遠き町にて



三月も中旬に差し掛かる。自宅近辺ではすっかり春めいた気候に思えた暦が、山々に近付いただけでこうも肌寒く感じるとは読みが甘かった。
二両編成の電車が、比較的ゆったりとした速度で短いホームから遠ざかっていく。当然の様に二人分の大きな荷物を抱えた妓夫太郎は、傍に立つ妻が春の装いで寒い思いをしないかと気を配るが、当の本人は興奮に目を輝かせそれどころではない様子だ。

「あっ・・・!!」

これまた小さな改札を挟み、が探しびとを見つけ声を上げた。この地へ招待してきた張本人が、二卵性とはいえ彼女とよく似た雰囲気で穏やかに微笑み手を振っている。
兄と妹夫婦の久々な再会は和やかに、朗らかに、そして二人が改札を通り抜けた瞬間に崩壊した。果たして予期せぬ溝か、それとも謎の小石か、否、何も無い可能性もある。とにかく、普通であれば転びはしない平坦にて、幸太郎は盛大によろけた。

無論、妓夫太郎の動体視力で間に合わない筈も無く。

「・・・鈍臭ぇなぁ」
「めっ・・・面目ない・・・!」

抱えた荷を放るまでもなく、片手で腕ごと絡み取れば、幸太郎は目を白黒させながら踏み止まった。鈍臭い。頭に相変わらず、とは付け加えない。

「妓夫太郎くんありがとう。お兄ちゃん大丈夫?」
「な、何とか・・・妓夫太郎殿のお陰で・・・」
「気ぃ付けろよなぁ」
「肝に銘じます」

の双子の兄。立場こそ、当時の“友人”から大幅に近くなったものの、幸太郎もまた同様本質は変わりないようだった。

「久々なのに締まりが無くてすみません。改めまして遠路遥々ようこそ、、妓夫太郎殿。元気そうで何よりです」

普通ならば、そちらも元気そうでと無難に続くであろう遣り取りが固まる。が何とも言えない苦笑を浮かべた。

「えっと・・・そういうお兄ちゃんは何徹目?」
「えっ?」
「健康な人間のこさえる隈じゃねぇんだよなぁそれは・・・」
「いやー・・・ははは」

研究や学問の為ならば寝食を平気で忘れる。幸太郎は昔からそういう男である。やはり何も変わりはしないものだと、妓夫太郎は呆れ八割、懐かしさ二割の溜息をひっそりと吐いた。



* * *



田舎の街並みは、駅から離れる毎に様相を変えた。一体どのような畦道が続くかと思いきや歩道は整備され、十五分も歩けば都会とは呼べずとも清潔感あるレトロな街並みが待っていた。

「すっごい素敵なホールだったね・・・!!」

遥々やってきた目的がそこにあった。が目を輝かせるのも無理は無いと思える程、立派なコンサートホール。ふたりはその竣工に伴うイベントに呼ばれたのである。土地が土地なだけにどのようなものかと、正直なところ質素な野外ステージひとつであっても不思議はないと覚悟していた妓夫太郎にとって、これは想定外の驚きだった。外観は勿論、場当たりで上がったステージも普段見慣れたものと遜色無い出来であったと言えた。
興奮冷めやらぬを挟む形で、三人は横並びにアーケードを進む。混雑もしずぎず閑散ともせず、程よい活気が少々冷え込む空気を春へと動かしている様だった。

「町興しの一環として昨年から市が力を入れて建て直しをしていたんです。うちの学院も協賛で、私のいる研究室も植栽関係で少し携わりました。個人的には、中庭も落ち着いた雰囲気でおすすめですよ」
「そうなんだ!明日現地入りしたらもっとよく見てみるね!」

成程、市が総力を挙げての町興しであれば頷ける。使用用途としてはプロの演劇から学生の弁論まで幅広く使える場になるとのことで、まずは音楽で彩ろうということなのだろう。まさに定番だ。

「・・・こういう時のメンバーは、地元の人間で固めるもんじゃねぇのか」
「都会からは離れた町ですから。盛り立てて下さる方は地元外・年齢・プロアマ問わず大歓迎の完成式典・・・というより、お祭りですかね」

そういうものかと妓夫太郎は半目で手元の告知チラシを見遣る。事実、明日はピアノだけでなく様々な楽器の演奏者達が有名無名問わず集まるとのことで、それも地元民からたちの様な遠方の者まで様々な様だった。
チケットは全席自由席、好きな時に好きな席へ。市主催のコンサートというよりはオープンキャンパスの催しの様に妓夫太郎は感じたものだが、幸太郎から電話を受けたの表情を見れば自ずと答えは出た。

「突然のお願いだったので断られることも想定していましたが・・・二人とも、駆け付けて下さりありがとうございます。楽団も忙しいでしょうに・・・」
「ううん。こんな機会滅多に無いもん、逆に声かけてくれてありがとうだよ」

頻繁には会えない兄を前に、の声が弾んでいる。それだけのことが心を根本から緩めていく感覚に、妓夫太郎はふたりに悟られぬ様口端を上げる。

奇妙な縁もあるものだ。いつぞやもこうして、を挟み三人で江戸の町を歩いていたのだから。感傷は決して明かせないが、それももう慣れ切った様に前を向く妓夫太郎の腕に、不意にがとんと触れた。

「お兄ちゃん知ってる?私たち、これが初の国内旅行なの」
「えっ?意外ですね・・・」
「ふふ。有難いことにウィーンには年二回お呼ばれしてるけど、実は国内は初めてなんだなぁ」

事実だった。学生でなくなってからも変わらずの招待に応じふたりは夏と冬にウィーンへ飛び、ドイツ語飛び交う中で強い熱量の音楽に触れ続けている。タヌキから派生したのあだ名も未だ健在だ。
ともあれ濃厚な旅を年に二度している影響か、改めてふたりでの国内旅行はこれまでに機会が無かったのだ。妓夫太郎の腕に触れたの手に、きゅっと優しく力が入る。

「しかもお兄ちゃんの紹介で演奏者として、だもん。嬉しくてちょっとテンション治まらないというか・・・」
「お前今日は早く寝ろよなぁ。昨日も遅くまで寝つけてなかっただろうが」
「ええ?だって昨日は準備でバタバタしてたし、今日も今日で多分明日のこと考えたらワクワクするだろうし・・・」
「コンディションを整える気が無さ過ぎんだよなぁ」

これも事実だ。子どもの様に高揚を抑えきれないを見ていて飽きない気持ちはあれど、同じ演奏者として舞台を前に二日連続の寝不足はいただけない。そうして眉間に皺を寄せる妓夫太郎に対して、まるで臆することなくは笑う。

「大丈夫だよ。私、妓夫太郎くんが隣にいてくれればいつも絶好調だから」
「・・・」

言い分としてはまるで成立しない筈が、この笑顔で当然の様に言い切られてしまうと途端に弱くなる。正論で切り返すことなど出来る筈が無い。全幅の信頼と一切衰えない好意が、妓夫太郎からそれ以上の言葉を奪う。辛うじて険しい顔を装う愛故の苦労を知ってか知らずか、幸太郎が控えめに肩を揺らした。

「っふふ。いやぁ、仲が良くて羨ましい限りですな」
「・・・るせぇ」

気恥ずかしさで思わず逃げ出したくなる。同時に、生涯慣れることは無いであろう尊さをひとつ増やし、大切に噛み締めたくもなる。妓夫太郎が水面下で己と葛藤を始めた、その時だった。

「・・・あ!幸太郎先生!」
「ほんとだ!先生だ!」

甲高い声がした。

先生。その呼び名に、今より幼い梅が紛れていやしないかと、駆け寄ってくる子ども達の顔を見渡してしまう己を妓夫太郎は僅かに恥じる。

「・・・先生?」
「研究の合間に、小学生向けの塾講師を少々」

の問いに幸太郎が答える形で懐かしさは紐解けた。今も昔も、何の因果か似た様なことをしながらこの男は学びを続けているらしい。三人は子ども達に囲まれ足を止めた。

「幸太郎先生こんにちは!」
「先生のともだち?」
「皆こんにちは。こちらは私の妹と、妹の旦那さんです」

どう見ても低学年だろう、まだまだ幼い双眸が興味津々にと妓夫太郎を見上げ、しかしその内ひとりの口元からは妙に大人びた台詞が飛び出した。

「幸太郎先生にはいつもオセワになってます」
「え?あっ、いやいやこちらこそ・・・最近の子ってしっかりしてるね・・・」

思わずといった様子でがたじろぎ、横に立つ妓夫太郎もまた感心したような目で見降ろした直後のことだ。どうも気になる視線を感じた先、今度は見事に年相応の眩さに晒され、ひくりと頬が引き攣った。

「ダンナさんってことは、ふたりはケッコンしてんだ!」
「へぇー!!ケッコン!!へぇー!!」
「・・・」

面白がっているのか興味があるのか、とにかく目の輝きの純度が高い。そうだ、子どもはこれくらいの反応が普通だと理解しつつも、食い付きの強さに気圧されてしまう。
付き合っていられるかと露骨に目線を逸らせば、追尾する様に複数人で立ち位置を変えて来る。ああ、不本意ながらこれも覚えがある。
そうして妓夫太郎が困り果てると同時のこと、かわし切れない導線は意外にもによってやんわり断ち切られた。

「そうだよ。私たちはね、結婚相手だけじゃないパートナーなんだ」
「なに?ケッコンだけじゃないってなに?」
「ふふ。さて、何でしょう」

盾を引き受けたは上機嫌に微笑みながら夫の背に手を当て、くるりと方向転換を促してくる。妓夫太郎の視界が一変した。
アーケードは十字路に差し掛かり、クロスした中央は豊かな敷地面積が味方をして随分とゆとりある造りになっていた。
それ程立派ではなくとも、目に優しく色とりどりの花壇。まさに歓談向けの汚れの無いベンチ。ちょっとした広場とも呼べる様な長閑な空間。
そして片隅に鎮座する、一台のアップライトピアノ。

「・・・おい。まさか」
「なるほど。考えましたね」

妓夫太郎と幸太郎の声が重なった。
まず妓夫太郎ならば名乗りを上げないであろう手を、恐らくこの場で思い付いたは喜々として決意に満ち満ちている。

「明日はお祭りって言ってたよね?色んなひと、呼べたら良いんだよね?」
「ええ、勿論。出来るだけ多くの集客で盛り上げたいところです。と、いうわけで」

双子の兄妹は実に息の合ったタイミングでこちらを見上げてくる。

「妓夫太郎殿さえよければ、どうかお力添えを」
「・・・」
「ストリートピアノなので、大々的な宣伝活動は憚られますが・・・興味を引けそうな方に、それとなく私から話を振ってみます」

誰でも自由に、好きな時に弾ける。逆を言えば、好奇の目にも晒されることになる。整えられた舞台の様に、好んで音楽を聞きに来る聴衆でもない。音大や楽団の敷地でもない見知らぬ土地で、休日の穏やかな雑踏の中突然ピアノを鳴らすなど、常であれば前向きに考えられる筈が無い。

「妓夫太郎くん、お願い」

―――しかし、の頼みを断れる筈も無い。

妓夫太郎は逡巡の末、覚悟を決めた。

「・・・しょうがねぇなぁ」
「やった!」
「なに?なにするの?」
「何のオチカラゾエなの?」

追い縋る賑やかな声が、ふたりがピアノへ辿り着くと共にぴたりと止む。
カバーも無ければ蓋も開いたままの鍵盤。それを試しに一音だけ鳴らすと、子ども達が息を呑んだ様な気配がした。

「・・・わかっちゃいたが、調律が甘ぇなぁ」
「指慣らしには問題無いよ、大丈夫」

続いて片手で音を流したの声に淀みは無い。自信と高揚感の滲むその声が告げる、早く弾きたいと。そうして音楽に対して前のめりな妻の姿勢が、口では仕方ないと言いつつも妓夫太郎は好きなのだ。

「何にするか決めてんのか」
「パッヘルベルのカノンが良いな。もし他に弾きたいひとがいなければ、明るい感じのをもう一、二曲足したいけど・・・」

悩むような素振りはほんの数拍。があまりに普段通りに笑うものだから、妓夫太郎は自然と眉を下げ苦笑を浮かべてしまう。

「とりあえず、弾きながら考えてもいい?」
「好きにしろよなぁ」

どんな無茶な振りであろうと関係無い。の信頼に応える、それが全てだ。

妓夫太郎はポキと一度だけ指を鳴らし、長椅子の左側に掛けた。グランドピアノよりやや小さな造りゆえ、日頃より若干手狭な距離感にが落ち着く。目を丸くする子ども達の背後に控える幸太郎と視線を交わし、そして互いに心得た様に頷きあい―――ふたりの指が、静かに鍵盤へ沈み込んだ。

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