変わらぬ君と変わりゆく予感



コツ。コツ。コツ。
等間隔のメトロノームが、可能な限りゆったりとしたペースで時を刻む。

コツ。コツ。コツ。
常時であれば眠気を誘う程にのんびりとした拍子は、しかし長年のブランクを抱えた挑戦者にとってはついていくことすら困難な代物に違いない。

「・・・っあ!」

通常より数倍ペースを落とした、ショパンのワルツ第六番《子犬のワルツ》の冒頭で、梅の指先は早くも躓いた。元より初心者用の教則本、その頭からやり直し中の身なのだ。ある程度の技術無しには太刀打ち出来ない名曲を前に、本人も“弾く”より“音を鳴らす”という心持ちなのだろうが、それでも梅の顔は羞恥と悔しさで赤く染まっており、隣で様子を伺うの眉は梅の憤りと反比例するが如く見事な八の字を描いていた。

「惜しい、すごく惜しかった・・・!」
「うううっ!もう!悔しい!!」
「そうだよね、本当に頑張ってるよね梅ちゃん・・・!」

コツ。コツ。コツ。
それでも鳴り続ける無慈悲な針を、ピアノの横に立っていた妓夫太郎が静かに止める。

「一度辞めたのをもう一回触ろうとしてるだけで、十分凄ぇことなんだよなぁ」

何年も鍵盤に触っていなかったのだから、経験者であれ―――そもそも、梅は子どもの頃数年嗜んだ程度である―――指の勘を取り戻すには相応の時間が必要だ。はじめからうまく行かないことは仕方が無い。前向きな姿勢が大事である。

「妓夫太郎くんの言う通り。もう一度始めようとする気持ちがあるだけで梅ちゃんは偉いんだよ」
「しかも挫折した曲だしなぁ。昔の自分に向き合うなんざ、誰にでも出来ることじゃねぇよなぁ、凄ぇなぁお前は」

遡る遠い日に、梅はこの曲を弾きこなせないことに癇癪を起こしピアノを辞めた。その経緯を知る身として、今になっての再開宣言に妓夫太郎が目を瞬いたのは少し前のことだ。
ともあれ最も身近な音楽夫婦の世話になることを決めた梅は日々こうしてレッスンに押しかけ、断る理由の無いふたりは出来る限りの協力を惜しまず今に至る。難易度別のバイエルからツェルニーまで隙無く整えられた教則本に、家にいる間であれば昼夜を問わずレッスンを受け付ける手厚い好待遇、加えて常に全肯定で褒め称える甘々加減であるが、それが梅のやる気に追い風を送っているのだから正解なのだろう。
日々の進歩は目覚ましくなくとも、普段の沸点の低さからは考えにくいほど一歩一歩着実に梅は課題をクリアしていく。今はまるで歯が立たない因縁の曲も、もしこのまま続けるのであれば、或いは。

「・・・続きはまた明日にする」
「うん、お疲れ様。ケーキ買ってあるよ」
「食べるけど後で。引越しの準備進めるのが先」

存分に甘やかす準備は出来ていたというのに、ひらりとかわされ拍子抜けした様なの表情が、時を置くごとに元気を無くした花の様に萎れていく。妓夫太郎はどうにもいたたまれない思いで妻の頭を撫でた。



* * *



これまで妓夫太郎と梅が住んでいたマンションで、入籍と同時にも共に暮らし始めたのが昨春のことだ。当時は別で新居を用意すると童磨から提案もあったが、使い慣れた質の良いピアノを理由にが丁重な断りを入れた。
さて、流石に新婚夫婦の邪魔はしないと豪語した梅は同階の空き部屋に移り住み、自由気ままに友人と旅行等で家を空けることも度々だったが、それでも三日顔を合わせないことは無い程に理由をつけてふたりの生活に入り浸り、時にはの方が梅を呼ぶこともあった。
結局のところ結婚前とあまり変わらぬ距離感が自然と定着し、穏やかな三人の生活がこれからも続くと思われた矢先―――唐突に、梅が引っ越すと言い出したのだ。場所は此処からそう離れていないが、本人はもう決めたことだと折れる気配が無い。突然の寂寥感に苛まれている重度で表現するならば、実の兄である妓夫太郎よりもの方が堪えている様ですらあった。

「あ・・・この漫画私も昔読んでた」
「ちょっと読み始めないでよ、今日はここまで進めるって決めてるんだから」
「・・・はぁい」

試験勉強中に部屋の掃除を始めてしまう学生の様に、は義妹に窘められ肩を落とす。散らかり放題の梅の部屋に、当然の様に手伝いで馳せ参じつつも、彼女は内から滲み出る淋しさと折り合いを付けられずにいるのだろう。一分一秒でも片付けを遅らせようとする姿がいじらしく、果たして何と声をかけるのが得策かと妓夫太郎が思案すると同時のこと。

「・・・ね、梅ちゃん」
「なぁによ」

ひとつの深呼吸の末、が顔を上げた。

「引越しても、たまには私とも会ってくれる・・・?」

午後の陽射しが照明の代わりを果たす六畳部屋が、途端に静まり返る。時計の針の音が、存在感を増した。

「妓夫太郎くんとは定期的に会うと思うんだけど・・・その時、何回かに一回でも良いから、私も行っていい・・・?」

淋しくなる。その本音を隠さない声色で、が発したのは切なる願いだった。傍にいたい。一度でも多く逢いたい。真剣な表情でこんなにも求められ、果たしてノーと言える者がいるだろうか。に関して言うならば全般的に盲目と自覚のある妓夫太郎であったが、それは妹である梅にも同じことが当て嵌まる。形の良い眉をきゅっと寄せて一秒。美しい口元で言い淀み二秒。そして三秒目には、深いため息が零れ落ちた。

「おバカな子ダヌキ。駅ふたつしか違わないくらい近くなんだからいつでも会えるし、お兄ちゃんと会う時はアンタも一緒」

今のがどんな顔をしているか。位置取りが邪魔をして、妓夫太郎はそれを正面から知ることが叶わない。しかし、不思議と胸の内が優しく満たされる。

「もう家族なんだから」
「・・・」
「そうでしょ」

妻の表情が安堵に綻んでいく様子が、目には映らずともはっきりと手に取る様にわかる。“昔”とは少々関係性が違うが、梅との仲は特別な理由が不要なほどに良好なままだ。己だけが実感できる尊さに感謝し、妓夫太郎が僅かに目を細めた。

「・・・うん」
「もう。どっちが歳上なのよ、しっかりしてよね」
「ふふ、ごめん」

唇を尖らせ、お仕置きと言わんばかりに梅の指先がの額を悪戯に弾く。両手で前髪を押さえながらも、肩を揺らすの笑い声に陰りの色は無かった。
一件落着。少なくとも、引っ越した後でも気兼ねなく会えると約束を取り付けられたのだから、ふとした拍子にこちらの胸が締め付けられる様な溜息を漏らす妻の姿はもう見ずに済みそうだ。妓夫太郎はそうして一人口端を上げ、静かに片付けの手伝いを再開させた。

「それに、折角ピアノも復活したのに、アタシがお兄ちゃんと子ダヌキ以外の奴にレッスン頼む訳無いじゃない。アタシ本気なのよ、通い詰めてやるんだから覚悟しなさいよね」

座り込んだまま両腰に手を当てる梅の声に迷いは無い。これには思わず、妓夫太郎が沈黙を破った。

「・・・お前、ピアノ続けんのかぁ」
「そ。ちゃんと音楽出来る物件にしたの」
「凄い凄い!梅ちゃんがピアノ続けてくれるの嬉しい!」
「なんでアンタがそんなに喜んでるのよ、もう。ほら、手ぇ止めないの」
「ふふ。はぁい」

妹の発起は引っ越すまでの期間限定では無かった様だ。一体何が火をつけたのかは不明瞭なままであるが、兄として妹の力になってやれることは多いに越したことはない。特に、我ながら似合いもしない音楽の道を選んだ今、この指先が最愛を繋ぎ止めるだけでなく梅にも頼って貰えるならば。そんなことをぼんやりと考えていた、その刹那。

「え」

微かな疑問符を耳が拾い、吸い寄せられる様に目線が向いたその先。段ボールの中身を整頓していたが、見開きの写真台紙に釘付けになっている姿を妓夫太郎は目にした。

「これ・・・」

今日この時まで忘れ去られ仕舞われていたであろうそれが、一体何の集合写真なのか。

「っ・・・!」

全てを唐突に理解した瞬間、妓夫太郎の背筋が凍り付いた。

「あぁ、アタシが最後に出た発表会」
「え?梅ちゃん・・・あっ本当だ!」

慢心していた。童磨さえ余計なことを言わない様きつく口止めをしておけば問題無いと、考えの甘さにこれまで気付く由も無かった。

「・・・ちょっと、真ん中にいるの子ダヌキじゃない!」
「そう!同じグループのピアノ教室だったんだね!」

身体中の血管が暴れ脈打つ。かつての邂逅を今になって知り興奮気味に顔を見合わせるふたりの姿が、心臓に悪い。この動揺を決して悟られまいと身構えるには、今の妓夫太郎は時間と余裕が明らかに欠けていた。

「すごい偶然!ね!」

こんな時、ならば当然一番にこちらを振り返り同意を求めるであろう。そんなことにすら、一拍出遅れてしまうほどに。

「・・・妓夫太郎くん?」

その大きな瞳が、戸惑いの色を見せる。駄目だ。軌道を修正しろ。妓夫太郎は懸命に己の内側に鞭を打った。

「・・・あぁ。そう、だなぁ」
「ねぇ・・・今、思い出したんだけど」

唐突に齎された不利な展開は、坂道を転がり落ちるかの如く。梅の目が怪訝でありながら妙に座ったものだと気付き、妓夫太郎の鼓動がぎくりと強張った。

「お兄ちゃんが突然ピアノ始めたのって、この発表会が終わってすぐよ」
「っ梅・・・!」

妓夫太郎は確かにあの日からピアノを始めた。鍵盤に触れたことすら無い初心者中の初心者だった。しかし、その唐突な始まりをに明かしたことはこれまで一度も無い。

「え?」
「そうよ。あの日、何かお兄ちゃん変だった。童磨は適当なこと言ってたけど、お兄ちゃんがアタシに構ってくれなかったのはあの日一度だけ」

妓夫太郎はあの日の己を悔やむ。を見つけ、住む世界も違えば記憶も無いという現実を突き付けられ、一時的にでも呆然自失となった未熟な己を。

「・・・何かの記憶違いなんだよなぁ」
「記憶違いなんかじゃないわ!アタシ淋しくて悔しくて大泣きしたんだもん!絶対忘れない!」
「今の今まで忘れてたんじゃねぇのかよ・・・!」
「ほら、やっぱり!」

一度火が着いた憤りはそう容易く宥められない。妓夫太郎は奥歯を噛み締め言葉に窮した。
どうすれば。どうすればこの場を切り抜けられるのか。梅を納得させ、に疑念を抱かせない為に必要なことは何か。妓夫太郎は懸命に頭を巡らせる。

そうして兄と妹がひりついた空気を醸し出す中、が改めて手元へと目を落とした。写真台紙には当時の日付が印字されている。

「十年前・・・中学から・・・?あんなに凄い腕前だったから、私てっきり・・・」

ぽつりと零れ落ちる言葉からは、色濃い驚きが見て取れた。しかし、緊張に身を硬くする妓夫太郎に向けられたの視線は、普段通り根底からして柔らかい。

「凄い・・・本当に凄いね、妓夫太郎くん。全然知らなかったからびっくりしちゃった・・・」

どうやらの心に触れたのは、思いのほか遅い始まりの様だった。音大を志す者の中で、確かに中学から音楽を始める様な人間は圧倒的に少数だろう。妓夫太郎とてという絶対的な理由さえ無ければ触れる筈も無かったピアノだが、今はそちらに気を逸らせただけで上々である。
しかし、納得に至らない梅は依然として食い下がった。

「アタシのお兄ちゃんが凄いのはわかってる!そうじゃなくて、変だったの!」
「おい、梅・・・!」
「通路の真ん中で立ち止まって、アタシ沢山心配したのに全然反応も無くて・・・」

再度暴れ狂う鼓動が、痛みを発する。
言われずとも昨日のことの様に思い出せる。周囲は何もかも、梅でさえあの瞬間だけは霞み、照明の下に見つけた唯一のひとだけが鮮明だった。

「ずっと、ステージに釘付けで・・・あれって・・・誰のこと見てたの?」

忘れる筈も無い、あの緊張感。全てが変わった革命の様な日。
しかし、それは今の前で明かすべきではないことだ。

「突然ピアノを始めたのって、それがきっかけ?ねえ、お兄ちゃん」

梅の追求は振り払えず、の顔などまともに見られる筈も無い。
声が喉に張り付き、一切が言葉にならない。
ああ、時計の音が煩い。



そんな時だった。
ぐう、と。実に気の抜ける音が、静まり返った部屋に満ちた。

「・・・お腹、空いちゃったなぁ」

は気恥ずかしさに頬を染め、苦笑を浮かべていた。それに伴い梅が堪え切れず噴き出したことで、息を呑む程の緊張感が和らぐ。

途端に時計の音は、気にならなくなった。



* * *



風呂を済ませ寝室へ入ると、が眠る前の音楽を選んでいる。鼻唄混じりにCDラックと向き合う妻は楽し気だ。あまりに普段通りの光景に妓夫太郎は戸惑い、そして深く感謝した。

昼間、一頻り大笑いした梅は勢いこそ大幅に削がれた様であったが、用意されたケーキを突きつつもやはり追撃してきたのだ。そこを助けてくれたのもまた、だった。

『梅ちゃん、私すごく意地悪なこと言っちゃうけど、今だけだから許してね』
『何よ』
『私、梅ちゃんがピアノ再開した理由、まだちゃんと聞けてないなぁ・・・なんて』
『・・・う』

梅は見事に渋い顔をした。事実、梅が何故今になってピアノに向き合い始めたのか。それをふたりは知らない。一体何事かと当然最初に問うたものだが、別にとはぐらかされ今に至るのだ。

『ごめんね。でもそれと一緒。誰にだって、うまく言えなかったり、秘密にしておきたいことがあるんじゃないかな。勿論、私も梅ちゃんの言いたくないことは無理に聞こうと思ってないよ』

相手が言いたくないことならば聞かない。それを実に上手く、優しく、は梅に説いた。

『・・・子ダヌキの癖に。生意気な奴はこうしてやるんだから!』
『あっ・・・私のイチゴ・・・!!』


あれから何ひとつは問うてこない。梅を玄関先まで見送り、皿を洗い、夕方の買い物、合間のピアノ練習に、夕飯作りから片付けに至るまで。まるで何事も無かったかのように、穏やかな笑顔を絶やさない、普段通りのだ。


「なぁに?」

こちらを振り返る、その黒い瞳は優しい。

「昼間の話だけどなぁ・・・」
「いいよ、無理に話さなくて」

緩く首を横に振り、が微笑む。こちらに背を向けて再度CDの山と向き合うことで、やんわりと話を終わらせようとしている様に感じた。それは、聞くつもりが無いという拒絶ではない。ただ、わからないなりに慮っての優しさであると。妓夫太郎にはそれがはっきりと理解出来た。

「妓夫太郎くんの困ってる顔、見たくなかったから」
「・・・」
「あ。あと、本当にお腹が空いてたから」

のこうした一面に触れる度、堪らない気持ちになる。何年経とうと。何度命が巡ろうとも。

引き寄せられる様に近付き手を伸ばし、妓夫太郎は妻の華奢な背を抱き寄せた。一切の抵抗も無く、甘える様に頭を預けて来るの反応を受け、妓夫太郎は心からの溜息を零してしまう。

「悪いなぁ」
「ふふ。どうして謝るの」

柔らかな体温が不意に身を捩るものだから好きにさせれば、妓夫太郎の腕の中でが器用に身を反転させた。

「私も、妓夫太郎くんに話せてないよね」
「・・・何の話だぁ?」
「私の音楽のはじまり」

の、音楽のはじまり。考えもしなかった単語に、妓夫太郎は思わず目を瞬く。腕の中に納まる黒い瞳が、至近距離で悪戯に輝いた。

「それはもう壮大なドラマがあるけど・・・恥ずかしいから、内緒」

突然に音楽を始めたあの日の真相を、妓夫太郎が言えないならば。もまた、同じ様にはじまりを秘めると。そうすることで治めようとしてくれているのだと理解するなり、妓夫太郎の胸の内に温かさが灯る。やはり、どうしたって敵わない。

「お揃いだね」

込み上げる愛おしさに突き動かされる様に妓夫太郎が顔を近付ける。が背伸びをしたのは同時のことで、ふたりの距離は容易く溶けた。風呂上り特有のシャンプーの香り、それに混じった最愛の匂い。薄い夜着越しに感じる体温、その奥で燻り始めた熱さ。夫婦になってもうじき一年が経とうとしているが、互いへの熱量は身も心も衰える気配が微塵も無い。心地よさに酔う様な笑みにも似た吐息が、徐々に余裕の無いそれへと変わっていく。身体中で絡まり合う強さが、口づけの深さと比例し始めた、その時だった。

すぐ傍に置かれたの端末が、突如として音を立てる。びくりと肩を震わせた張本人が端末を振り返ると同時に、妓夫太郎もまたオープンに上向いた画面へと目を向けた。

―――お兄ちゃん。
の端末で着信を知らせる画面には、そう表示されている。

には、双子の兄がいる。地方の大学院での研究生活に忙しい兄とは滅多に会えず、が彼を尊敬し、そしてとても好いていることを妓夫太郎は知っていた。
しかし、は瞬間迷った末にこちらを見上げ首を振る。

「・・・大丈夫。後でかけ直すよ」

離れて暮らす兄からの貴重な連絡よりも、夫婦の時間を優先すると。にそう囁かれ、嬉しくない筈は無い。しかし妓夫太郎は苦笑を浮かべた末に手を伸ばし、着信端末の通話ボタンをタップした。

「っえ・・・?」

無論ここから悪事を働く気など毛頭ない。戸惑うの耳に無言で端末を押し当て、華奢な手にしっかりと握らせた上で妓夫太郎は身を翻した。
その気になりかけたことは否定しない。しかし、が大事に思う家族のことで無理をさせることは望まない。耳に端末を当てて尚言い淀んでいる妻を促す様に頷けば、漸くが緩く表情を綻ばせた。
ありがとう。声にならない口元だけの動きが、心からの礼を告げてくれる。それだけで十分に、妓夫太郎は満たされた。

「・・・もしもし。お兄ちゃん元気?久しぶり」

スピーカー通話ではないものの、あまり広くはない空間で会話は拾えてしまう。邪魔をしようとは思っていない。妓夫太郎は自然な流れで寝室を後にするべくに背を向けた。

妓夫太郎は、の双子の兄を知っている。
どんなに忙しい身であろうと、結婚に至る経緯として当然顔は合わせてある。二卵性の双子故にそれほど顔は似ていないとお互い笑いながらも、纏う空気感がと非常によく似ていることも。昼夜を忘れることも儘あるほどに研究熱心であることも。お人好しで、荒事には滅法弱く、そして信頼の置ける人物であることも。どこか古き時代めいた話し方も、何もかも―――昔のまま、変わっていないことを知っている。

立花幸太郎。
かつて、と妓夫太郎が遊郭に生まれ外の世界を夢見た在りし日に、心強い助力をしてくれた友人。
まさか、の双子の兄として再会することになるとは、結婚の挨拶をするまで考えもしなかったことだけれど。

「・・・え?」

妻の疑問符は、たった一言の中に驚きと興奮が多重に秘められたもので。思わず振り返った先、の目が喜びに輝き全力でこちらを手招くものだから。兄妹水入らずで話をさせるつもりが、妻の引力に抵抗出来る筈も無い妓夫太郎は、困ったような苦笑を浮かべ寝室へと引き返したのだった。


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