すべてを懸けた夢



の選曲に間違いは無かった。

比較的静かに始まったカノンは悪目立ちすることなく空気に溶け込み、密やかに少しずつ人目を引いていく。ストリートピアノ最大の欠点である調律の甘さも、日頃音楽に慣れ親しんでいない聴衆であれば然程気にならないらしい。妓夫太郎はひとまず安堵した。楽譜も無く次曲はの気分次第という、普通に考えれば気を楽に出来ないものであったが、妓夫太郎はある程度次の選曲に目途が立っていた。
具体的な理由を挙げろと問われれば難しい。しかし、清麗とした調べを奏でつつもどこかもどかしそうな妻の空気から、ジョプリンのエンターテイナーあたりだろうかと考えていたところ、気持ちの良い笑顔での口元がその曲名をなぞったものだから、思わず小さく噴き出しそうになるのを堪えるのに苦労した。
結果、誰もが一度は耳にするであろう明るいメロディが二曲目にして聴衆の数をぐんと増やした。三曲目もいくつかの予想候補を裏切ることなくモーツァルトのトルコ行進曲となり、若干ピッチを上げた技巧と本人のテンションの高さで拍手喝采を得るその瞬間まで、妓夫太郎は見事に相方の責務を務め上げた。

休日の昼下がりに通りすがった、年齢層から性別までバラバラの、しかし不思議と統制のとれた熱い拍手を耳に感じながら思う。若干の疲労感が心地よく思える様になったのは、いつの頃からか。挑戦する度玉砕を齎すばかりの無機質の楽器に対し、触れ始めた頃は悔恨の念しか抱けなかったと云うのに。

「・・・っふふ、すごい拍手。合わせてくれてありがとう!すごく楽しかった!」

―――こうして、眩しい笑顔と達成感を分かち合う様になってからのことだ。

今更の様に己の変化、その起点を痛感しながら、妓夫太郎は何でもない顔をして肩を竦めて見せた。

「すっげー!かっけー!」
「ふたりピアノってはじめて聞いたー!」

両手を力いっぱい打ち鳴らすだけでは足りないと言わんばかりに、子ども達がわらわらと駆け寄ってくる。興奮に輝く視線を受け止めるはとても嬉しそうだった。

「ありがとう、明日のコンサートでも弾くよ。私たちだけじゃなくて、素敵な演奏がたっくさん聞けるよ」
「本当?お父さんとお母さんといっしょに行こうかなぁ」
「来て来て!家族も友達も誘って皆で来て!」

明日に向けた密かな広報活動。本命としての役割を果たし、妻が満面の笑みを浮かべているなら成果は上々だ。
そうして妓夫太郎が依頼主の片割れを目で探しはじめた直後。

「あ。幸太郎先生がおばあちゃん達に取り囲まれてる」

子ども達の解説通りの光景があった。突然の演奏を咎められている雰囲気では無さそうだが、明日の催しについて矢継ぎ早の質問攻めにあっているといったところだろう。

「あのばあちゃん達おせおせゴーゴーだからなぁ」
「先生負けそう」

完全に圧し負けている幸太郎は吹けば消える蝋燭の如く頼りない。負けそう、という子ども達の表現は実にしっくりくるものだった。

「え・・・ご、ごめんね妓夫太郎くん、ちょっと様子見て来るね!」
「面倒そうなら呼べよなぁ」
「ありがと!」

無論、何かあれば即駆け付けるが、見知らぬ土地で人の輪に容易く踏み込める外見ではないと自覚がある。妓夫太郎はそうして己ととの間に線を引き、その場で待機することを選んだ。

そんな時だった。が空けた席の真横に、小さな気配が滑り込む。

「あのさ」
「あぁ?」

幸太郎の教え子のひとりだった。特に配慮の無い返答を受け、瞬間怯むものの逃げ出しはしない。幾度か口を開閉させた後、少年は思い切った様に顔を上げ妓夫太郎の目を見た。

「男が、とつぜんピアノを始めたら、笑われるかな」

瞬きひとつ分、空気が凪いだ。

「と、隣の家に、よく遊んでくれる姉ちゃんがいて・・・今、ピアノがんばってるから」
「・・・」
「姉ちゃんは、優しくて何でもできて、おれの目標、だから。おれも、ピアノやってみようかな・・・とか。でも、ちょっと迷ってて・・・」

聞いてもいない背景と悩みを一心に打ち明けて来る少年に対し、適当にあしらうことも徹底して無視をすることも出来る筈が、妓夫太郎の中からその選択肢は零れ落ちる砂の様に掻き消える。

触れたこともない鍵盤に対し、誰かに追いつきたいが為に挑戦しようというその心持ちは、身に覚えのあり過ぎるものだった。

「・・・周りから笑われるのが怖ぇのか」
「それだけじゃ、ないけど」
「今から始めたところで、その目標とやらに追いつけんのか自信がねぇ。そんなところか」
「・・・なんでわかるの」

少年の目は言い当てられたことに戸惑い、しかし妓夫太郎という云わば《目指す完成系》を前に、安心材料を求めているであろうことは明らかだった。
日本も音楽の世界に男性人口が広まってきているものの、学生の時分における男女比は未だ大きな偏りがあることを妓夫太郎は身をもって知っている。憧れと不安を前に立ち竦む幼い双眸に対し、出来得る限りの真実を開示しようと決めた。

「俺の時は・・・笑ってくる奴は、確かにいたかもなぁ」
「やっぱり・・・」
「度を越えてうるせぇ奴は力尽くで黙らせたけどなぁ」
「え」
「俺はこんなナリだからなぁ。どんな嘲りも蔑みも慣れてた」

事実は覆らない。妓夫太郎から率先して部外者に話をせずともピアノを始めた件は広まり、通っている中学では大層な話題となった。
あの恐ろしい風貌で、よりによって、ピアノを。男がピアノを習うことへの揶揄い以前の問題だったが、妓夫太郎自身、自らと古典楽器が不釣り合いなことくらいは自覚していたので無理もない反応と理解もしていた。大抵の面々は恐れて目も合わせない中、意地の悪い連中が聞こえる様な陰口と嘲笑を送ってきたことも事実。面と向かって無駄な煽りで帰路に邪魔をしてきた一部の者を叩きのめしたことも事実。

「それに・・・バカにされようが笑われようが、心底どうでも良かったんだよなぁ」

そう、何を言われようがどう思われようが、まるで関係が無かった。相手を返り討ちにした理由は単に練習時間を削られたくなかった、ただそれだけだ。
妓夫太郎がに近付く為の最短進路はピアノ以外に無い。それがはっきりしているならば、どんな雑音も足を止める理由には成り得ない。迷う時間も悩む時間も無かった。もう一度の傍で生きたい。その為ならば何だって出来た。

しかし、面と向かって認めることは癪ではあるものの、妓夫太郎は今回の人生で環境的にはかなり恵まれた。

「お前の気持ちはともかく、現実問題として音楽は金がかかる」
「・・・」
「そこんところ、まずは親と話さねぇといけねぇけどなぁ」

この少年の家庭環境を妓夫太郎は知らない。願ったその日から質の良い練習部屋を梅から引継ぎ、ピアノ漬けの日々を送れたことは保護者たる童磨の財力あってのことだ。現実問題として、誰もが音楽を学べるとは言えない。無責任なことは言えない。
しかし、真剣に佇む少年の姿が、否応なく昔の自分と被る。妓夫太郎はひとつ息を吐いた末、真っすぐに少年を見据えた。

「出来る環境があんなら、男だろうが女だろうが、やりてぇことをやりゃあ良い。周りの連中にどう思われようが一切関係ねぇ。どんだけ目標から遠かろうが、追い付けるかどうかはお前の根性次第だからなぁ」

一方的に重ね過ぎている。聞かれたこと以上を口走っている自覚もあった。それでも目の前の少年は一言一言を咀嚼するように飲み込み、素直な目を妓夫太郎に向けてくる。

「お兄ちゃんも、目標があったの?」

子どもなりにも探り探り、通じる部分もあるのだろう。真相は、生憎と誰とも共有の叶わない規格外の話ゆえに明かせはしないけれど。

「・・・俺の人生全部懸けても足りるかわからねぇ、でけぇ目標だ」
「全部かけて、追いつけた?」

正しい指の置き方ひとつ知らなかった昔の自分を知っている。あの日のステージ上に見つけたとの距離は、夜空の星を掴むかの様に遠過ぎてどうにもならないかに思われた。

しかし、今は彼女の隣に居場所がある。

「・・・何とかなぁ」
「っ・・・そっか!」

少年の瞳が前向きに輝く様は眩しかった。この年齢からスタートを切れたならば、決して遅いことは無いだろう。昔の己と勝手に重ねてしまった相手に対し、妓夫太郎の表情が微かに和らいだ。

「おれ今日お母さんに話してみる!」
「なぁ!ずりぃよそこ変わってよ!」
「え?」

妓夫太郎はその時になり、少年の後ろに何人か控えた子ども達の存在に気付いた。

「待ってるんだけど!」
「順番!順番!」
「あっごめん!お兄ちゃん話聞いてくれてありがとう!」

非常に嫌な予感がする。妓夫太郎の頬が引き攣った。律儀に礼を残して空けられた席には、少年より更に幼いであろう子ども達がぎゅうぎゅうと三人で押し入ってくる。

「ねえ兄ちゃんなんでそんなピアノうまいの?」
「どれくらいしゅぎょーしたの?」
「ピアノとおよめさんどっちが好き?」

いつの時代も思うことだが、何故子どもという生き物はこうも恐れ知らずなのか。鬱陶しい事この上無いが、兄という立ち位置が魂から染み付いた妓夫太郎は幼い子どもを無下にすることが時折酷く難しい。

「・・・死ぬ気で練習したからなぁ」
「どっちが好きなの?」
「・・・」

沈黙と渋い表情で攻撃の手を緩めてくれるほど、この小さな悪魔たちは優しくはないようだった。

「ねえ!どっち?」
「・・・察しろよなぁ」
「えー?!言ってよー!!」
「うるせぇ」



* * *



ヘアセットの予行は、大抵ステージ前夜の眠る前と決まっている。スタイリング材は使わず軽く結っただけではあるが、妻の髪が絡まらぬよう丁寧にブラシを通し解く過程で、妓夫太郎は鏡越しの視線に気付いた。

「・・・んだよ。なんか付いてるかぁ?」
「ううん。何も」

ドレッサーの前に座るは普段通りにこやかに、そして少々の熱量を込めた瞳で鏡の中から笑いかけてくる。

「昼間の妓夫太郎くん・・・いつもそうだけど、特に格好良かったなぁって」
「あぁ?」

相変わらず全力の褒め言葉に怯む程度は少なくなったが、いつまで経っても慣れるには至らない。そうして眉間に皺を寄せる妓夫太郎と目を合わせたまま、が小さく肩を揺らして笑った。
傍にいられる様になり幾度季節が巡っても、回想に浸るその柔らかな表情ひとつ、心の奥底をさらわれる様で瞬きが惜しくなる。

「男の子たち、皆妓夫太郎くんに構って欲しくて目がキラキラしてた」
「・・・見てたのかよ」
「格好良かった」
「お前まで適当なこと言ってんなよなぁ」
「本当だよ」

日中はただただ、自由で遠慮の無い子ども相手に渋い顔をしていた。見られたことから居た堪れない思いに誤魔化そうとした中、手元をそっと掴まれ妓夫太郎は瞬間瞠目する。

「小さい子達に慕われてる姿見てたら・・・何か、心臓、きゅってなった」
「・・・」
「何だか懐かしい気がするなぁ、なんて。そんなこと無いのに。もう、相変わらず私の頭のズレたところ、治らないね」

その奇妙な既視感は気のせいではないのだと、明かすことは出来ない。の記憶は戻らない。ただ、例えぼんやりとした片鱗であっても、心の片隅に何らかの繋がりを残してくれているのならそれすら幸福だと。いつの頃からか、妓夫太郎はそう受け止められるようになっていた。

手放すよう促されたブラシを、の手が丁寧に鏡の前に戻す。捕えられたままの手を、彼女が腕ごと優しく引き寄せたがる理由。甘えるような表情を鏡越しに目にしてしまえば、ローチェアごと前へ身体を寄せるしか選択肢は無くなる。否、この引力に呑まれることを自らが望んだのだ。背後から抱かれることで心底満たされたような妻の笑みが、鏡の中で妓夫太郎を待っていた。

「ふふ、ときめき過ぎかな。こういうのって、結婚何年目くらいまで続くんだろう」

うまく言葉が出て来ない。何年だろうと、何巡しようと、この思いが褪せることは無いだろう。

「一生続いたら素敵だよねぇ」
「・・・うるせ。ばぁか」

を両腕に抱き締める自分。酷く嬉しそうなに影響される様に、表情を弛めてしまう自分。鏡に映る何もかもはまごう事なき幸福の証だが、正面から受け止めるにはやはり気恥ずかしく、目を背ける様に最愛の頬へ吸い付く。柔らかな感触と、彼女の匂いがした。



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