最初の一歩に乾杯





「あっ謝花くん、ストップ、ストップ!」

慌てた様な声の主を、耳だけで判別出来ない筈が無い。
妓夫太郎は瞬間肩を強張らせたが、何事も無く気怠い顔をして遣り過ごすことに成功した。

音大の構内は中途半端な時間故か人気が少ない。入学から一週間足らず、地理を完全に把握するには少々心許ない中立ち寄ったカフェテリアで、に捉まるとは思ってもみなかった。
立場としては『三日前知り合ったばかりの同期生』である筈の彼女は声を上げて小走りに駆け寄ってくる。何の用かと思えば、走り込んだ勢いをそのままに自動販売機へ五百円玉を投入した。妓夫太郎の目の前で全ての商品ランプが点灯する。

「・・・何のつもりだぁ?」
「ご、ごめんなさい。全然大したお礼にはならないんだけど・・・」
「あぁ?礼?」

確かに今硬貨を入れようとしていたことに違いはないが、代金を払わせる理由は無い。そうして怪訝な顔をする妓夫太郎に対し、は申し訳無さそうに眉を下げながら口端を緩めて見せた。

「謝花くんのお陰でアンサンブルの課題仕上がったし、良い演奏が出来て嬉しかったから。飲み物代じゃ全然足りないのはわかってるけど、ありがとうの気持ち」

入学早々外見を理由にクラス中から遠巻きにされていた妓夫太郎は、ただひとり気にすることなく熱心に楽譜を選んでいたとペアを組むこととなり課題に取り組んだ。
ほぼ面識の無い新入生同士、即席ペアが限られた時間内で初見の連弾をどこまで精度良く弾きこなせるか。成程、課題の趣旨としては満点以上の成果を叩き出せたことをは喜んでいるのだろう。

しかし、この気遣いは無用だ。妓夫太郎の手は迷うことなく返金レバーを下げた。

「あっ、そんな」
「余計なことすんなよなぁ」

戻ってきた五百円玉を突き返せば、彼女は見るからに気落ちした表情で俯いてしまった。
胸の奥で嫌な音がする。にこんな顔をさせたい訳ではない。最早根から染み付いて今更覆せない価値観が、妓夫太郎に次の言葉を紡がせた。

「んなことしてたら、きりが無ぇだろうが」
「・・・え?」

改めて百円玉を入れ、一番安い缶コーヒーを買う。意図を汲み取ろうと目を丸くする彼女を横目に見遣り、妓夫太郎は居心地悪そうに頭を掻いた。

こうしてが傍にいることは未だ慣れない。夢にまで見た現実は真相を明かせない故にもどかしいが、彼女に記憶が無いことはとっくに納得済でここまで足掻いてきた。の為なら何でもする。その為に出遅れたスタートながら死に物狂いでここまで来たのだ。一度連弾を成功させた程度でコーヒーを奢らせてどうする。

「くるみ割りの組曲制覇するっつったのはどこのどいつだよ」
「謝花くん、また一緒に弾いてくれるの・・・?」

想定外の答えに、妓夫太郎の時間が止まる。

チャイコフスキーのバレエ音楽くるみ割り人形、行進曲。は自身の選んだ楽曲の出来栄えに目を輝かせ、妓夫太郎との連弾を大層喜んだ。時間が限られている為今は行進曲しか出来ないが、他にもある組曲を制覇したいと熱く語られたことは記憶に新しい。

当然の如く他の曲も隣で弾く気になっていた自身と、彼女の認識の違いに気付き、数秒。
急速に込み上げる羞恥に勢いよく踵を返そうとした妓夫太郎であったが、空気を察知したの方が一枚上手だった。逃がさないと言わんばかりに飛びつき腕と腕が絡まり合い、妓夫太郎は今度こそ見事固まる羽目となる。

「謝花くん待って、待って!」
「っおい・・・!」
「嬉しい!謝花くんと弾けたら良いなと思ってたの!ただ強引にお願いしちゃったら迷惑かなって思って、それで・・・!」
「おい、わかった、わかったからよぉ・・・!」

距離が近い。しかし、懸命に捲し立てる相手に離れろとは言い難い。
困惑の理由は流石に伝わったのか、はっとした彼女は一歩引き小さくごめんと呟いた。
参った。この状況で言葉途中のを置いては立ち去れない。何より、彼女の黒い瞳が逃げないでと強く物語るのだ。妓夫太郎は一歩も動けはしない。

「あのね、連弾でこんなに楽しくてワクワクした気持ちになったのは、謝花くんが初めて。くるみ割り人形だけじゃなくて他にも沢山、謝花くんと演奏したらどんなに素敵かなって曲を考え出すと止まらないの」

手放しに称える言葉には慣れていないが、の言葉なら撥ね付けず飲み込める。
今の彼女は本当にピアノが好きなのだろう。並大抵の努力では無かったが、ここまで追い付けたことが報われる様な思いに妓夫太郎は小さく眉間に力を入れた。

「もし謝花くんが迷惑じゃないなら、今期のアンサンブルのクラス、私のパートナーになって貰えない、かな・・・」
「・・・」
「その、出来れば空いてる時間とか、余裕のある時だけで良いから、練習に付き合って貰えると、とっても嬉しい。謝花くんのピアノ、もっと色々聞いてみたいし、合わせてみたいし・・・」

の緊張が伝わってくる様だった。
逃げ出そうとしたことからの出来過ぎた展開に気持ちが怖気づく。しかし、何の為にここまで来たのかと己を叱咤し、妓夫太郎は開けるタイミングを失った缶コーヒーを握り締めた。

「・・・好きにしろよなぁ」

掠れた声が届き、が無言で瞬きを繰り返す空白の時間が異様に長い。頭の中で良い返事を貰えたことを整理出来たのだろう。彼女が徐々に笑顔を取り戻す過程を、妓夫太郎は正面から眩しい思いで見守った。

「あの、本当に私の好きにしていいの?私、集中すると周りが見えないから、練習始めたらすぐには帰してあげられないよ。本当に謝花くんの音が好きだから、クラス外でも沢山呼び出したりしちゃうかも」
「ごちゃごちゃ長ぇんだよなぁ・・・だから、必要な時に呼べって言ってんだ」

何もかも、願っているのはこちらの方だ。
一本集中した際ののめり込み方も知っているし、何の為に今ここに立っていると思っているのだ。
全て明かせないが、それで構わない。もう一度傍にいられるなら、それだけで。

「・・・ありがとう、謝花くん。お言葉に甘えさせて貰うね」

待ち望んだ笑顔が花開く。その台詞は果たしてどちらのものか。何とも言えず曖昧に目を細める妓夫太郎を前に、は差し戻された小銭でいそいそと同じ缶コーヒーを買った。細い指でプルタブを開け、明るい笑顔が妓夫太郎に向かって乾杯を促す。

「これから、よろしくお願いします」

スタートラインの祝杯に、安い缶コーヒー。何だって良い。がいる、それだけで完璧だ。
妓夫太郎は気怠い表情を装いながら、漸く缶コーヒーを開けたのだった。


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