ふたりでひとつのその訳を



齧り付いたエクレアの味の良さに、梅は思わず目を瞬いた。熱い紅茶を準備していた筈が、そのまま二口三口と進み早くも一つ目を納めてしまう。固唾を飲んで凝視するこの作り手を前に、梅は勿体ぶった咳払いをしつつも二つ目に手を伸ばしたのだった。

「・・・なかなかやるじゃない」
「本当?お口にあって良かったぁ」
「良かったなぁ、梅」

兄妹の自宅にがいる光景が馴染む様になり、少し経つ。心底安堵した深い溜息と共にテーブルへ沈む彼女からは、疑い様も無い程に梅への愛情が感じられた。同じテーブルを囲んでいる兄と、それこそ同等に。

「・・・お兄ちゃんの分」
「俺のことは気にすんな、お前が好きなだけ食えよなぁ」

同等。それが問題なのだ。
贈られた小ぶりな箱の中にはエクレアが六本。そこそこに手の込んだ造りである筈のそれを勧めたところで兄はいつもの調子で妹へ譲ってしまう。

「梅ちゃんに喜んでもらえて嬉しいなぁ。上手く出来て本当に良かった」
「・・・」

仮にも交際相手が、自分が手間暇をかけて作ったものを妹に譲ったならどう思うか。梅ならば間違いなく我慢がならないところ、目の前のは相も変わらず呑気な顔をしているではないか。エクレアの二本目を平らげると同時に、梅の中で燻っていた苛立ちが煙を上げ始める。

「・・・バッカじゃないの」
「え?」
「なんでアタシとお兄ちゃんで一括りにしたのって言ってんのよ、おバカな子ダヌキ」

二月十四日。音大の講義が無い為直接遊びに来た彼女は、今日という日の特別な贈り物を妓夫太郎単体ではなく兄妹へと差し出した。二人に、ひと箱。その様なことをして中身をきっちり半分にする兄ではないことを、わかっていても良さそうなものではないか。苛立たしく目を吊り上げる梅に対し、は瞬間ぽかんとした末に慌てて両手を口へと当てがった。

「あっ、ごめんね。まさか梅ちゃんが謝花くんとは別に私の分のチョコ用意してくれるなんて思ってなかったから・・・やっぱり梅ちゃん専用のが欲しかったかな。そりゃそうだよね。考え足りなくてごめんね」
「そう言うなよなぁ、梅。全部食って良いからよぉ」

気にするべき点がずれている。彼女にしても、兄にしても。

「もおおおお!!お兄ちゃんも子ダヌキも変ッ!!なんで付き合って最初のバレンタイン大切にしないのよぉ!!」

怒りのボルテージは一瞬で燃え上がった。文句は直球に限る。しかし肩で息をする梅に対し、妓夫太郎と顔を見合わせた後のが浮かべた表情は酷く穏やかな苦笑一色だった。

「・・・それは、梅ちゃんと比べるのはちょっと違うかなぁって思って、」
「子ダヌキの癖に口答えしないで!生意気よ!」
「ご、ごめんなさい」

彼女が兄の交際相手であることを知っている。梅ですら色々と焦れていた関係性であるし、梅自身珍しい程に初対面からのことを気に入っている。バレンタインの今日、兄とは別にの分を用意してしまう程度には心を許している。二人の関係に文句は無い、憤りも無い。大切にして貰えることは単純に嬉しい。しかし、時と場合によるというものだ。

「・・・梅ぇ」
「アタシ映画観てくる」
「あ、じゃあ一緒に・・・」
「もうっ!それじゃ意味ないじゃない!やっぱりバカ!」

大好きな兄。どこぞの有象無象なら黙ってはいないが、気に入っているがピアノの連弾パートナー以上になってくれたというならば、梅とて嬉しい。付き合って初めてのバレンタインに好んで邪魔者になどなりたくはない。オロオロと眉を下げるの額目掛けて、梅は厳しく指差した。

「いい?アタシが帰ってくるまでの貴重な時間、ピアノの練習で潰したりしたら覚えておきなさいよ!!」
「は、はい・・・」
「・・・夕飯までには帰って来いよなぁ」
「ピザ!時間に合わせて頼んどいて!」
「気をつけてね・・・!!」

こんな態度ですら別れ際まで気遣うの声に、梅は大きく音を立てて叩きつけるつもりだった扉を寸前で引き止め、そっと閉ざす。ひとつ鼻息を荒げ靴音を響かせる梅は、次の瞬間には無意識に二人への土産を考え始めているのだが、それは誰にも伝わらない話だ。




* * *




カチャリと音を立てながら横並びになって洗い物をする。妓夫太郎が自動的に左側を陣取ってしまうことは最早癖か、それはにも同じことが言えるだろうか。三人分のティーセットを大した時間も掛からず洗い終え、ゆっくりと時間をかけて水気を取る。特に会話は無くとも、居心地は悪くない。不意に同じタイミングで目があうと、の方が先に気の抜ける笑みを薄く浮かべた。

「ごめんなさい。私のせいで梅ちゃんに変な気を使わせちゃって」
「お前が謝ることじゃねぇだろうなぁ」

梅はに強く甘えている。それ故時々行き過ぎた当たり方をしてしまうものだが、彼女がそれを許容していることが救いだ。現に理不尽な剣幕よりも気を遣わせたことを憂う瞳は優しい。
何故、付き合って初めてのバレンタインを大切にしないのか。洗い物を終えて考えていたことは同じらしく、が水回りを乾拭きしながら口を開いた。

「その・・・もしかしたら謝花くんは、梅ちゃん以外からのチョコは受け取らないかもって思ったの」
「・・・」
「それに梅ちゃんも、自分以外のひとが謝花くんにチョコ渡すの嫌がるかなぁとか・・・だったら、私からふたり宛にすれば解決かなって、勝手に思ったんだけど」

何を言い出すかと思えば。妓夫太郎は思わず返す言葉を見失う。深く考えることなく受け取ったふたりひと箱にその様な意味があったとは。が、そんなことを考えていたとは。

「ちゃんと、相談すれば良かったかな」

その様に淋しいことを、考えさせていたとは。

「一応、誤解の無ぇように言っとくぞ」

何事も妹に譲り渡してしまうことは根本的に染み付いている習慣だが、今回は意識が欠けていたと妓夫太郎は自身を戒める。梅に気を遣わせたと言うならば、それは決してだけが原因ではないのだ。

「梅に食えって譲ったのは、別にお前のを食いたくねぇ訳じゃ、」
「あっ・・・それはわかってるよ、大丈夫!」

弾かれた様に彼女の目が丸くなり、ひしとその両手が瞬間胸元に飛び付こうとしーー結果、妓夫太郎の服の裾を掴んで落ち着いた。

「梅ちゃん優先なのは当たり前だし、喜んで貰えたのは私もすごく嬉しかったから・・・結果的に謝花くんにも食べて貰えて、私の中では今年のバレンタインは百点満点」
「・・・美味かった」
「ありがと。謝花くんは優しいね」

ありがとうはどちらの台詞か。梅を優先する妓夫太郎を肯定し、味を褒められたことへの礼を口にするの表情は穏やかだ。大抵のことはこの笑顔を見ればどうでも良くなってしまう。
しかし、これは良い機会だろう。今日ばかりは流されそうになる己を律し、妓夫太郎は話を続ける。自分がそうする様に梅を尊重して貰えることは有り難い。“今“のは記憶が無いにも関わらず、あの気難しい妹の総てを許してくれることにも感謝している。けれど、家族でないことを理由に一歩引いて考えることはそろそろ見直して貰いたい。

「梅も俺も基本的に他人を受け付けねぇって想定は外れちゃいねぇが、お前は別枠の人間だってことをわかれよなぁ」
「え・・・?」

今日という日に彼女が用意したものを、受け取らない筈が無い。淋しいことを言わないで欲しい。梅が特別ならば、もまた違った特別であることを、わかって貰いたい。妓夫太郎の手が、服の裾を掴むの手に重なった。

共に進むことを決めたのだ。出来るなら、隣で歩いていきたい。

「他のどいつを跳ね除けようが、お前はとっくにこっち側だからなぁ。除け者みてぇな勘定は、俺も梅も望んじゃいねぇ」

黒い瞳が、丸くなる。言い過ぎたか、伝えたいことは果たして正しく伝わったのか。若干戸惑う妓夫太郎の前でが俯いたかと思えば、華奢な身体が一歩距離を詰めて来た。手と手は裾のあたりで重なり合ったまま、ぴたりと正面から寄り添われてしまう。

「・・・おい」
「ありがとう謝花くん、嬉しい」

一息にそう言い切ったの表情は見えない。けれど、その声から今どんな顔をしているか、手に取るようにわかってしまう。正面から見られないことが残念でならないが、伝わるべきことが通じた安堵に妓夫太郎は苦笑を溢した。

「・・・今更、んなことで喜ぶなよなぁ」
「ごめん、でも嬉しいの」
「梅も言ってただろうがよぉ、俺たちは・・・」

俺たちは。その先の明確な表現が、どうにも気恥ずかしく喉に痞える。胸元に頭を寄せるが、小さく笑った気配がした。

「うん、わかってる。梅ちゃん公認で謝花くんの隣にいられる私は、とっても幸せ者だね」
「・・・わかってねぇんだよなぁ」
「ふふ。わかってますよぉだ」

これに関してはどこまでも並行線だろう。明かせはしないが、何しろ一方的に追いかけた年月が違う。そうして浅く息を吐く妓夫太郎の手が、不意に振り解かれた。おやと目を瞬くは一瞬。次の瞬間には、自由を得た細い両腕に緩く腰回りを取られ、妓夫太郎は幸福な不自由に囚われる。

「はぁ。幸せ」
「・・・お前なぁ」

こちらの台詞だ、と言ったところで通じはしない。相変わらず見えない表情は声からして甘やかさがだだ漏れである上、蕩けそうな溜息の前には全面降伏しか残されていない。緩やかな抱擁は物理的な拘束力には欠けるが効力は抜群だ。どうしたって敵いはしない。妓夫太郎の両手は宙を彷徨った末に、ゆっくりとの背へと添えられた。
もう一度巡り会えたことは奇跡、想いが再度通じたことは更なる奇跡。一体どんな確率の上に成り立ったのか、紛れも無い幸福の波に足をとられ、一歩も動けはしない。
付き合って最初のバレンタイン、という梅の言葉が脳裏に反響し、腕の中にある温かな奇跡に胸の奥が少々騒めく、その刹那。

「ピアノ、本当に弾いたらダメかなぁ」
「・・・」

・・・これだ。妓夫太郎は内心で肩を落としつつも、酷く穏やかな思いで腕の中を見下ろした。上向く黒い瞳が難しい色合を伴い身構えており、少々可笑しい。

「モーツァルトのフィガロの結婚とか、アイネクライネナハトムジークとか。今弾けたらすっごく良い感じだと思うんだけど・・・」

どちらもなかなかにエネルギーが要りそうな楽曲である。幸せと蕩けていたところからどんな経路でそこまでアクティブな計画に至るのか。真相はこの際どうだって構わない。それが今のであるのだし、この状況で却下など出来る筈がないのだから。妓夫太郎は目一杯の溜息を装い、眉を下げて苦笑して見せた。

「・・・しょうがねぇなぁ」
「・・・いいの?」
「梅にバレなけりゃあなぁ」

途端に輝く期待に満ちた瞳。これを一番傍で見続ける為ならば、何だって出来る。二人きりの時間の使い道は、これで良い。

「うん!早めに切り上げる!ありがと!」

興奮に跳ねた勢いでの腕が首元に周り、頬を柔らかな感触が掠める。風の様に練習部屋へ駆け抜ける彼女を目で追い、妓夫太郎は何とも言えない顔で弛みそうになる頬を抑え込んだ。


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