何度でも





挿絵版
お世話になっております鳩ぽっぽさんより素敵な挿絵をいただきました!
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「靴が合ってねぇんだよなぁ」

鋭い指摘だった。ひりつく爪先の痛みと連動するかの様に心音が跳ね、は完全に遅れを取ってしまう。

「そ、そんなことないよ。いつもと一緒」
「誤魔化されねぇからなぁ。高さが違ぇことくらいわかる」

ぽんと頭に手を置かれるが、今に限ってはそれが甘やかしではなく、見抜いているぞと釘を刺されているのだと痛いほどにわかる。
ドイツ語が飛び交うサロンの中、母国語で落ち着かない気分にさせられるのは何故なのか。

「まぁ良いけどなぁ。足痛ぇんだろ。何か取ってきてやるから、座って靴脱いで待ってろよなぁ」

そうして背を向けたパートナーが人の波に消える。演奏中は何とか乗り切れたものの、彼の言う通り普段より確実に高いヒールは足に優しくは無かった。大人しく掛けて恐る恐る足を浮かせば、ストッキングの下で完全にずれたであろう皮の痛みに眉を顰め。そしては、目の前を通り過ぎる美女達に目を奪われては物憂げな溜息を漏らすのだった。




* * *




大学四年、冬。楽団への就職も決まり、六度目の渡欧は順風満帆な旅路だった。
すっかり慣れ親しんだドイツ語、馴染みの増えたサロンの顔触れ、学生で無くなっても変わらずの招待を約束してくれたマダム。どこを見渡しても音楽で満ちたウィーンは、何度訪れても素晴らしい街だ。今日もまた主催のリクエスト通りの連弾で、実に気持ち良くピアノを唄わせることが出来た様に思う。
恵まれた環境、完璧過ぎるパートナー。何ひとつ暗雲など立ち込める要素は無い筈が、は今理解の追いつかない焦りに心を揺らしていた。

「・・・」

右を見れば美女、左を見れば更に美女。ふと目が合った顔見知りの美しい集団から親しげに手を振られ、はにこりと微笑みながら堪らず席を立ってしまった。
合わないハイヒールに再度押し込まれ、脆弱な爪先が悲鳴を上げたが構ってはいられない。なかなか戻ってこないパートナーを探すべく、頼りない足取りで人の波間を揺蕩う。
背の高い群衆は皆例外無く紳士的だ。誰も彼も道をあけてくれる親切さは、まるで幼い子どもを相手にした時のようなそれで--負の連鎖に陥るものかと踏ん張ったその刹那、彼女は探しびとの横顔を見つけ足を止めた。

音大入学当初より徐々に改善されてきた猫背と、嫌々ながら従っているドレスコードにより、彼本来の背丈が活きる。
すらりとした細身、四年間隣にいても惚れ惚れとしてしまう気怠げな雰囲気は、日本人でありながらこの群衆の中にあってもまるで見劣りがしない。

彼はひとりでは無かった。も見知った女性と向かい合い、会話をしている。
ウィーンの女性はひとりひとりが美しく、実年齢よりも遥かに大人びていた。当然、今彼といる女性も例外では無い。
日本では梅の美貌が突出し過ぎて気にならなかったことが、この国に降り立つと価値観が狂い始めたのはいつの頃からか。
自分が酷く遅れている様な、重たい不安と劣等感に塗り潰されてしまう。

得体の知れない悪寒に彼女が凍り付いた次の瞬間、ブロンドの女性が何かを書き付け彼に手渡した。聞き取れない何事かをにこやかに一言二言囁き、ひらりと手を振って立ち去る。
名刺だろうか、一人残されそれを見下ろす妓夫太郎の横顔が、親しい者しか知らない筈の優しいものに見えてしまった瞬間--ぴしりと音を立てて、の中で何かがひび割れた。

間を置かず目が合ってしまったことは、事故としか言い様が無い。
彼を信じている。それは間違いない。しかし大好きで堪らない筈の青い瞳が、今だけは辛くて仕方が無かった。

「・・・お前、どうしたぁ。足は、」
「平気」

彼女は乾いた笑顔を貼り付け、一番傍にいたい相手に背を向けて早足で人波を縫う。幸い皆親切だ。小柄なが靴音を立てて進めば難無く道をあけてくれる。
群衆の表情が驚きや心配に満ちていることなど気付く余裕も無く、とっくに限界に達した爪先が血の涙を流していることすら無視して、彼女は薄いドレス一枚で真冬のバルコニーへ飛び出した。

「っおい、平気じゃねぇだろうが」

リーチが違う上に合わないハイヒールではどう頑張っても逃げ切れる筈は無い。背後から腕を掴まれ、の悪足掻きは終幕を迎えた。

「・・・は?お前・・・」
「っ・・・平気、だってばぁ」

感情が堰を切る様に零れ落ちる。誤魔化す余地も無いほど大粒の涙で、の視界は何重にもぶれた。肩の震えは寒さか気持ちの昂ぶりか、どちらにせよ妓夫太郎を酷く狼狽えさせた。

「何でまた・・・っくそ、とにかく座れよなぁ」

この寒空では当然先客など無い長椅子へ座らされ、慌ただしく脱がれたジャケットによって包み込まれる。体温の名残と彼の匂いを間近に感じ、は強く鼻を啜った。その拍子にぽろぽろと新たな涙が零れ落ち、更に妓夫太郎が焦る様子が伝わって来たがどうにもならない。

「寒ぃだろうがこれでひとまず我慢しろ。足は・・・あぁ、痛くねぇ筈が無ぇよなぁ、これは」

跪くことも、腿を足置きに差し出すことも、彼は一切躊躇わない。血の滲んだ足を患部を避けた状態でそっと包まれ、その温かさに再度鼻の奥がつんと疼いた。こんなにも尽くされて尚、途方も無い不安に押し潰されそうになるのは何故なのか。

「・・・泣くなよなぁ」

きつく眉間に皺を寄せるその顔が余所見などしている筈が無いと、頭では理解出来ている筈なのに。感情を制御出来ない自分自身の情けなさに、彼を困らせるとわかっていながら涙が溢れて止まらない。

「わ、私、もう次の春で、大学も卒業の年だけど・・・どうしても、こっちの綺麗なひと達と比べたら・・・顔も、体格も、っ子どもみたいって、」
「あぁ?・・・そりゃあ、日本人はそういうもんだろうなぁ」
「ニックネームも、っ親しく呼んで貰えるのは、嬉しいけど・・・ら、ラスカル、だし・・・」

一瞬唖然とした末に、妓夫太郎が深く溜息を吐いた。
梅を連れてここを訪れたのはこの夏のことだ。独特でいてすっかり定着した呼称の“子だぬき”は、しかしこの国には馴染みの無い動物だった様子で。
タヌキとは何か。手軽に調べた末、オー、ラスカル!と声を上げたのは誰だったのか。
それは違う動物だと否定したところで効力を持たず、呆気なくは国民的あらいぐまの名でぬいぐるみの如く可愛がられることとなってしまった。

「・・・そいつは梅のせいだなぁ」
「ち、違っ・・・梅ちゃんのせいじゃ、ない。私も、もうすっかり慣れてる呼ばれ方だし、全然、嫌じゃない筈なのに・・・っ私、こっちに来た途端に変なの・・・焦って、怖くて、どんどん自信が、無くなって・・・」
「・・・何が、そんなに不安なんだぁ?」

理解したいと、足元に跪くその青い瞳が告げている。何とかしてこの涙を止めたいと、真摯に願ってくれていることが痛いほどに伝わってくる。自分の至らなさがもどかしくて堪らず、彼女は強引に涙を止めようと瞼を擦る。目元が熱いのか冷たいのか、それすら曖昧だった。

「ちょっとでも、高いヒールで、背伸びしたくて・・・妓夫太郎くんに、恥ずかしい思いさせたくなくて」
「・・・あぁ?」
「隣にいて、ちゃんと釣り合うような綺麗なひとに、っ近付きたくて。なのに、やっぱり本場のひとには全然勝てる気がしなくて・・・」
「・・・」
「そ、それから、妓夫太郎くんが、私のいないところで優しい顔してたのが、すごく嫌で、っそういう風に思っちゃう心の狭い私も、もう本当に嫌で・・・!大好きな気持ちだけは絶対に負けないのにっ・・・私、それしか無くてっ、全然、大人じゃないよね、こんなの・・・」

制御を失った蛇口の如く、偽りの無い本音が全て吐き出された。みっともなくも、全て。あまりの羞恥に身を屈め顔を覆った両手は、ほんの数秒後に乱暴でない力加減で外されることとなる。

「言いてぇことは、それで全部だな?」
「・・・うん」

気が遠くなる様な気まずい空白を裂いたのは、やはり妓夫太郎の深い溜息だった。彼は半目で宙を睨んだかと思えば、落ち着きかけたとはいえ濡れた目許にぐっと息を詰め。再度白い息が吐き切られると共にそっと足を下ろされた彼女は、左隣に掛け直したパートナーによって抱き寄せられることとなった。

冷気に晒されひんやりとし始めた身体は、しかし彼の首筋に頭を押し付けられる様な密着度によって再度温もりを取り戻す。少しでも熱を逃がさない為か、それとも胸の内を伝える為か。普段より遠慮の無い力加減で横から掻き抱かれ、は目を丸くした。

「恥ずかしいだの、釣り合うだの、勝てねぇだの・・・とんだ見当違いなんだよなぁ。ばぁか」

距離などほぼ無いに等しく直接刻まれる声は、呆れと苛立ちともどかしい思いで綯い交ぜになっていた。
何かを思い出したかの様に、妓夫太郎の手がに被せた上着の内ポケットをまさぐる。外側の腕は決して抱擁が解かれることなく、瞬きしか繰り返せない彼女の手元に小さなカードが差し出された。

「・・・さっきの、名刺?」
「お前が靴擦れしてんのを見たんだと。こっちでも、なるべく足に負担がいかねぇ設計のハイヒール取り扱ってるって・・・まぁ、営業だなぁ」
「・・・営業」

英独併記された名刺には、確かに婦人靴オーダーメイドの業種が刻まれている。
営業。それは恐れていた展開とはまるで真逆を知らしめる、心強い呪文の様だった。

「・・・ふざけんなよなぁ。釣り合う様に必死になってんのは・・・いや、今それは良い」

苛立つ言葉が不意に途切れる。抱擁が僅か緩まると同時に至近距離で射抜かれる青い瞳の熱量に、は思わず息を飲んだ。

「年に二回、片道十二時間もかけて、こんな所で窮屈な恰好して他人に囲まれて、それでも俺がキレずにこうしてんのは・・・一体、誰の為だと思ってんだ」

険しく寄せられた眉、真剣でいて苛立った声。しかしその瞳は、いつだってどこか優しい。
何の為、ではなく、誰の為だと彼は言ってくれた。
胸の奥底に閊えていた棘が溶かされる様な思いに、は呼吸を取り戻す。

四年間、ずっと隣合い歩いてきた。道に迷っても、大事な音が導いてくれる。決して、見失わない。
互いに漸く真正面から向き合えたことを察し、二人の空気が同時に綻んだ。

「もう、変だね私。ちゃんと気持ち通じてるの、わかってる筈なのに・・・。どうしても見劣りしちゃうのはしょうがないとして、もうちょっと、余裕持たなきゃだよね。あれくらいのやきもちは封印出来るように、その・・・」
「そもそも見劣りしてねぇし・・・妬かれる様な覚えは無ぇんだがなぁ」

音も無く、額同士が触れ合った。困った様な視線を間近に交わし合い、そして同時に浅く笑う。

「名刺の裏、見てみろよなぁ」
「え・・・?」
「心配すんな。お前宛だ」

失念していたが、彼にあんな顔をさせた本題だ。
再度高まる緊張感と共に、彼女は恐る恐る名刺を裏返す。
流れる様なドイツ語で書かれたメッセージ。それは。

“可愛いジャパニーズラスカル、素敵なミセスになってね!”

もうじき叶う夢の象徴、そのもので。
あの優しい横顔は、この言葉によって引き出されたものだったという現実の尊さが染み渡る。

「この字面に気が緩んだことを言ってんなら・・・そいつは、お前に向けた顔ってことで勘弁しろよなぁ」
「・・・ごめんなさい。勝手に勘違いして、空回っちゃって」

今度こそ涙の締め括りを拭い去り、は再度名刺の裏に目を落として微笑んだ。

「大好き過ぎるのも困っちゃうね。でも・・・ふふ、この名刺は大切に取っておきたいな」

ミセス謝花になる春は遠くない。
婚約を隠さないことで、遥かウィーンの地で気分が天地ほど上下するだなんて思ってもみなかった。
信じ難い不安から一変して多幸感に包まれる。情緒の不安定さに思わず彼女が笑ってしまった、その時だった。

額を寄せ合う程近かった距離が、不意にゼロになる。
額に押し当てられた柔らかな熱が離れていくまで、果たして何秒かかったのか。
時間感覚すら掴み切れず目を丸くしたは、されるがまま冷えた手に頬を包み込まれてしまう。

「顔や背格好がこっちの女と比べて幼かろうが、あだ名が小動物だろうが、心底どうでも良いんだよなぁ」

多彩な音を奏でる大きな手に包まれ、堪らなく綺麗な青い瞳に優しく見つめられる。
理由もわからない不安や焦燥が、跡形も無く押し流されていく。

「お前じゃねぇなら、何の意味も無ぇ」
「・・・」
「俺にとっちゃ、大事なのはそれだけだ」

途方も無い幸福の甘やかさに、心臓の奥が痺れる。
ずっと隣にいたい。心からの願いをこんなにも肯定して貰えることは、紛れも無い奇跡だ。
彼女は込み上げる思いをそのままに乗せ、ほんの少し肩を竦めて笑った。

「・・・こんな、メイク総崩れの酷い顔でも?」
「自覚無ぇだろうから言うが、お前、化粧しようがしまいが大差無ぇからなぁ」
「ふふ。それってちょっと複雑だよぉ」
「あぁ?褒めてんだろうが」

涙は引いたがメイクは落ちたであろう目尻を柔くなぞられ、小さく笑い合う。
安堵に満たされた直後、サロンの中からピアノの音が響き始めた。
ドリーブのコッペリア、スワニルダの三幕バリエーションだ。

「あ・・・コッペリア。あれ?弦の音もする。珍しいね」

コッペリアはバレエ作品である。
三幕はすれ違った恋人同士が仲直りの末結婚式を挙げるフィナーレだ。
唐突に始まった弦楽器入りの演奏に小首を傾げるだったが、隣にいた妓夫太郎の反応は少し違った。

「・・・面倒なことになったかもなぁ」
「え?」

頬を引き攣らせる彼の視線の向こう側、彼女と目が合ったことで慌ただしく中へと駆け込んでいく楽しげな女性たちの姿があった。

『痴話喧嘩は治まった?』
『良かった!私たちのラスカルは笑顔でいてくれなくちゃ!』
『マリッジブルーは乗り越えられるって教えてあげないとね』

ドイツ語を難なく聞き取れてしまう耳が憎らしいが、いつまでも寒空の下にはいられない。二人は暫し固まった末、同時に顔を見合わせた。

「こ、これがマリッジブルーなのかなぁ?結婚そのものは全然不安じゃないけど・・・」
「知るかよ、俺に聞くなよなぁ」

一足先に立ち上がった妓夫太郎が手を差し伸べる。

「・・・覚悟は出来てんのか」

春が来て家族になっても、数限りなく季節が巡っても。この頼もしさと優しさに、何度だって恋をする。は迷う事なく手を委ねた。

「ひとりじゃないから、大丈夫」

目と目で穏やかに繋がりあうのは、一瞬のこと。
次の瞬間には膝の下から軽々と抱え上げられ、は大いに狼狽えた。

「っえ。妓夫太郎くん、待って」
「二言は聞かねぇからなぁ」
「じ、自分で歩けるよっ・・・!」
「んなずる剥けの足で何言ってんだお前はぁ」

そうして二人は音楽と歓声の渦へと踏み込んでいく。
脱ぎ捨てられたハイヒールが、バルコニーからその背中を見守っていた。


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