濡れダヌキと薔薇




些細な浮き沈みを彼女の音から推し量れる様になり、気付けば随分と経つ。コンディションは今ひとつでも気持ちが所謂ゾーンにのめり込んでいる時もあれば、万全な筈が解釈に納得が行かず乗り切れない時もある。そして今、隣でピアノを歌わせるは間違いなく諸々絶好調だ。

ラフマニノフの代表作のひとつ、パガニーニの主題による狂詩曲十八変奏。
最後の一音が消え行くその瞬間、これでもかと言わんばかりに緩みきる空気感に、妓夫太郎は思わず小さく笑ってしまう。

「はぁ・・・幸せ」
「・・・そうかよ」

音の余韻に蕩けそうな顔、演奏に心底満足しきっている声。の音楽愛は今に始まった話ではないが、今日は特別磨きがかかっている様に感じるのは、やはり帰国直後の為だろうか。

「我儘聞いてくれてありがとう。この鍵盤に触ると、ああ帰って来たなぁって実感するの」
「別に。いちいち礼なんていらねぇけどなぁ」

真冬のウィーンから戻り、彼女は自分の借りた部屋にも戻らず直接兄妹の住まいへとやって来た。玄関に薄ピンクのスーツケースを置いたまま、梅に土産を渡して即ピアノに向かい今に至る。
妓夫太郎より幾分か小さな手、その細い指先がそっと鍵盤を押し込む。何の変哲も無い一音に、は感じ入る様目を伏せた。

「すごく、良いピアノだよね」

良いピアノ。不在がちの家主もそんなことを言っていたと妓夫太郎は過去を振り返り、そして次の瞬間には際限なく距離を詰めてくる胡散臭い笑顔を強引に脳裏から追い払った。
このピアノをが気に入っている。帰国してすぐに触れたがるほど、愛着を持ってくれている。それが全てだ。

「君は音大より前から妓夫太郎くんの相棒だもんね。素敵な音、沢山響かせてきた先輩。良いなぁ、羨ましい」
「・・・」

今度は音を立てず鍵盤をゆっくりと撫で、彼女がそんなことを口にした。手の届かない過去に思いを馳せるの横顔は優しい。
素人が中学から追い付こうと必死に齧り付いていたとは、明かせる筈も無い話だけれど。文字通り死に物狂いだった期間を共にしたピアノを、尊く羨まれるとは。心が騒ついて仕方が無く、何と返したものかと妓夫太郎が思案するその傍ら、不意にの口端がきゅっと上がる。

「・・・私も追い付ける様に、頑張るからね」

長年の相棒関係にも、追いつけるように。そうしてゆるゆると顔を上げ絡んだ視線の先、黒い瞳はやはり疑い様の無い好意でこちらを見上げている。

一歩でも近付ける未来を夢見て、ここまで来たのだ。
願った以上の奇跡で隣の席を得、無機質の楽器に努力を讃えられた様な心地さえした。

そうして自然と顔の距離が近付きかけた、次の瞬間。

「子ダヌキ!お風呂入るわよ!」

遠慮の無い音を立て、練習室の扉が大きく開け放たれた。
バスタオルを抱えた梅の登場に固まる妓夫太郎とは対照的に、は時計を見上げて目を丸くする。

「あっもうそんな時間?はーい」
「・・・風呂ぉ?」

踊る様な足取りで彼女に纏わりつく梅の手元、タオルと共に抱えられたギフトボックスからは、独特な花の香りが漂っていた。妓夫太郎には良し悪しが今ひとつ理解しかねるものの、梅ならきっと喜ぶだろうとが選んだ土産のひとつだ。

「フフフっ!良いバスギフトくれたでしょ?今日はアタシ、お湯張りも洗うのもぜーんぶ子ダヌキに任せて薔薇風呂を満喫するの」
「喜んでお世話させていただきます、お姫様」
「・・・はぁ?」

しかし、世話とはどういうことか。数秒の空白を置き、妓夫太郎は眉間に浅く皺を寄せる。

「・・・風呂の世話ってお前、ガキじゃねぇんだからよぉ」
「えー?!良いでしょ!ひとに頭洗って貰うのって気持ち良いじゃない」
「こいつは美容師でも召使でもねぇからなぁ・・・」

男女の差か、感覚の違いか。食い違う兄妹の主張に割って入る彼女は普段通り穏やかだった。

「そんな変なことじゃないし、向こうに発つ前から約束してたことだよ、妓夫太郎くん」
「・・・お前なぁ」
「年に二回、何日もひとりでお留守番してくれてる梅ちゃんに、お詫びとありがとうの気持ち。正直全然足りないくらいだけど」

それを言われてしまうと弱い。年二回の渡欧に際し、梅が文句を言いながらも協力的であることは事実だ。
風呂の世話など何てことは無い。そうして微笑むに対し、妓夫太郎はそれ以上食い下がる術を無くした。

「濡れても良い着替え持ってきてるし、全然大丈夫。むしろ梅ちゃんの綺麗な髪の毛洗わせて貰えるなら役得というか・・・」
「わかってるじゃない。さ、行くわよ子ダヌキ」

引き止める隙も無く、は妹に連れ去られたのだった。




* * *




「ちょっと?!何してんのよぉ!!」

焦った様な妹の声、続いて騒がしい音がリビングにまで漏れ聞こえ、妓夫太郎は居ても立っても居られず湯気の立ち昇る浴室へと駆け込んだ。

すっかり洗髪を済ませ纏め上げた梅は浴槽の中で棒立ちになっており、裸を見た・見られた程度では互いに何ら動揺は無いが、問題は湯船の方である。
薔薇の花が踊る湯に浸り、服を着たままのが見事な尻餅をついていた。

「おい・・・何してんだお前はよぉ」
「ご・・・ごめんなさい。足湯だけお邪魔するつもりが、うっかり・・・」

羞恥にもごもごと口籠もりながら苦笑する、その様子からはどこか痛めた様子は見て取れずひとまず息をつく。
異様な困惑に顔を顰めながらも妓夫太郎はを浴槽から引き上げ、代わりに裸の妹が風邪を引かぬ様湯船へと浸からせた。恐らくこの為に着替えたであろうビッグサイズの黒いTシャツはショートパンツ諸共ずぶ濡れだったが、脱衣所から引っ張り出した一番大きなバスタオルで丸ごと包み、洗い場の椅子に掛けさせた。

「アタシが誘ったの。すごく良い香りだからこのまま一緒に入ればって」
「ううん、浴槽のサイズ的に断らなかった私がいけないの。ごめんね梅ちゃん、どこかぶつけなかった?」
「アタシよりアンタでしょ、もうっ!手ぇ庇った代わりにお尻打ったんじゃないの?」
「あはは、大丈夫大丈夫」

白い湯気と咽返る様な薔薇の香りに翻弄されながらも、状況は少しずつ晴れて来た。約束通り髪と背中を流した後、お役御免と思われたは梅の誘いにより足湯をしようと浴槽に踏み込んだものの、バランスを崩し尻餅をついたのだろう。

「・・・本当にどこも痛めてねぇのかぁ?」
「平気だよ。驚かせちゃってごめんなさい」

妓夫太郎は濡れることも構わず片膝をつき、椅子に縮こまるの前髪を撫ぜた。咄嗟に手を庇ったのは実に彼女らしいが、心配なことには変わりない。
力の抜ける笑みに大きく安堵したのは兄妹共通だった様で、湯舟の中から成り行きを見守っていた梅もまた深く溜息を吐き出していた。

「誘ったのはアタシだけど。普通入るならこっち側でしょ。後ろから来るなんて思ってなかったから・・・」
「そうだよねぇ。何考えてたんだろ、私」

一人で入る分には決して狭くはないが、二人分には適さない浴槽の中、梅が指したのは正面に空いたスペースであり、対してが踏み込んだのは膝を抱える梅の背後だったらしい。想定外の方向からの侵入に梅が狼狽え、それを受けた彼女が更に慌て、そして薔薇だらけの湯舟は大波に荒れたのだろう。

「良い香りで頭ぼーっとしてたのかなぁ。二人で入れるサイズ感じゃないのにねぇ」

照れたようにはにかむの頬が色付く。
ぴちゃりという水音と共に、薔薇の香りが強まった様な気がした。

「・・・」

どう見ても二人用には思えない浴槽に、花弁が浮いているというだけで余裕を錯覚してしまうその理由が。
足湯であろうともがあえて梅の背後から浸かろうとした理由が、妓夫太郎にはわかってしまう。

互いしか知り得ない甘やかな記憶が薔薇の強い香りに揺り起こされ、そして二人は油断した。

「向こうの風呂とは違ぇからなぁ」
「・・・反省してます」

じっとこちらを観察する、梅の目があることを失念した。

「一緒に入ったんだ」

決定的な一言に、二人してぎくりと全身が強張る。

「ウィーンのホテルで、薔薇の花浮かべて、ふたりで一緒にお風呂、入ったんだ。後ろからこうくっついて、二人で、入ったんだ」

一言一句、否定出来ない。

「・・・」
「あ・・・あの、梅ちゃん・・・」
「へぇ。ふーん、そうなんだ」

その声は怒りとも呆れとも呼べず淡々としたものだったが、余計に罪の意識を抉られが見る見る内に小さくなっていくのを横目に、妓夫太郎の焦りは胸の内に感じた理不尽さと拮抗する。

梅は確かに可愛い妹に違いないが、公認のもと交際三年、次の春には結婚を約束した間柄で、果たして自分も彼女も咎められる謂れがあるだろうか、と。これ以上を罪悪感で押し潰さない為、妓夫太郎が飛び火覚悟で異議を口にしかけたその刹那。

「・・・バニラのアイス。コンビニで一番高いやつ」
「えっ?」
「アタシがお風呂から出るまでに準備して」

唐突な要求に、二人して目を丸くする。

「そしたら、機嫌直してあげても良いわ」

ぱちゃりと水面を揺らし、薔薇の香りを堪能しながら梅が足を伸ばす。緊張に縮こまっていたが息を吹き返す、軽やかな音が聞こえた様な気がした。

「わ、わかった!バニラね!二つ?三つ?」
「バカじゃないのそんなに食べないわよ!一緒に食べたいなら好きにすれば」
「ありがとう!急いで行ってくるね!」

最早止める暇も無く、は水を吸ったバスタオルを両肩に巻き付けたまま浴室を飛び出してしまった。まさか濡れ鼠のまま出ていくとは考えにくいが、念の為後を追おうとした妓夫太郎の背後で、再度湯舟がちゃぷんと揺れた。

「適当な恰好で出て行かない様に掴まえて、ちゃんと着替えさせて。ほんとのタヌキみたいにぶるぶる水弾いて飛び出してくのも笑えるけど、風邪ひかせたらアタシのせいになっちゃうし」
「・・・お前」

両手で湯を掬い上げるその笑みは優しい。茶番であったと察するには十分過ぎる表情だった。

「アタシこれから優雅なお風呂タイムなの。ゆっくりしたいから、後はよろしくね」
「・・・おぉ」

機嫌を直してやっても良い。真に怒気で顔を赤くした妹ならば決して口にしない台詞だ。妓夫太郎は緩く苦笑を浮かべて妹に背を向けた。

「お土産ありがと。アタシの好きな良い香り」
「全部あいつが選んだんだよなぁ」
「だと思った」

その声ひとつ、その言葉尻ひとつ。例え記憶は無くとも梅がを心から好いていることなど、確認するまでもなくわかる。
バタバタと慌ただしく走り回る音がリビングから漏れ伝い、兄妹は同時に小さく笑った。

「ほんっと、おバカな子ダヌキ」

もうじき家族になる彼女に妹が向けた言葉は、表現はどうあれ途方も無く愛情に満ちた声色をしていた。

「あっそうだ!アタシにはガキじゃないんだからとか言って、お兄ちゃんだってお風呂で世話焼かれてたんじゃないの?ねぇっ!ちょっと!」

足を拭く最中、思い出したかの様に背後から追い縋る声。そっちか、と妓夫太郎は頬を引き攣らせる。

「心外だよなぁ。俺は自分で洗ったからなぁ」
「じゃあ子ダヌキのは洗ったってこと?!ねえ!ずるいんだけど!!アタシもさっき洗いっこすれば良かったぁ!!」
「あー、そういう意味じゃねぇんだが・・・まぁ、俺はひとまず掴まえて来るからなぁ」

真相がどうあれ、こうなるとまともに聞きはしない。余計な火に油を注ぐまいと肩を竦め、妓夫太郎は脱衣所を後にする。

春から先も、家族の形は円満だ。
妓夫太郎は乾いたバスタオルを両手に広げ、標的を背後から捕獲する。
その表情が如何に優しく満ち足りたものか、彼自身もまたそれを知らない。


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