革命の舞台



舞台袖で掌の開閉を繰り返す。血の巡り、指の曲げ伸ばし。最終確認はとうに済ませた後の微調整であるが、舞台に立つようになってからのルーティンを終えたタイミングで、横からが身を寄せてきた。正確には、客席の様子を覗く為に妓夫太郎の方へ身体を傾けた、といった方が良いだろう。オフホワイトのドレス生地がさらりと触れた。妓夫太郎は片足でバランスを取る華奢な妻を両腕で支え、更に目的が見易い様引き寄せる。がありがと、と囁いた。

「お客さん結構入ってるねぇ」

全席自由席の為出入りはそこそこ発生している様ではあるが、空けば埋まりを繰り返す。辺鄙な地だが、市が力を入れた催しであることには間違いない様だ。
しかし、老若男女は前提としてクラシックに普段縁が無い者も多そうな客席はどうにも普段と違って見えた。走り出した我が子を追う親が中段の通路を駆け抜ける光景を目にし、妓夫太郎が微かな苦笑を漏らす。

「客層は大分自由な感じだけどなぁ」
「たまには良いよね。肩の力良い感じに抜けそう」
「お前はいつも楽に弾いてんだろうが」

客席の様子がどうであれ、がこれまで肩に力を入れ過ぎた試しなど無いではないか。そうして軽い気持ちで返した評価に対し、奇妙な間が空いた。

「・・・妓夫太郎くんが隣にいてくれる時はね」

一拍の静寂がふたりを包む。反射の様に妓夫太郎が見下ろす先、正面を見据えたままの妻の横顔は少々の自嘲と気恥ずかしさで染まっていた。

「情けないこと言ってごめん。何だろうね、ひとりで舞台立つの久しぶりだから心細くなってるのかなぁ」

今宵、と妓夫太郎に割り当てられた時間は三曲分。内訳としてまずはが一曲、次いで連弾が一曲、最後に妓夫太郎が一曲の構成だった。

音大で特別な間柄になるより前こそ、時折ひとりが舞台に上がることもあったものであるが、ふたりの関係性が変わって以降はほぼ二人並んでいたようにも思う。楽団では当然ソロピアノの機会もあるが基本的にはオーケストラの一部であるし、そもそも仕事の為心持ちが違うのだろう。
今日この局面においてひとりが心細いのだと、思わぬ発言に妓夫太郎が戸惑っているのを察しが苦笑しながら一歩離れる。

「小学生の子だってひとりで頑張ってるんだから。私も頑張らなきゃ、だよね」

ステージ上には今、ふわりとしたピンクのドレスを纏った子どもがショパンの即興曲第一番を奏でている。危なげなく指を走らせる背中はしっかりとしたもので、次に出番を控えたは幼い姿から勇気を貰い自らを鼓舞している様であるが、妻が無理に笑っていることを見抜けぬ妓夫太郎ではない。

「・・・

遠去かりかけた手を掴む。不安に揺れる黒い瞳を捕まえる。成すべきことなど分かり切っている。妓夫太郎の表情が優しく弛んだ。

「お前は凄ぇよ。心配いらねぇ」
「・・・妓夫太郎くん」
「はじめから隣にはいられねぇが、ここで見てるしなぁ」

心細い思いなど決してさせはしない。の為だけに今此処にいる。

「一曲だけだ。すぐ、傍に行くからなぁ」

繋いだ手が、緩く握り返される。

「そうだよね。ありがとう」

安堵した様に微笑むを前に、妓夫太郎もまた身体の芯から力が抜ける。そうだ、がこうして笑ってくれることが何よりの大事だ。暗い舞台袖の片隅で互いの額を軽く合わせ、ふたりは小さく笑い合った。



* * *



が奏でるショパンの舟歌は、贔屓目無しに美しかった。ひとりで立つことを不安がった直前の弱音が嘘の様に、穏やかで光る旋律が水の様に流れホール中に広がっていく。
約束通り、妓夫太郎は一瞬たりともから目を離さなかった。本人がどう言おうと、照明の下で鍵盤を鳴らす彼女の姿は誰より眩しい。遠い日の発表会で見つけたあのノクターンから、変わることなくずっと。不安に思う要素など何も無い。が必要以上に褒め称え全肯定してくれると同じだけ、必ず支えて見せる。腕を組んで見守る中最後の一音が消えると同時に拍手が鳴り響いた。

妓夫太郎が舞台に踏み込んだ瞬間、客席から何人かの子ども達の歓声と、恐らくはそれを嗜める親の声が響いてしまい、ホールは瞬間和やかな笑いに包まれる。昨日の子ども達で間違いないだろう。妓夫太郎は眉間に皺を寄せたが、が楽しそうに肩を揺らして笑っている為全て流すことを決める。物理的にも肩の力はすとんと抜け落ちたという訳だ。一礼を済ませたが空けてくれた左側、定位置に妓夫太郎が腰を降ろすと同時に客席は静まった。

ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーは普段通りの選んだ曲目だった。クラシックに馴染みが無くとも聞き易く、明るく技巧も凝らせるので聞く側も弾く側も楽しいから、と。弾く側に楽しさは果たして必要か、とは敢えて口を出さなかった。問うまでもなく、が連弾に心躍らせてくれていることが、気恥ずかしくも嬉しかった為だ。
の音が感情豊かに跳ねる。興奮に耐え切れず漏れた子どもの声すら味方に、ますます高らかに鍵盤が歌う。楽しい。がそう感じているのを肌で、耳で、疑い様も無く感じる。それは連弾パートナーとしてこの上無い誉であることを、妓夫太郎は良く知っていた。



『君は確かに素人中の素人だけど。今から死に物狂いで練習を続けたら、ひょっとしたら今日の・・・ふふっ、絶妙に息の合っていなかった連弾相手に、いつか成り代われる日が来るかもしれない』



何故だろう。脳裏に過ぎったのは、ピアノを始めると決めた日にかけられた言葉だった。
当時の妓夫太郎にはわからなかったが、保護者の男が感じたアンバランスさを払拭出来るようなパートナーで在れているだろうか。妓夫太郎にとってが唯一である様に、にとっても唯一に相応しい存在となれているだろうか。幼い梅を守る以外には何も誇れなかった、見窄らしい自分が。

ーーー否、今はもう違う。

四手が交差する刹那、短くも触れた手の温かさに妓夫太郎は己を取り戻す。が選んでくれた自分をこれから先も誇りたい。願い叶った今を、末永く紡ぎ続けたい。その為に生きて行きたい。
熱くなり過ぎるなと己に厳命しつつも、のピッチに合わせ自然と盛り上がっていく華やかな旋律を最後の最後まで調整し、最早最後は気の早い拍手が鳴り始めている中演奏は終わった。

「・・・最後まで聞けよなぁ」
「良いんじゃない?私は嬉しいよ」

喝采の拍手に紛れ小声で交わした会話からは、やはりの喜びが色濃く感じられ、妓夫太郎は仕方がないと苦笑を浮かべる運びとなった。
先に立ち上がり、椅子から降りるへと手を差し伸べる。妻を斜め前に立たせ、ふたりして拍手の絶えない客席へ一礼をした。はここまで、残すは妓夫太郎が一曲弾いて責務は果たされる。

その刹那。

「・・・え」

の口から零れ落ちた疑問符に、妓夫太郎は意識を引かれる。未だ鳴り止む気配の無い拍手の波の中、客席通路に立つ影を見つけた。

黒いワンピースに、抱える程大きな花束。
白い髪、大きな青い瞳。

「梅?」

今日ここにいる筈の無い、見間違える筈も無い妹。

夫婦揃って言葉も無い姿に、してやったりと言った得意げな笑みを浮かべて、梅が通路からこちらを眺めていた。
完全に望み通りの手応えを得たのか、上機嫌に階段を降りステージに近付いて来る。駆け寄ってくる目的は花束に違い無く、よたよたと前進し屈んだの腕にそれは預けられた。

「・・・サプライズ!」

悪戯にそう囁き、梅が身を翻し軽やかな足取りで戻った先。隣の席には何とも罰の悪い顔で苦笑を浮かべる幸太郎がおり、今度こそ妓夫太郎は衝撃で顔を顰めることとなった。
一体、いつの間に。
否、確かに梅は自分の知らぬ間にと知り合い突然家まで連れて来た手腕の持ち主だが、しかしこの状況はすぐには理解が及ばない。

しかし次の瞬間には、妓夫太郎は別の違和感に頭を塗り替えられた。
梅から花束を受け取ったが動かないのだ。立ち位置が邪魔をして表情が読めない。梅と幸太郎の件は確かに妓夫太郎も驚いたものだが、それにしてもどこか空気がおかしい。

「・・・?」

これ以上は進行が滞る。探り探りかけた声に、華奢な肩が跳ねる。

「・・・」

振り返った黒い瞳に浮かぶ、大きな戸惑い。それはサプライズへの単なる驚きだけではないと、本能的にわかる。激しい違和感は、しかし我に返ったがステージ上から足早に立ち去ることで取り残されてしまった。ここが舞台上でさえ無ければすぐさま追求できたものを、妓夫太郎とてこの状況で責務は放り出せない。

一曲だ。ショパンの革命のエチュード。短い一曲だけ演奏し切れば、舞台袖で待つと話せる。何が起きたのか、この表現し難い違和感は何か、全て紐解ける。たった三分半、それだけのこと。妓夫太郎は自身にそう言い聞かせ、一呼吸の末ピアノの前へと戻った。


が何も告げず舞台袖から姿を消すなど、考えもしないことだった。



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