ふたりでひとつのお返しを



「しょうがないわよねぇ!!」
「・・・」

腰に手を当て得意げな顔でサラリと髪をなびかせる妹を横目に、妓夫太郎は酷く居心地の悪い思いで棒立ちになっていた。

今日は三月十四日、場所はが一人暮らしをしている部屋の戸口だ。客人を招き入れるなり強引にラッピングを押し付けられたこの部屋の主が呆然としている。妓夫太郎の居心地の悪さの根源がこれだった。
透明なラッピング袋の向こう側、彼女と向かい合っているのはくまのぬいぐるみだ。遡ることひと月前のバレンタインで兄妹宛にと受け取ったエクレアへの返礼に、偶然にも二人でいる時見つけ、梅がこれ以上ぴったりなものは無いと言い切った品だった。

緑の少々困り顔のくまを主体に、白く小柄なくまがくっついている。これが何とも、何が正しい表現か判断しかねる程に――似ている。自分でそう感じるのも奇妙な程に、似ているのだ。
ホワイトデーのお返しにぬいぐるみを選ぶ時点で相当に気恥ずかしいものを、更には説明のつかない感覚で自分たち兄妹が連想されるものをへ贈ることに妓夫太郎は難色を示したが、これと決めた妹の強引さに敵う筈も無く今この場に心許なく佇んでいる。
がどんな反応をするか、妓夫太郎は正直なところ気が気では無い。何故そこまで自信溢れる態度でいられるのか、心底羨ましく思うほどに梅は饒舌だった。

「アタシとお兄ちゃんを一括りにしたアンタへのお返しなんだから、アタシが付いてくることくらいは当然よね。ほぉら、付き合って初めてのホワイトデーなのに残念でした!けどアンタが悪いんだからね子ダヌキ、恨むなら一カ月前のおバカなアンタ自身を、」
「恨む筈無いじゃない・・・!!!」

妓夫太郎の不安がピークに達する頃合いで、その場の空気は決壊した。手に掴んだ贈り物を離さぬまま、が勢いよく梅に抱き着いたのである。それはもう、梅の言葉が半端に消え失せるほど見事な力強い抱擁だった。

「ありがとう!可愛い、最高に可愛い・・・!!大切にするね・・・!!」
「ちょっと、アタシはあげないわよ!離しなさいよぉ!お兄ちゃん何とかして!」
「・・・」

口調自体はきつくとも、彼女からは確認できないであろう梅の表情はそれほど迷惑な色をしていない。何よりが今全身で表現しているものが喜び以外の何物でも無いことが、張り詰めていた不安を緩やかに溶かしていく。
妓夫太郎は漸く安堵の溜息を吐いたのだった。




* * *




とにかくは上機嫌だった。常日頃からにこやかな表情が多いものだが、何をするにも鼻唄を絶やさない程に陽の気に満ちている。
バレンタインにあげた側にも関わらずきっちりとホワイトデーのマカロンを準備した彼女に梅は気分を良くし、至れり尽くせりな待遇で満足した様な顔をして一足先にアルバイトへ発った。

したり顔の梅を並んで見送り、普段通りピアノの練習をするにあたり諸々の片付けをする。その間もラッピングを解かれたぬいぐるみは小さなローテーブルの中央に鎮座し、暇さえあれば新たな主からの寵愛を一身に受け続けている様で、妓夫太郎は思わず苦笑を零した。

「本当にこんなんで喜ぶもんかって、疑ってたんだがなぁ」
「嬉しいなんて言葉じゃ全然追い付かないよ・・・!」

全て杞憂であった証が目の前にある。改めてその両腕で大切にぬいぐるみを抱きかかえるの表情は、紛れも無い喜びに満ちていた。

「この子達に合うお洋服とか選んでみようかなぁ。色違いでお揃いの柄とか・・・あっ、こっちの子はベスト着せて、こっちの子はフリルのエプロンとか、どうかな?」
「お前にやったんだ。好きにしろよなぁ」
「うん、ありがとう!こういうの考えるだけでも楽しい!」

その発案は妓夫太郎ひとりでは考えもしなかった内容に違いなかったが、あれこれと思いを巡らせる黒い瞳が輝く光景はどう考えても尊い。
が喜んでいる。大事なことはそこに尽きる。しみじみとそう実感していた最中だった。

不意に抱き締める腕を強めたが、手元のくまに堪らず口付ける。不可解なひりつきを喉の奥に感じ、妓夫太郎は黙り込んだ。

「最高に可愛い。この子達が今日からうちの子だなんて幸せ」
「・・・」
「ふふっ、もう子どもじゃないのにね。今になってぬいぐるみにキスしたくなる日が来るだなんて、考えてなかったなぁ」

彼女は酷く優しく目を細めて微笑む。妓夫太郎は暫しの沈黙を挟み、唖然としていた我を恥じ入る様に小さく頭を掻き視線を仇から引き剥がした。
騒つく胸の内には無視を決め込む。今日という日の務めはまだ残っているのだから。その手は瞬間宙を泳ぎ、結果的にぬいぐるみを抱くの背を押しながらピアノのもとへ誘うことに成功した。

「・・・謝花くん?」
「お前はそこに座ってろよなぁ」

ピアノの長椅子とは別に設えた一人用の丸椅子。そこに掛ける様促せば、小首を傾げながらもは素直に腰を降ろす。彼女の膝の上のくまと目が合った様な錯覚を覚えつつも、妓夫太郎は溜息交じりに頭を切り替えた。

「まぁ、今日はそっちが本命だからなぁ。こっちはついでみてぇなもんだが」

前もって決めていたことだ。断じて、対抗意識などでは、無い。
やけに広々と感じる鍵盤の上に、大きな左手が静かに乗った。




* * *




シューマン作曲・リスト編曲「献呈」。
の前では弾いたことが無く、これまでも弾き込んだ経験の無い曲だった。

これをお返しの上乗せとして彼女へ贈れと言い出したのは、最近になりピアノへの興味関心が戻りつつある梅だ。
実際に鍵盤に手を触れもしなければ音楽史になど興味も示さないであろう妹が、この曲の背景ーー婚姻前夜にシューマンが花嫁クララに贈った曲ーーを理解した上で推薦したとはとても思えず。大方別名の“君に捧ぐ”から揶揄い半分で閃いたのだろうことは察せたが、どれだけベタな選曲で気が進まずとも、妹の強い願いには逆らえないのだから意味が無い。

愛を主題にした楽曲など星の数ほど存在し、幾度も左側で連弾を繰り返してきた。今更何を気恥ずかしく感じる必要があるのだ。そうして自身を納得させながら演奏を終えた、その刹那。

早足に近付いてきた気配に、振り返る間も無く背後を取られる。覆い被さる様に回された腕、背に感じる温もり、確かな背後からの拘束に、妓夫太郎は目を見開き固まった。

「っ・・・」
「謝花くん」

彼女の感極まった様な吐息が、やけに耳元に近い。心臓の血管が明確に重い音を奏でたその直後、のか細い声が腕の隙間を反響する様に零れ落ちた。

「突然初めての曲は反則だよぉ。沢山連弾してきたのに、まだまだ私、謝花くんの演奏知らないことばっかり。ドキドキ全然止まらないよ。やっぱり私、謝花くんのピアノ、好きだなぁ」

の熱意が完全に音楽へ向いていること。加えて、特に楽曲の背景には執着していないこと。
それなりに気掛かりな二点を通り越し、妓夫太郎は息を吐き出す様にして僅かな笑みを浮かべた。こういう一面を含め、今の彼女なのだ。

「ホワイトデーのお返しにしては、贅沢が過ぎない?耳が幸せ過ぎるよ」
「俺に言わせりゃあ、この程度で喜ぶお前は相当安上がりだけどなぁ」
「そんなことないよ。私にとっては謝花くんの音が何より特別な宝物だもん」

何より、特別。
先程はラッピングを手にしたままの器用な抱擁を目にしたばかりであったが、今背後から閉じ込めてくる二本の手には何ひとつ障害物の気配が無い。
丸椅子の上で留守を任されたであろうぬいぐるみに対し、不必要な悦を感じてしまうことは最早病か。妓夫太郎は僅かな重みの多幸感に目を細め、そっと細い腕に触れた。
ぬいぐるみにキスをする彼女にもやもやとした気持ちを覚えてしまう程度には、実に平和な毎日なのだ。らしくもない気恥ずかしさも、この身には収まり切らない温かさも、何もかも途方も無い奇跡の上に成り立っている。

「俺も、こんな日が来るだなんて考えてなかったからなぁ」
「え?」

若干、気が緩んだ。に対し決して伝わらない真意を覆い隠すべく、妓夫太郎は険しい表情を装い眉間に皺を寄せる。
この体勢ゆえ口元はどうしたって緩みがちになるが、彼女からは見えないのだから良しとする。

「・・・こんなベタな選曲をする日って意味だ。察しろよなぁばぁか」
「ふふ。そっかぁ、私は今、ピアノって楽器にも、シューマンにもリストにも、ホワイトデーにも、今日を形作る全部に感謝の気持ちで一杯だよ」

変わらずは上機嫌だ。音楽への情熱と、生まれ持った柔らかな感性と、そして好意を隠さない声は、すっぽりと包み込んで来る体温に負けず劣らず温かい。

「勿論、梅ちゃんにもあのくまちゃん達にもそうだけど・・・謝花くんに、一番感謝してる」

不意に、彼女の体重が僅か前のめりにかけられた。隣り合うよりずっと近かった距離感が、ほとんど、無くなる。

「ありがとう、だいすき」
「・・・」

耳に直接届いた声が。その甘やかさが。あらゆるものを溶かしていく様な、眩暈にも似た感覚。
これが理性の糸とやらか、と冷静に達観する己が見る見る内に足場を失っていく中、妓夫太郎は懸命に脳内の危うい橋を飛び退いた。

これまでの経験から実に良く理解している筈だ。が次に、何を言い出すのか。

「リストなら愛の夢、シューマンなら庭園のメロディ、謝花くんは今どっちな気分?」

来た。

「その聞き方はどっちも弾きてぇって意味なんだよなぁ」
「ふふっ、やったぁ。流石だねぇ」

愉しさと期待に跳ねる笑い声を耳元に、妓夫太郎は口の端を上げた。
が笑っている。それが何より優先度の高い願いなのだから、これで正解だ。しかし、即座に遠去かり隣へ掛け直すと思われた熱源が、なかなか背から離れて行かない。

「謝花くんの綺麗な音を聞いてると、幸せな気持ちと一緒に弾きたい気持ちが混ざり合って・・・私今、すごく生きてるなぁって感じがするの」

しみじみとした言葉。
生きているという実感。

死物狂いで培った音が、彼女と己を強く繋いでいる現実。それは、これ以上無い誉だということを、どうしたらに伝えられるだろう。

「・・・変かなぁ?」

振り返る様に首を傾ければ、すぐそこにある黒い瞳が優しく微笑みかけてくる。
目と目が合う、ただそれだけのことすら、こんなにも愛おしいのだから。が変だと云うのならば、それはこちらも同じことが云えるのだろう。

「さぁ。どうだろうなぁ」

一拍の間を置いて、二人は至近距離で小さく笑い合う。
やがて窓から注ぐ陽だまりの中で優しい静寂が訪れるまで、戯れの様な触れ合いは続いた。




* * *




「・・・本当にそこに置くのかぁ?」
「えっ?」

楽譜の右横、メトロノームや予備楽譜が置けるスペースを、二匹のくまは次なる台座としたらしい。位置取りとしてはの目の前だ。妓夫太郎からは若干遠い。しかし、視界の端に時折見え隠れする緑と白はどうにも気にかかる。

「だ、駄目・・・?」

気にかかる、が。この目を前にすると、妓夫太郎は圧倒的に弱い。この状況でノーを押し通せる方法など、ある筈が無かった。

「いや・・・まぁ、構わねぇけどよぉ」
「良かった・・・!!なるべく傍に置いておきたくて!!本当に、本っ当に、素敵なプレゼントありがとうね!!」
「・・・」

鼻唄混じりに楽譜を開くを横目に、ちらりとぬいぐるみを見遣る。
此処へ来るまでは若干哀れにさえ思えた困り顔が、妙に得意げな色を醸し出した気がした。




「献呈」を贈られたことにより彼女が内心で踏み出した大きな一歩を、この時の妓夫太郎はまだ知らない。


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