七夕の学祭にて、がひとりの舞台上では選ばなかった曲だ。
謝花くん。まだそう呼ばれていた頃、大好きな曲だが自分との連弾が完成系なのだと言ってくれた曲。まさかそのように思い出深き曲だったとは、考えたこともなかった。

「でも、聞いてて胸がワクワクした。優しく寄り添って、お互いの音を楽しむように弾いてて・・・心の底から、素敵だなと思ったの。それからすぐにピアノを始めたけど・・・」

ふと、小さく開いた間が気にかかる。内緒ね。聞き耳で拾うには際どい音量で囁かれたその声は、どこか切ない響きがして。

「実は・・・私も何年か前まで、ピアノが楽しくなかった」

何故か耳鳴りがした。
の声で、の言葉で。音楽が楽しくなかった、と。考えたことも無かった本音が、紡がれる。
あれ程音楽に対し真摯で、練習も解釈も、引き止めなければどこまでも深掘りするほど熱心で。それがだと、当然昔からそうだったのだろうと信じて疑わなかった。

「え・・・?」
「あなたと一緒。弾ける曲が増える度に前に進める気はしてたけど、あの日のワクワクとは全然違った。中学の頃から連弾も始めたけど、誰と組んでも全然息が合わなくて、余計に楽しくなくなった」

何より、あんなにも楽し気に音を奏でる姿をずっと隣で見てきた。だからこそ、こうして彼女自身が恥じ入る様に囁く本音が衝撃でならず、妓夫太郎は無意識に息を止める。

「音を楽しむって書いて音楽なんだから。楽しまなきゃダメだって、必死に楽しんでるふりしてた。変だよね、楽しめるように頑張ったり演技したり。でも、私は私のピアノに何が足りないのか、何がつまらないのかよくわからないまま大人になって・・・あの日に憧れた演奏には、きっと手が届かないって、ひとりでがっかりしてた」

彼女が連弾の力に憧れ、実際には焦がれた景色とほど遠い現実に打ちのめされていただなんて。これだけ傍にいながら、まるで気付かなかった。そうして妓夫太郎が瞠目する、その刹那。

「・・・妓夫太郎くんに、出会うまでは」

時が瞬間止まり、そして心音が低く呻る。吸い込んだ息で身体中に血が巡っていく、目の前の色彩が鮮やかさを増した様な感覚に、身動きが取れない。

「さっき一緒にひいてたひと?」
「そう。私の連弾パートナーで、去年の春から私の旦那さん」
「えっ?!」

少女の声が衝撃と興奮に跳ね、それを受け止めるの笑い方は普段通り穏やかなものだった。

「妓夫太郎くんとの出会いは、音楽の神様に感謝してもしきれない、私の人生で一番の贈り物。今までの悩みも、ピアノへの向き合い方も、全部が明るく変わったの。何も頑張らなくたって、ピアノってこんなに楽しかったんだって心から思えるようになったのも、全部妓夫太郎くんのお陰」

柔らかな口調、好きで堪らない声。何もかもが最大限に都合の良い言葉を象り、妓夫太郎の鼓膜を揺さぶる。
まさか考えもしなかった。あんなにも音楽に愛を向けるが、それまでの人生で音と向き合うことに悩んでいただなんて。幾度も力を貰ったその音色が、長年曇り続けていただなんて。

「妓夫太郎くんと出会えなかったら、きっと今の私はいないと思う」

ただただ、素人が高みに並び立ちたい一心で。死に物狂いになった年月が、こうも想定を超えた形で報われる。否、それ以上の褒美を授けられた様な気さえする。

もしも出会えなければ。
それは、悉くこちらの台詞だと思っていたと云うのに。はいつだって、想像を遥かに超える強さで飛び込んで来る。だから、敵わないのだ。胸の奥の熱さに、妓夫太郎は苦笑を零す。

「昨日まで楽しくなくても、今日から楽しくなるかもしれない。何がきっかけで受け止め方が変わるかは、きっと人それぞれだから私にはわからない。でも・・・大丈夫、音楽は楽しいよって・・・昔の私にも、今のあなたにも、伝わったら良いなと思うよ」

の言葉は妓夫太郎と同じ様に、悩みを抱える少女にも真っすぐ届いた様だった。実体験を経た変化の証明が、今の自身なのだ。少女にとってこれ以上の相談相手はいなかっただろう。

「ありがとう。私、もう少し気持ちが変わるのを待ってみる」
「うん」

一拍の間を挟み、少女の眦が下がる。年相応の笑顔がに向けられた。

「いいなぁ。私も私だけの王子様を見つけたいなぁ」
「え?」
「だって、音楽を楽しくしてくれて、結婚もして、ずっと一緒で・・・そんなの、ぜったい運命ってやつじゃない!」

一段階跳ね上がった音量は少女の興奮度合を体現している。光栄なことには違いないが勘弁してくれと、妓夫太郎は眉間に皺を寄せた。今更ながらにどのタイミングで出ていくかを悩む時が来たようだ。

「音もそうだけど、そのひとの話をしてる時の目がキラキラしてた。ね、だんなさんのこと好き?」
「ふふ。勿論好きだよ」
「どれくらい?」
「えー?そうだなぁ」

その時、妓夫太郎は油断をしていた。
まさか、じゃれ合う様な戯れの最中、遠くから細く高い音が響いてくるなどとは、考えもせず。



夜空に、大輪の花が咲く。



「―――世界で、一番」




『世界で一番大好きだ、ばぁか』




遠い昔に請われ、一度だけ応えた台詞。
夜空が彩られると同時に、それをが口にしかけるなど。



「・・・っ」

考えも、しなかったのだ。



火薬が上空で爆ぜる独特の音、暗闇を照らす眩しい花々。少女はパッと顔を輝かせた末、思い出したかの様に焦った表情でを見上げた。

「あっ・・・花火始まっちゃった。お母さんが心配するから、私戻るね。お水、ありがとう」

ドレスの裾を引き、ちょこんと礼をして少女は去っていく。親元へ急ぐ子どもはすぐ傍に潜んでいた妓夫太郎にすら気付かない。当然、の異変にも気付く筈が無い。

二人きりになった今、出ていけばいいものを身体が言うことを聞かない。ただ、花火が打ち上がる度屋内へ伸びて来るの影。その形が、困惑しているように見えて仕方が無い。

「世界で・・・一番・・・大好き」

ポツリと繰り返される、その言葉。パラパラと舞い散る火花の音に紛れ、浅く乱れていく息遣いが徐々に存在感を増していく。
今出て行けばどうなるか。混乱の只中にある彼女に、必要以上の負担を強いることになるのではないか。妓夫太郎は下唇をきつく噛み、震えるほど強く両手を握りしめる。

「・・・妓夫太郎くん」

本来此処にいない筈の名を呼ぶ声が、堪え切れない感情に震え始める。
全てを放棄するには、十分過ぎる動機だった。を一人で泣かせておける筈が無い。

ガラス戸を押し開け腕を伸ばし、両手で顔を覆う妻を強く抱き寄せる。此処で息を潜めていたことに気付いていたのか、それともあらゆる許容量を超えてしまったのか。は突然の抱擁に驚く素振りを見せず、ただただ大き過ぎる感情の波に揺られ涙に暮れていた。

「・・・っ・・・妓夫太郎、くん」


嗚咽に震える細い肩が痛ましい。繰り返し涙に弾む浅い息が鼓膜を抉る。
理屈ではなかった。
ただ、はっきりとわかる。

身を捩り、腕の中に収まりながらもこちらを見上げる妻が、昔のままの“彼女”であると。


「・・・全部、わかってたんだね」


扉は、遂に開いてしまったのだと。

黒い瞳から大粒の涙が零れ落ちるほんの数秒が、永遠の様に長く辛く、深く胸に突き刺さった。



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