理由はいらない



太陽に似た花が、の笑顔を連想させた。
日が沈み始めた街中で妓夫太郎は自然と足を止める。

花屋など一人ではまず立ち寄らない場所である筈が、何故か今日に限って争い難い引力を発している様だった。店の外で存在感を放つ暖色のガーベラ達と向かい合い、暫し思案する。

現状、花とは決して縁遠くは無い生活を送っている。演奏会に花は自然と付いてくるものだ。日本であれ渡欧先であれ、いつだってドレスアップしたの傍には何かしらの花がある。
ただ、焦点の合うものは妓夫太郎にとってひとつの為、装飾の花は少々ピントの合わない外側の景色と呼べた。しかしその様に普段気に掛けもしない筈のガーベラが、今この瞬間既に妓夫太郎の内側へと大きく踏み入っている。
大抵は二人共に在る暮らしの中で、珍しく一日別行動を取ったという、ただそれだけの空白に妻の温かな笑顔を想起させる程度には。

「・・・」

籍を入れ、二人の関係が“家族”へと変わり約半年だ。音楽とは関係のない場面で突然花を渡したなら、はどんな顔をするだろう。太陽に似たこの花に大きな目を丸くし、そして、特別な笑顔を見せてくれるだろうか。

無意識の内に心が緩み、果たして花を買うには何から始めるべきかと視線を頼りなく彷徨わせたその先で、思いもよらぬ人物と目が合い――妓夫太郎は全速力で背を向けたが、しっかりと肩を掴まれる速度に敗北を喫した。

「酷いなぁ。そんなに慌てて逃げるなよ」
「逃げてねぇからなぁ・・・!!」
「ふふふ、君は相変わらずだねぇ」

飄々と笑いながらも肩を掴む手が容易く振り払えない程重い。厄介な輩に捕まってしまったと妓夫太郎は不運を呪った。
保護者の肩書は今となっては過去のものだが、神出鬼没なこの男は時折顔を見せては主に妓夫太郎を揶揄い去っていくので困り者だ。

「楽団の帰りかい?お嬢さんは?」
「・・・今日は音大に顔出してる」
「そうか。久しぶりにお嬢さんの顔も見たかったなぁ」

そう簡単に会わせてやるものかと妓夫太郎は口端を歪める。何事も面白可笑しく踏み込んで来ることはこの男の性として百歩譲って許容しようとも、妻に対して元保護者の立場を盾に不必要な程距離を縮めることは見過ごせない。尤も、そうした反応込みで揶揄われていることにも自覚はあるのだけれど。
何にしても適当にあしらい一刻も早くこの場を去りたい。ガーベラを眺めていた場面を目撃された可能性が極めて高いのだ。

「ともあれ感心感心。お嬢さん、君が花束を買って帰ったら喜ぶだろうね」
「人の予定を勝手に決めんなよなぁ」

やはり見られていた。妓夫太郎が眉を寄せて威嚇すると、途端に童磨は端正な顔を不安げな色へと染め上げた。ご丁寧に頬へ手を添えて言い辛そうに口を開く。

「え?花を贈る相手はお嬢さんじゃないのかい?おやおや、それは・・・」
「ばっ・・・違ぇからなぁ!あいつ以外にいる訳が・・・!」
「梅かな、て言おうとしたけど、やっぱりお嬢さんに花を選んでたんだねぇ」

してやられたと気付いた時には遅く、鼻唄交じりに上機嫌な笑みへと一変した童磨を前に妓夫太郎は圧倒的な不利を実感した。
こういう男なのだ。ほんの一瞬でも術中に乗って激高しかけた己が情けない。

「最初から素直に認めれば良いのに。俺と妓夫太郎の仲だろ?」
「どんな仲だってんだ・・・くそ」
「強烈な一目惚れの現場に居合わせた仲だよ」
「・・・」

言葉にならない呻きを、妓夫太郎は飲み込まざるを得ない。例えどんなにそれが不本意なことであっても。

「はぁ。ピアノなんか触ったこともなかった妓夫太郎が、長年必死になって追いかけたお嬢さんだからねぇ。君たちが今仲睦まじい夫婦でいるってだけで、俺は感慨深いよ」

そういうことになっている。前世の記憶という人知を超えた事情を話せない以上、この男の立てた筋書きと財力に助けられ、今がある。童磨の力無くしてと同じ音楽の世界には足を踏み込めなかった。その点は唯一絶対の点として、感謝している。
放っておけばどこまでも尾鰭がつきそうな“強烈な一目惚れ”の口止めは並大抵の苦労では無いが、今のところ余計な情報は妻に伝わってはいない様だ。

「うんうん。共に暮らしているからこそ、感謝の気持ちや愛情を伝えるのは大事なことさ。良い夫婦の日に花束くらい贈らなきゃねぇ」

不意に飛び出た聞き慣れない単語が、物思いに耽りかけた妓夫太郎の意識を引き戻す。

「・・・あぁ?良い夫婦の日・・・?」
「え?十一月二十二日、いいふうふ」

良い夫婦。年間の中でも一と二が規則正しく並ぶ日付。それらを妓夫太郎が頭の中で組み立てた時間は、即ち童磨に与えてしまった時間とも呼べた。

男は虹色の瞳を丸くし、瞬き、そして――この上無く愉快であることを隠そうともしない、そんな笑みを浮かべたのだ。

考えが足りなかった。らしくもない花束に丁度良かった口実を自ら砕いてしまった様なものだ。適当に頷いておけば良かったものを。妓夫太郎は数秒前の己を激しく後悔すると共に羞恥で歯を食い縛った。

「・・・あぁ、成程。そうだよねぇ、良き夫たる者、愛する奥さんに花束を贈るのに、特別な理由なんていらないよねぇ。君がこんなに良い男に育ってくれて、俺は実に鼻が高いよ」
「るせぇ・・・!俺は帰るからなぁ!」
「まぁまぁそう言うなよ、どんなに大きな花束になっても車で送ってあげるから心配しないで」
「っくそ・・・離せ!家まで付いても来させねぇからなぁ!」

細くはなくとも一見して然程筋肉質には見えない腕は、しかし信じ難い力を持って妓夫太郎の肩を押さえつけ離そうとしない。
妓夫太郎が額の青筋をびきりと増やした次の瞬間、軽やかな鈴の音と共にドアを押し開き、花屋から一人の客人が姿を現した。

僅かな一瞬、確実に時が止まる。
最愛の妻と、目があった。

「・・・え」

冷え込み始めた風に乗った掠れ声はどちらのものだったのか。まるで想定外の邂逅に二人して身を固くする中、最も早く声を上げたのは第三者である童磨だった。

「やあやあお嬢さん、こんにちは。会えてとても嬉しいよ」
「あっ・・・こんにちは童磨さん、ご無沙汰してます」

血縁の無い他人であれ、にとって童磨は義理の父に等しい。はっと我に返るなり深々と頭を下げ、にこりと笑った末の視線が夫の元へ向かうまで若干の時間を要した。

「妓夫太郎くん、練習お疲れ様・・・は、早かったんだね」
「おぉ・・・お前もなぁ」

彼女がそろりと後ろ手に隠したものがカサリと包装紙の音を響かせ、丸みのある笑顔が不自然に引き攣る。いよいよ怪訝な状況に妓夫太郎が小首を傾げると同時に、が細く息を吸い意を決したかの様な表情を見せた。

「あ、あのね、呼ばれてたレッスンが早く終わって、帰りにここのお店の前通ったら、ガーベラがすごく綺麗で、思わず立ち止まって見てたら妓夫太郎くんのことが頭に浮かんで、えっと・・・花は多分ステージで見慣れてるんだろうけど、考えてみたら個人的にブーケをプレゼントしたこと無いなぁとか、どんな顔してくれるかなぁとか、色々考えてる内にお店のお姉さんが相談に乗ってくれて・・・!」

一生懸命に紡がれる言葉が徐々に速度を上げる中、の口から告げられる内容が身に覚えのあるものであると。妻の様子を案じるあまり、妓夫太郎は気付くのが遅れてしまう。おやと感じた次の瞬間には、ガサリと勢いよく音を立ててそれは差し出されていた。

「っ妓夫太郎くん、いつもありがとう・・・!」

外に飾ってあったガーベラに、妓夫太郎には名前のわからない花々がバランス良く組み合わされ、まさしく贈り物と呼ぶに相応しい花束がそこにあった。しかし送り手と貰い手が想定とは真逆である。咄嗟に唖然としか反応出来ない妓夫太郎を前に、は困った様な微笑みを浮かべた。

「本当は家で準備万端にして待ち構えたかったけど・・・格好つかなくて、ごめんなさい」
「お前・・・」

思わず声が震えそうになる。何を言っているのか。何を謝っているのか。花を見て連想されるべきはどちらか。相手がどんな顔をするかと心緩ませるのはどちらか。いつもありがとうと伝えるべきは、一体どちらだと思っているのか。何もかも真逆で然ることを当然の様に先んじて、そしてこちらの反応を伺う妻の挙動がーーあまりに尊過ぎて、心臓が痛い。
妓夫太郎は辛うじて咳払いをし、深く溜息を吐き出しながら両手を差し出した。

「何だってお前は・・・ったく・・・」

ここは日本だ。多少なり人目は気にする必要があり、更にはすぐ隣に厄介過ぎる男が目を輝かせ隙を狙っている。妓夫太郎は難しい顔のままぎこちなく花束を受け取り、そして妻の頭を短くひと撫でした。外ではこれが限界だ。はそれを実に良く理解し、満足気な笑みを浮かべてくれる。すぐ正面にいる大切なひとにのみ伝わる様、妓夫太郎の口端が若干緩んだ。

「お嬢さんの方が妓夫太郎より一枚も二枚も上手な上、気持ちが良いほど潔いねぇ」
「うるせぇさっさと帰れってんだ」
「そうはいかないよ」

二人の空気感に気付いているのか惚けているのか、男はきょろきょろと店内を見渡す。髪をひとまとめにした小柄な店員を見つけると、自信があるであろう美しく爽やかな笑みを浮かべた。

「そこのお姉さん、彼と相談して花束をお願い出来るかな。テーマはこちらのお嬢さんで」
「はーい、伺いますので少々お待ちください」

この展開は想定外だと言わんばかりに、数拍遅れでが小さく飛び上がった。恐縮しきりな顔をして、慌てて両手を振る。その様子に和み、加えて両手に抱えた花束が思いの外嬉しく、妓夫太郎は完全に油断をしていた。

「えっ?あの、良いんです童磨さん、私が勝手に妓夫太郎くんに贈りたいって思いついただけで・・・!」
「誤解のない様に言っておくよ。俺はまさに、妓夫太郎がお嬢さんに贈る花を選んでいたところに出くわしたのさ。君たちの息がぴったり過ぎて、正直俺は出番無しでも良かったくらいなんだよ」
「・・・え?」

余計なことを言うなと、童磨に釘を刺すタイミングを逸した。ぱっとこちらを見る妻の頬に赤みが差す、それに対し無表情を装える余裕さを拾い損ねた。

駄目だ、何も備えられない。

互いに目と目を逸らせない中、体温だけが上昇していく感覚に、妓夫太郎は花束の持ち手を強く握ることしか出来なかった。

「ふふ。君たちはとても可愛くて、とても良い夫婦だね」

ぽんと交互に頭を撫でられ、普段であれば舌打ちと共に振り払うことすらまともに出来ない。褒め言葉か悪質な揶揄いか、厳しくすべき判断がつかない。誰でも良いので横槍を入れて冷静さを取り戻す時間をくれと切実に願ったタイミングで、軽やかな足音が近付いてきた。

「お待たせしました。先ほどは充実のヒアリングをありがとうございました、お客様」

小柄な女性店員はどうやらこの花束をアレンジした張本人らしく、に親しげな笑みを向けている。胡蝶と印字された名札が、照明にキラリと光った。

「あっ・・・す、すみません、またお手数をおかけして・・・まさかここで夫に会うだなんて」
「とんでもない。花束を贈り合うご夫婦だなんてとても素敵ですし、携われて嬉しいです」

花束を贈り合う夫婦。客観的な立場からそう称され覚えた気恥ずかしさは、同じく照れながらも幸せそうに笑う妻の横顔で緩やかに溶かされていく。

何だって良い。大事な笑顔がこんなにも近い。そうして小さく息をつく妓夫太郎の横から、童磨が会話の輪に入ろうと距離を詰めてきた。

「よろしく頼むよ。何しろ彼、良い夫婦の日も知らなかったくらいで」
「おい・・・余計なことを・・・」
「まぁ」

女性店員は目を丸くした末、ふと柔らかく、それでいて可笑しそうに笑った。あ、と妻が慌てた様な声を上げた気がしたが一歩届かない。

「お二人は似た者夫婦さんですね」

童磨の目が輝くより早く、の耳が赤くなる。妓夫太郎はますます強く、花束を握り締めることとなった。


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