物語は始まった



「もお!ピアノなんかやめる!」

フリルのボリュームによって足元が疎かになる様なピンクのドレスを揺らし、梅がそう言い放った。
元より誰も敵わぬ愛らしさに発表会仕様の装いは大変映えたが、本人が目をつりあげていては台無しだ。出番を終えた後のロビーは梅の金切り声以外、厚い扉の向こうから微かにホールの音が漏れ聞こえる程度の静けさしか無い。

僅かなピアノの音さえ勘に触ると怒りに震える梅の傍へ、長身の男が屈み込んだ。
にこやかに穏やかに、虹色の瞳を細め甘い声で宥めにかかる。

「上手に弾けてたじゃないか。やめてしまうなんて勿体ないよ」
「嫌よ!やめるったらやめるの!もう飽きたの!」
「おいおい。良いピアノも練習部屋も新調したばかりだぜ。困ったお姫様だなぁ」

血縁は無い。ただ、施設から兄妹を引き取った保護者にあたる男だ。
優しいが捉え所がなく、兄妹を適度に放任し適度に構うスタイルで養育している。妓夫太郎が中学に上がった最近では仕事の関係で家に戻らないことも増えてきたが、発表会ならばと嬉々として梅の衣装をオーダーする程には愛がある様だ。
多額をかけた練習環境が無駄になる、そう言いつつもどこか執着の無さそうな目で苦笑を浮かべていた童磨が、背後を振り返る。

「君からも、何とか言ってあげておくれよ」

妓夫太郎は黙って成り行きを見守っていた。童磨は知らないことであろうが、梅は発表会用の曲を直前でひとつ減らしたのだ。
ショパンのワルツ第六番。二曲の内どうしてもこれを弾きこなせず、泣く泣く諦めた妹の悔しさを妓夫太郎は知っている。出番を終えて暫くは大人しく客席にいた筈が突如癇癪を起した理由も、別の参加者が件の曲を易々と弾きこなしたことに起因している。
妹は既に十分頑張った。向上心より苛立ちが上回ると言うなら引き止める理由も無い。

「・・・梅が好きなようにすりゃあ良いんじゃねぇのかぁ」
「さっすがお兄ちゃん!大好き!」
「ははは、君たちには参ったなぁ」

習い事への固執よりも梅が笑っていることの方が余程大事だ。兄を味方につけ機嫌を良くした梅を先頭に、三人はホールの中へと戻る。丁度前の演奏者が出番を終え、ステージ上には誰もいないタイミングだった。

先ほどまでの席へ戻ろうとした次の瞬間、妓夫太郎の足が止まる。

「お兄ちゃん?どうしたの?」

客席通路の階段で、先を行く梅が不思議そうに振り返る。

「・・・妓夫太郎?」

後ろで閊えた童磨もまた小首を傾げているのがわかったが、妓夫太郎の足はぴくりとも動かなくなった。

ステージの照明に導かれ、次の演奏者が現れる。淡い水色のドレスに身を包んだそのひとが、客席に向かって一礼をする。間に立つ梅すら視界に入らない。ただ、ステージ上に立つ彼女だけが、妓夫太郎の視線を釘付けにする。

見つけた。
己だけが以前の記憶を引き継いだ奇妙な人生の中、何処かにいるのではないかと夢見ていたひと。過酷な環境下でただひとり、兄妹の傍にいてくれた幼馴染。彼女を喪った恨みも憎しみも悲しみも、何一つ忘れてはいない。

心臓が張り裂けそうに痛い。酸素が異様に薄く呼吸が浅くなる。耳鳴りが轟音の様に響き眩暈がする。
それでも、目だけは離せない。

「――」


忘れる筈の無い彼女の名は、あまりの動揺で喉に貼り付き声にはならなかった。




* * *




陽が沈み始めて尚、妓夫太郎は電気を点けることなく自室の隅で項垂れていた。
何度か梅が部屋の前で呼びかけて来たものだが、今日ばかりはまともな返答が返せず今に至る。

頭の中で、ショパンのノクターン第二番が響き続けている。
音楽に詳しくはない妓夫太郎ですら知っていた筈のその曲は、が弾いたというだけでこれまで聞いたことの無い様な澄んだ調べがした。

妓夫太郎が今日理解したことはふたつだ。
ひとつ、は今日集った参加者の中で誰より美しく、誰より輝いた音を響かせる演奏者である。
ふたつ、は妓夫太郎を覚えていない。

彼女は個人で一曲、続けて現れた年配の女性と連弾を一曲、計二曲で出番を終えた。結局最後まで通路に立ったまま動けずにいた妓夫太郎は、演奏を終えて一礼をしたステージ上のと明確に目を合わす機会を得た。
内臓が出てしまうのではないかと錯覚する程の緊張を忘れない。瞬間不思議そうな顔をした彼女から、静かに目を逸らされた時の気持ちを忘れられない。

一体何を期待していたと言うのか。生まれるより前の記憶など、誰もが持ち合わせている筈が無いと、理解していたのではなかったか。
大切な梅と兄妹関係を引き継ぎ、まで同じ時代にもう一度存在を確認出来た。それだけで十分過ぎる程の奇跡を、何故落胆する必要があるのか。

妓夫太郎が硬く拳を握り締めたその時、部屋の扉が静かに開き、再び閉ざされる音がした。
保護者たる男は隣に胡座をかき、のんびりと笑みを浮かべている。部屋は西日が差し込んだままだった。

「いやはや、強烈な一日だったねぇ」
「・・・何が」
「強烈な一目惚れ。違うかい?」
「・・・」
「あぁ、大丈夫。梅は上手に誤魔化しておいたよ」

妹のことはともかくとして、見方によってはそう捉えられるかと妓夫太郎はますます項垂れた。
単なる一目惚れだったならどんなに良かっただろう。傍にいる幸福も喪う辛さも、全部一度知っているからこそ厄介なのだ。

「だんまりでも俺は別に困らないけど。どうしたいのか、男同士ちゃあんと話し合えば、拓ける道もあるかもしれないぜ?」

道が拓ける。
安易に前向きな言葉は毒だとわかっていながら、そこには飛び付きたい程の魅力があった。
妓夫太郎は恐る恐る顔を上げ、口を開き息を吸いこみ、そして。

「・・・どうすりゃあ良いか、教えて欲しいのは俺の方なんだよなぁ」

絞り出した声は酷く情けない。妓夫太郎は歯を食い縛り俯いた。
話せば叶うかもしれないなど、軽率に可能性をちらつかせないで欲しい。こんなにも現実離れした話を出来る筈が無い。
もう一度見つけてしまった光が悲しくなる程遠い。この苦しさを、永劫誰とも分かち合う気は無い。

「ははは、成程。思ってた以上に重症だ」

朗らかな笑い声は普段通りのものだったが、虹色の瞳は思慮深く妓夫太郎を見つめている。ほんの瞬間、静寂が薄暗い部屋を満たした。

「俺が感じたことを正直に言うよ。あのお嬢さんは住む世界が違うとまでは言わないが・・・進む方向は、このままだと君とは大きく異なるだろうね」

進む道が、大きく異なる。
その意味がわからない妓夫太郎では無かったが、改めて他人の言葉で突き付けられることで厳しい現実を痛感する。

「結構大きな発表会だったからねぇ。順番も最後の方を任せられるくらいだ、本部の先生に師事している子で間違いないし、将来は音楽の道を生きていくんだろう。妓夫太郎とそう変わらない年頃に見えたけど、大人にも負けないくらい上手だったしねぇ」

今のは音楽の道を歩んでいる。通うも辞めるも気分次第の習い事ではなく、真剣に音楽家を志している。
僅か二曲の演奏から、妓夫太郎にもはっきりと感じ取れたことだった。そしてそれは、彼女にとって叶わぬ夢ではないのだろう。
目指すことへの努力は欠かさない、変わらぬ堅実さを懐古するだけで胸が熱くなった。

だからこそ、わかることもある。進む先が大きく異なる、その意味だ。

「ちょっとでも近付く為には、ピアノが弾けないとお話にならないだろうねぇ。同じ門下を目指すにしたって、多分師事している相手は素人じゃ教われない。そうこうしている内にお嬢さんは音大生になって大人になって、ゆくゆくは海外へ行ってしまうかもしれないね」
「・・・」
「十三歳でろくにピアノに触ったことも無い君が、今から急いで彼女を追い掛けるのは、正直現実的な話じゃない」

わかっている。非現実的どころの話ではないことくらい、わかっている。
音楽の道など考えたことも無ければ、ピアノも妹の習い事程度の認識しかなく鍵盤に触れたことも無い。本気でピアノを極めるであろうと妓夫太郎では、スタート地点からして何もかもが違い過ぎる。
望んだところでに近付ける見込みが無いことなど、本人が誰より痛い程に理解して――

「ただ、うちには誰にも使って貰えなくなりそうな、最高に良いピアノと練習室があるんだよねぇ」

まるで想定外の言葉を受け、妓夫太郎の時が停止した。
全身を鎧の様に強張らせていた負の感情が、一瞬で崩れ落ちる。強く握り過ぎたあまり白くなっていた掌に、血がどっと巡っていく感覚が熱い。
機械的な動きで隣を見る。すっかり暗くなった部屋の中で、男はこちらの様子を具に観察しているようだった。

「俺は多少顔が利くから、使ってくれる誰かがどうしてもってお願いするなら、確かな腕の先生を雇ってあげることも、そんなに難しくはないなぁ」

どこか可笑しさを堪える様に、童磨が微笑んでいる。
わざとらしい言い回しも、とぼけた仕草も、普段であれば癇に障る挙動一切がどうでも良くなった。

とうに遅れ切った今からでも音楽を学ぶ気があるかと、目の前の男は問うているのだ。
そして今目の前には、その気にさえなれば走り出せる環境が整っている。
を、追える。それを理解した瞬間、頭の中でひとつの枷が砕け散った。

――道が、拓けた。

妓夫太郎が迷わず両手を床に付けると同時に、童磨の表情が固まった。

「・・・え」
「頼む」
「おいおい、冗談さ、子どもがそんなことを、」
「冗談じゃ困んだよ・・・!」

目一杯に荒げた声に流石の童磨も言葉を失った様子であったが、なりふりは構っていられない。
みっともなくて良い、どんな事にだって縋る。と比べれば何もかも足りていない、そんなことは今に始まった話では無い筈が、一体何を弱腰になっていたのか。
経験が無いから何だ、遅れているから何だ。どんなに細かろうが活路が見えた以上、突き進む以外に選択肢などありはしない。
懸命に頭を下げ続ける妓夫太郎を困り顔で見下ろし、童磨が感心した様な息を漏らした。

「大変だよ?本当に、これは冗談じゃなく」
「んなこと、わかってる」
「音楽の世界は狭き門だよ。頑張っても無駄に終わるかもしれない」
「良い。何だって良い。何でもするからよぉ」

何だってする。何でも出来る。ピアノの練習も音楽の勉強も、どれ程馴染みの無い分野であろうと関係ない。もう一度の傍で生きられるなら、何にでもなる。

そうして硬く目を瞑る妓夫太郎の顔を強引に上げさせた童磨の表現は探る様な色をしていたものの、一拍の間を置いて柔らかく綻んだ。

「よし、良いよ。今日から君が練習部屋の主だ。俺がまた忙しくなる前に、急いで良い先生を雇ってあげようね」

それは呆気なく、そしてあっさりと、明るい答えそのものとなる。
妓夫太郎は暗闇に鈍く光る虹色を呆然と見返す以外に為す術を持たなかった。

「・・・本当、か」
「うん、勿論。よいしょっと、電気を点けようねぇ。わ、眩しい」

勢いをつけて立ち上がった男が照明のスイッチを入れる。暗さに慣れ切った目には非常に厳しい眩しさだった。思わず手を翳しながらも妓夫太郎は変わり始めた現実に瞠目する。

を見つけた。遅ればせながら、同じ道を追う準備が整った。夢ではないかと瞳を揺らすその刹那、不意に感じた視線を仰見る。

楽しげに笑う虹色の瞳が、逆光の中こちらを見下ろしていた。

「君は確かに素人中の素人だけど。今から死に物狂いで練習を続けたら、ひょっとしたら今日の・・・ふふっ、絶妙に息の合っていなかった連弾相手に、いつか成り代われる日が来るかもしれない」

童磨の思い出し笑いから連想されるのは、年配の女性と連弾していたの姿だ。
生憎と初心者になったばかりの妓夫太郎には息の合う合わないまでは理解が及ばないものの、ノクターンの演奏時の方が数段生き生きとしていたことは伝わった。

あんなにも音の粒が輝く彼女の隣に、座れる日は来るだろうか。
果たして連弾相手に成り代われる日は、訪れるだろうか。

「頑張るんだよ、妓夫太郎」

出来るかどうかではない。
決めた以上は必ず成し遂げる、それだけだ。

少々強めに頭を撫でられ、妓夫太郎は眉間に皺を寄せる。
目は既に、明かりに慣れつつあった。




* * *




道が拓けてから六度目の春が来た。

音大入学から初のアンサンブルの授業、第一の課題は選曲・相手共に自由な連弾だ。
こちらを恐れ遠巻きにする誰もが次々にペアを作っていく中、ただひとり熱心に楽譜を選ぶ華奢な背に引き寄せられる様に、妓夫太郎は歩き出した。

「・・・くるみ割り・・・でも、眠れる森も・・・」

教室の前方のテーブルには楽譜が山になっている。そこを浚い、ひとつ手にしては唸り、ふたつ手にしては悩み。そうして難しい顔をしていた黒い瞳が、不意に感じた気配からこちらを見上げる。

目と目が合う、それだけのことで懐かしさに覚悟が揺らぐのを、妓夫太郎は気怠い表情で押し殺した。眉間の皺は癖になったが、一向に構わない。は一拍遅れ慌てた様に目を丸くした。

「あっ、ごめんなさい。楽譜、見る?チャイコフスキーのバレエの曲、好きなの?」

の声。わかっていた筈の当たり前が、すぐそこにある。手を伸ばせば届く距離で、生きている。
何も知らない彼女は単純に同志として質問を投げたのだろうが、最早笑顔を向けられることですら言葉に詰まる。
なかなか返答が出来ない妓夫太郎を不思議そうに見上げるは、しかしすぐに周囲へと注意を逸らした。

「あれ。そっか、皆先に組む人を選んでたんだ」

楽譜の山へ迷わず飛び付いたのはだけの様だった。
外見を理由に散々な言われ様であることを思えば当然だろう、誰もが避けたいパートナーの椅子は、もう彼女の前にしか残ってはいない。
申し訳無いことにには選択肢が無い。にも関わらず、黒い瞳は穏やかに緩み妓夫太郎を再度見上げた。

「あの、今日のパートナー、私でも良いかな」

は外見で相手を忌避しない。
時が移っても変わらない彼女の異質さに救われる。
込み上げた途方も無い熱さに、妓夫太郎は静かに蓋をした。

「良いも何も・・・お前しか、いねぇからなぁ」

言葉の意味はひとつではなかったが、六年をかけて妓夫太郎の心は決まっている。
記憶が無くとも構わない。余計なことは望まない。もう一度、彼女の傍で生きられるなら。唯一にして絶対の信念で、ここまで必死に足掻いて来たのだ。

自分でも良いかと問いたいのはこちらの方だ。この瞬間の為にこれまでの全てがある。心から望む相手はしか有り得ない。

強い思いを封じながら仏頂面を装う妓夫太郎を見上げ、が柔らかく微笑む。

「ありがとう、よろしくお願いします。私、ピアノ科Aクラスの――」

追い続けた懐かしい名前が、泣きたくなるほど耳に心地良く溶ける。

ここからもう一度、すべてが始まった。


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