異国の地にて問う



※ご注意ください
直接R18表現は出てきませんが、間接的に夜の話に触れる内容です。
苦手な方は閲覧をお控えください。



は考えつく限り最上級の礼を、ドイツ語で懸命に並べ立てた。電話の向こうからは穏やかな笑い声と優しい祝福の言葉が返って来る。正直なところ、何度礼を尽くしても足りることは無いだろう。際限無く続く流れは向こう側からやんわりと打ち切られ、は最後にもう一度礼を述べると誰もいない壁に向かって深く頭を下げた。

通話が切れたことにより、意識が現実から夢へと押し出される心地がする。未だぼんやりとした目でが振り返ると、すぐ近くから妓夫太郎が様子を伺っていた。

「・・・何て」
「に、日本人はお礼ばっかりねって」
「まぁ・・・十秒に一回礼を繰り返してりゃあ、そうも言われるだろうなぁ」

時刻は夜の八時を過ぎた。ここはチェックインを済ませたばかりの宿泊先だ。

「だってこの部屋は今日の内にお礼言わなきゃだよ・・・」

の呆然とした呟きが、広過ぎる部屋にぽつりと響いた。

年に二回の渡欧の際は、スポンサーであるマダムの決めた宿泊先で世話になる。二日目以降は観光先に近い一般的な宿が用意されるが、演奏会を終えた初日は少々良い宿泊先を案内されることが通例となっていた。
そして今宵ふたりは、古くは城だった建物を改装した名門ホテルを前に固まり、漸く中へ踏み込めたかと思えば、何の冗談かと思う様なグレードの高い部屋へ通されてしまった。どう考えても普通の音大生が泊まれる部屋でも無ければ、すんなりと世話になって良い額でも無い筈だ。広過ぎるリビングスペースの片隅で縮こまったからの電話を受け、招待主は普段通りの大らかな口調で笑って告げた。少し遅れた婚約祝いだと。

まるで宮殿の様な内装に目を回しながらも、がふらふらと近付けば容易く最愛の両腕は差し出された。当然の様に受け止めてくれる体温は今日も優しい。鼻からいっぱいに大好きな匂いを吸い込み、の口端が多幸感に緩んだ。

「妓夫太郎くんと一緒じゃなかったら、夢かと思っちゃう。映画の中みたい・・・はぁ。感激」

瞳を閉じて感じ入る様な呟きに対し、薄い忍笑いが降ってくる。

「感極まるのはまだ早ぇかもなぁ」
「え?」

背中に回った腕は、その気になれば簡単に振り解けるだろう。しかしそれをしない妓夫太郎と絡まり合ったまま、は一歩一歩目的地へと誘われていく。器用に後退しながら辿り着いた先で、妓夫太郎が新たな扉を押し開いた。

「お前が必死で電話してる間になぁ、見つけちまったんだが」

は思わず言葉を無くした。
白い大理石で統一されたバスルームは尋常ではない広さを誇り、これまたどう考えてもひとり用ではないバスタブの傍には陶器に詰められた薔薇が存在感を放っている。感動と興奮で叫び出したい程の光景だった。
依然として抱き合ったまま呆然と目を見開くの頭に、そっと大きな手が乗せられる。

「疲れたろ。ゆっくり入って来いよなぁ」

至近距離で見下ろしてくる薄い笑みは、堪らなく優しい。労りの言葉も、髪を撫でる手も、これ以上無いほどに優しい。こんなにも大事に扱われ、満足出来ない様ではどうかしている。頭の中ではそう理解しながらも、は妓夫太郎の背中に回した腕に小さく力を込めた。

「妓夫太郎くん。薔薇風呂は、嫌い・・・?」
「あぁ?別に、好きにしろよなぁ。俺は後から入れりゃ何でも、」
「そ、そうじゃなくて・・・」

世界中の何処より安全な腕の中、心臓が早鐘を打つほどに緊張感が高まる。

「一緒じゃ・・・だめ、かな・・・?」

絞り出した声が、妙に響いた。耳が痛くなるほどの空白で時間感覚が狂う。妓夫太郎の表情が時を追う毎に渋くなっていく経過を、は祈る様な思いで見上げ続けた。

「・・・お前、それは、」
「わ、私は・・・一緒に入れたら、嬉しい。もし、妓夫太郎くんが、嫌じゃなければの話だけど」

ほんの数秒の沈黙が、気の遠くなる様な永遠にすら感じられる焦燥感。息を詰めて答えを待つに齎されたのは、浅い溜息と逸らされた視線だった。

「・・・湯船張っとく。先、身体洗って来いよなぁ」

やんわりと解かれた抱擁の末、バスタブに近付いていく妓夫太郎の背中は振り返らない。

「・・・入れ違いに俺も行く」

答えはイエスだ。
硬直した身体中に血液が巡っていくような安堵と新たな緊張に、は何度も頷いた末に慌てて支度を始めた。



交際三年、互いの家族にも顔合わせは済み、次の春には結婚が決まっている。


身体の関係は、未だ無い。




* * *




赤と桃の美しい色合いが湯面いっぱいに遊んでいる。触り心地も良く広い大理石のバスタブで薔薇の香りに包まれ、遠い異国の名門ホテルで寛ぐとは、本来であれば夢見心地の体験である筈だ。

「・・・」

緊張と、不安と、僅かな期待を抱いてしまうことへの罪悪感。それらが身体の最奥で渦を巻く感覚はリラックスとは縁遠く、は広いバスタブの中裸の膝を抱え直した。

ウィーンへの招待は今回で六度目だ。部屋が別々だったのは最初の一度きり、恋人であると直接伝わってからはひと部屋の予約が常となり、ダブルベッドとシングル二台の率は半々といったところだった。
毎日の様に隣り合いピアノの練習に明け暮れている合間、手も繋ぐし抱き合いもする。キスもする。深いそれも経験がある。しかし、それ以上先へは未だ進んだことが無い。旅行先で同じベッドへ横になって尚、溜息混じりの温かな抱擁が終着点である現実を不満とは呼べない。しかし、それ以上を求めていないと言えば嘘になる。
紛れも無く、愛されている。宝物の様に大事に守られている。その優しい手に触れられる度、幸福を感じなかったことなど一度も無い。にも関わらず先を望んでしまうことは、罪だろうか。

鳴り続けていた水音が止み、は我に返った。シャワーブースの開閉音、濡れたタイルを踏む足音、近付いて来る気配。ごくりと唾を飲んでしまう様な緊迫感を押し殺し、気軽に声をかけようと考えれば考えるほど、の目線は揺蕩う薔薇の花弁に固定されてしまう。誘ったのも先を望んだのも自分だ。しかし経験の無いことへの動揺は避けられない。どうしたものかと頭を極限まで悩ませるその刹那、遂に待ち人はバスタブへと足を踏み込み、そしてーーー膝を抱えるの背後から、同じ様に腰を落ち着けた。

ちゃぷ、と湯面が揺れる。
薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
不思議なことに、背を守る様に掛けた妓夫太郎の手が視界に入ったその瞬間、の緊張はゆるりと解けた。
大好きで、ピアニストとして憧れで、そして幾度も触れ合った手だ。

「・・・本当に、映画みたいだよねぇ」
「そりゃあ、これだけ広けりゃなぁ」

声が独特に響く。バスルームなのだから当たり前だが、そんなことすら新鮮で嬉しい。漸く薔薇風呂本来の癒され方を学んだかの様には深呼吸をして、自然な流れで傍らに寄り添うなり目を丸くする。
バスタブの縁に沿った妓夫太郎の腕は、シャワーを浴びたばかりとはとても思えないほど冷え切っていた。

「・・・妓夫太郎くん、身体が・・・」
「・・・」
「え?シャワー、ちゃんとお湯出たよね?」

ぺたりと触れば、長く湯に浸かった手との温度差が歴然となった。思わぬ事態への追及に振り返りかけたの頭は、前を向けと片手で容易く正面へ戻されてしまう。

「んなことよりも、沁みたろ。踵はもう痛くねぇのかぁ」
「踵?」
「・・・靴擦れしたよなぁ」
「・・・あっ」

それはやや強引な話の逸らし方だった。しかし、流されまいと踏ん張るには些か弱い。何しろ、特大の負い目にして落とし穴だ。は瞬間何のことかと惚けそうになった己を恥じる様に目を泳がせ、意味も無く薔薇の花弁を掬い上げた。

「そう、だよね」
「・・・おい」
「あー・・・忘れてる間に、慣れちゃったみたい」

合わないハイヒールであれほど派手にずる剥けた踵を濡らして、痛みを感じない筈が無い。にも関わらず、今この瞬間まで忘却の彼方へ押し遣れていた理由とは何か。痛みを忘れるほどの緊張の根源とは何か。
一気に分が悪くなったに対し、妓夫太郎が眉間に皺を寄せる様が直接確認せずとも見える様だった。

「・・・お前、やっぱ無理して、」
「してないよっ・・・!」

呆れか、気遣いか、それとも距離感か。どちらにしても遠去かることを引き留めたい一心で、は冷たい腕にひしとしがみ付く。
薔薇の花弁が大きく揺れた。

「わ、私が、こうしたかったの」
「・・・」
「妓夫太郎くんと一緒に、お風呂入りたかった。ずっと、こういう日が来たら良いなぁって・・・思ってた」

相変わらず振り返れもしないが、震えそうになる語尾を懸命に堪える。結果がどうあれ今を逃せばきっと後悔する。にはその確信があった。

「ごめんなさい。あの、強引に誘っちゃって。こんなにすごい部屋に泊まれること、滅多に無いし、その・・・」

部屋の豪華さを盾にすべきではない。は小さく頭を振り、妓夫太郎の腕を温めようと湯船の中へ沈めた。おずおずと絡めた指は繋ぎ返され、ぴたりと隙間なく合わさった証が小さな泡となって浮かび上がる。勇気を貰えた様な感覚に、は細く息を吸った。

「・・・はしたないって思われるかもしれないけど。私は・・・妓夫太郎くんが大好きだから、そうなりたいと思ってる。でも、タイミングも、そもそもどうするかも、私ひとりで決めることじゃないとも思ってるから・・・」

最初は音を通じて分かりあった。次第に心で繋がりあった。年月が経つ毎に先を願うことはにとって自然なことだったが、無理強いすべきことでもないと理解をしていた。デリケートな関係性に決まったモデルケースは無い。色々な音がある様に色々な在り方がある。ただ、話をしないことには何もわからない。

「駄目ならそれでも良いの・・・妓夫太郎くんの正直な気持ち、聞きたいなと思って」

触れ合いたい。少しでも隙間無く、歩み寄りたい。理由があるなら知りたい。わかりたい。
祈る様な空白は湿った靄に覆われ、やがて妓夫太郎の溜息へと変わった。

「・・・不安の元凶が、こんなところにいやがったとはなぁ」
「え・・・?」
「いや、俺の方こそ悪かったなぁって話だ」

湯の中で繋いだ手を解かれる。
目を見張る様な不安は、しかし次の瞬間、背後からの抱擁によって掻き消された。

「・・・欲しくねぇ筈が、無ぇんだよなぁ」

耳許に囁かれた掠れた声は、確かに燻る様な熱を帯びていた。それがぞくりと心拍を荒げると同時に、歓喜の波で眩暈がする。

「これまでも機会はあった。その度に考えもした。正直今も心底ぐらついてる」

同じアメニティを使ったであろう濡れ髪から、雫が滴る。優しい檻に閉じ込められながら初めて耳にする妓夫太郎の本音は、狂おしく胸に迫る音がした。

「ただ・・・お前を、万一傷つけちまったらと思うとなぁ」

随分と前からわかっていた筈のことであったが、彼は優しい。は堪らない思いに頬を緩めながら、そっとその腕に指先で触れた。

「・・・大切に考えてくれて、ありがとう」

欲しくない筈が無い。
その熱に、どれ程喜びを感じたことか。

傷つけたくない。
その優しさに、どれ程温かな思いがしたことか。

「生まれて初めてが、世界でいちばん大好きなひとなんだから。私、傷付いたりしないよ」

好きで好きで堪らない。先を欲する気持ちは一方通行でなかった現実が、幸福でどうにかなってしまいそうだ。

「本当に・・・良いんだな」
「うん。嬉しい」

背後からしっかりと抱き寄せられ、温かな湯船と咽帰る薔薇の香りに酔いしれる。一線を越えることを確認しあった今、これまでよりも更に近くに互いを感じ、甘やかな思いで胸がいっぱいだ。

「その・・・出来れば、ベッドが良いなとは思うけど」
「おい。当たり前なんだよなぁ」

空気がゆらぎ、多少の緊張感はそのままに普段通りのやり取りが戻って来る。不意には思い出したかの様に妓夫太郎の腕へと湯を掬いかけた。

「でも、上がるなら妓夫太郎くんしっかり身体温めてからじゃないと。冷たいままじゃ風邪引いちゃう」
「・・・頭から水被ったからなぁ」
「やっぱり。もう、こんな真冬にそんなことして何かあったら・・・」

何か、あったなら。
遂に防がれることなく振り返った先、改めて視線が絡むことではそれ以上の言葉を失った。

「・・・お前の意思を確認する前に、何かあったら困るだろうが」

滴る水をそのままに、何とも言えない顔で頭を冷やす必要があったと告げる青い瞳。鼻先が触れ合いそうになる距離感で曝け出されたその色の奥に、偽り無い誠意がはっきりと浮かんでいるのがわかる。それは、胸に迫る愛おしさを伴った。

この先もずっと、このひとの傍にいたい。
心の底から改めて湧き出た強い思いに、の表情が柔らかく綻ぶ。

「・・・責任、とるよ」
「うるせ、ばぁか」

小突く様に軽く湯をかけられ、二人して微かに笑い合う声がバスルームに響いた。


それは忘れ得ぬ、優しい夜のはじまり。


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