ふたりのためのアンコール






「謝花くん、変なところ無いかなぁ?」

ホールの穏やかな騒めきが聞こえてくる舞台袖で、妓夫太郎は隣からの問いかけに引き寄せられる様に目線を落とした。薄暗い中でもわかる程度には緊張した様子のが、真剣な顔をしてこちらを見上げている。
紺碧色のノースリーブのロングドレスは彼女も熟考の上納得して選んだ筈の衣装だったが、今になり不安が顔を出したらしい。

「あっ!髪型は完璧だからそれ以外の話ね!」

慌てた様なフォローに、思わず小さく笑いそうになったところを妓夫太郎は寸前で堪えた。
相変わらず髪型のセットが不得手なに代わり、華やかなギブソンタックを仕上げたのは彼だ。ドレスに付属されていた花飾りを含め、髪型は完璧と表現するからには今日のセットもお気に召したようで何よりである。
自ら一回転して最終確認を求む彼女に応じ、長い指先が華奢な肩に触れた。ピアノを弾く者として憧れると、が褒めた手だ。

「・・・おぉ。良いんじゃねぇかぁ」
「ありがとう。あっ、ちょっと良い?」

嬉しそうな安堵と共に黒い瞳を光らせたが、半歩妓夫太郎の傍へと近付く。細い手が伸びた先は白い蝶ネクタイで、若干曲がっていた角度を微調整すると満足そうに頷いて見せた。
このサロンコンサートは主催側の拘りにより、男性参加者は燕尾服が必須だ。スポンサー直々の依頼とは言え、遥々オーストリアの地で慣れない服装は肩が凝る。妓夫太郎は何度目か知れない溜息を零した。

「これでよし」
「・・・窮屈なんだよなぁ」
「そんなこと言わないで、格好いいよ。いつもだけど」
「・・・」

あれから約二年の月日が経過して尚、は何ひとつ変わらない。
華奢な身体に秘めた音楽への溢れる情熱も、その確かな技術力と表現力も。そして、眩しい程真っ直ぐな好意も。

あの日以来、一切隠すことをしなくなった情愛をそのまま乗せた声で彼女は今日も恋人を全肯定する。疑う余地も無いほどに惚れ惚れとした目をして、格好いいと告げるのだ。
戸惑い六割、照れ臭さ三割、嬉しさ一割。絶妙な感情バランスの上で妓夫太郎は頭を掻いた末、視線を逸らすと共にに向かって手を差し出した。定刻だ。

「バカなこと言ってんなよなぁ・・・行くぞぉ」
「うん、よろしくね」

迷いなく乗せられた手は信頼に満ちている。
形式上のエスコートより深い意味合いで手を取り合ったまま、二人は拍手の海へと踏み込んだ。




* * *




思えば、奇跡の連続の様な人生を送って来た。
それこそ、以前の生涯の分を取り戻すかの様に。

もし記憶を引き継いでいなければ、現状に幸福や満足を覚えることも無かったのだろうか。真冬の公園のベンチから光る水面を眺め、妓夫太郎はそんなことをぼんやりと考えた。

「あ。梅ちゃん?そっちは変わりない?・・・うん、私は元気だよ。昨日、マダムのサロンコンサートも無事終えたし」

ピアノと同じく右隣に座るは、手渡されたばかりの端末を耳に梅との国際通話を楽しんでいる。

関係が進歩して間もなく、音大数校が合同で行った催しで連弾演奏を披露した時のことだ。来日していた音楽好きの婦人がふたりの演奏に強烈なひとめぼれをして以降、年に二度音楽の都に招待されるという音大生として破格の待遇を受ける日々が始まった。
国際的にレベルの高い音楽に触れる機会の多い婦人の目から見て、ふたりはそれぞれ個々の音大生としては並みであると正直に告げられている。しかしながら連弾で合わさった音は間違いなく宝だと熱く口説かれ、どうか一度ウィーンのサロンコンサートに出ては貰えないだろうかと問われた時のの横顔が忘れられない。

「今回はね、あちらのリクエストでシュトラウスのメドレー。あ。えっと、ワルツの“美しく青きドナウ”とか、わかる?・・・そうそう、それそれ。皆梅ちゃんにも会いたがってた。マダムが次の夏は是非って仰ってたよ。・・・うん、前向きに検討してくれると私も嬉しいな。素敵なカフェも見つけたよ、もし次一緒に来れたら案内するね」

白い息を吐きながら若干耳を赤くして微笑む横顔が、酷く尊いものに思えて仕方が無い。
がいなければ意味が無い。を守れなければ意味が無い。わかりきっていた筈の優先順位を、日々何ということのないひとときに実感することがこの二年で増えた。

もし、記憶が無かったなら。のことを忘れて生きていたならば、ここまでの人生はどれほど違ったものだっただろうか。
もしもの話に頭を巡らせたところで意味は無いとわかっていつつも、妓夫太郎はひっそりと苦笑を浮かべてしまう。例え自分ひとりきりであっても、彼女を忘れずにいられたことは間違いなく幸いだ。記憶の無いと梅がこうして再び仲睦まじい関係を築けていることも、そんな二人の傍にいられることも、何もかも。
多くを望み過ぎれば何かを取り零すと恐れていたことも嘘では無い。しかし、妓夫太郎は何ひとつ失うこと無く二十一歳の今を生きている。健康も、恵まれた環境も、何より大切な存在も。そして、の心も。この巡り合わせは奇跡としか呼べないだろう。

「うん、日本時間で明日の十一時着だよ。空港まで迎えに来てくれるなら気を付けて来てね。お土産、ちゃんと買って帰るからね」

どうしたって引力の強い横顔を眺めていると、不意にその瞳と視線が絡まりあった。かわる?と口の動きだけでが告げるので、先程話したばかりだと妓夫太郎は首を横に振る。たったそれだけのやり取りでも黒い瞳は嬉しそうに細められるものだから困ったものだ。困ってしまうほどに、心の奥底が緩んで堪らなくなる。
一言二言のやり取りを経て通話を終えた彼女から、妓夫太郎の手に端末が戻された。

「ありがと。やっぱり梅ちゃんの声聞けると元気貰えるね!」
「梅も同じことを考えてそうだけどなぁ」
「そうかな。ふふ、だったら嬉しいけど」

午前中の公園は人気も少なく静かで、冬特有の空気は澄んでいた。フライトは夕方だがそれほど時間に余裕は無い。あらゆる場所が演奏に溢れた街並みも、音楽家の銅像の目立つ公園も、また暫くはお別れだ。

「今回も楽しかったね!もう四回目だけど、充実過ぎてあっという間。マダムに感謝しないと」
「・・・そうだなぁ」

最初はドイツ語もほんの片言で右も左もわからず苦労したふたりであったが、二年経ち四回目ともなれば様々な方面に余裕が出来、限られた時間の中で観光することも難しくはなくなった。
何しろスポンサーである婦人からの手厚い好待遇だ。おすすめスポットは音大生向けから恋人向けまで幅広く紹介されたし、コンサート以外の日程は余さず楽しめる様計算し尽くされた個別ツアーを組んで貰ったようなものだ。
いつかふたりをウィーンに引き込む気なのではないかと梅が気を揉むのも無理は無かったが、それでも音楽の都で嬉しそうに輝くの笑顔を見る度、妓夫太郎の懸念は全て意味を無くした。
が笑うならば何だって良い。の笑顔を守る為なら、何だって出来た。

「あの、謝花くん」

旅の終わり、思い出話に花を咲かせるかと思われたが妙に緊張した顔をしている。これには妓夫太郎も小首を傾げた。

「・・・どうしたぁ?」
「こ、これは別に心境の変化とかじゃないし、軽い気持ちで聞いて欲しいんだけど・・・」

落ち着きなく両手を胸の前で振りながら、しかしは妓夫太郎の方へと座ったまま半歩距離を詰める。
肩と肩がぴたりと触れ合った。この距離感は日頃と同じ様でいて大きく違う。それがわからない妓夫太郎ではなく、話し出すのを黙って見守ること数秒。ひとつ深呼吸を置いたが顔を上げ、ほんのすぐ近くで目と目が合った。

「し、下の名前で呼んでみても・・・良い、かな」
「・・・」
「サロンで少し仲良くなったお姉さんたちが、ファーストネームの方が特別感と愛が増すって言ってて・・・今更かもしれないけど、もしかしたらそうかもって思って・・・あ、不満があるとかじゃないよ。謝花くんはもともと特別だし愛も」
「おい」

放っておけば気恥ずかしい話になりそうで、妓夫太郎は多少強引に流れを断ち切った。

謝花くん。
関係が変わる前から固定されていた呼び名をは二年間使い続けた。それを今になり、彼女の方から改めたいと言う。
拘りなどないと言える強気な自分が、半分。

「・・・好きにしろよなぁ」

若干緊張が走る自分も、半分。

「・・・妓夫太郎くん」

その響きの懐かしさに瞬間呼吸が止まる。が“以前“呼んでくれていた名だ。
それほどに待ち望んだ、同時に今の彼女から呼ばれることが怖かった呼び名だった。
急速に満たされていく心地に、一体何を恐れていたのかと妓夫太郎は内心で自嘲してしまう。

の黒い瞳が不意に丸くなったのは、丁度そんな時のことだった。何かと妓夫太郎が探ろうとするより早く、その口元が開く。

「―――私と結婚してください」
「・・・あ?」

時が完全に止まった。

は今何を言ったのか、妓夫太郎の耳は今何を拾ったのか。
突然のことに訳がわからず硬直した空気の中、ゆっくりとの目が更に見開かれていく。

「えっ・・・今、私、」
「・・・」
「あっ・・・もう、どうして今?んんん・・・!こんなつもりじゃ・・・!!」

まさか。困惑を隠せない妓夫太郎を前にして、は更に困惑しきった顔をしてじたばたと足踏みをしながら頭を抱え込んでしまった。恐る恐る顔を上げた黒い瞳は羞恥から潤んでいて、ドクンと一度大きな音を立てて妓夫太郎の鼓動が跳ねる。

「あの、もう、本当に何が何だか・・・変なこと言ってるとは思うんだけど、考えるより先に言葉が出てたの・・・」

心底戸惑った様な顔をしてが告げる。震える語尾で頭を抱え、赤面したまま小さく唸る。

「妓夫太郎くんの名前、初めて呼ぶ筈なのにすごくしっくり来て・・・ああもう、だからって変だよね私・・・今言うつもりじゃなかったのに・・・!」

考えるより先に言葉が出た。今言うつもりでは無かった。
つまり、タイミングはともかくとして発言自体を取り下げるつもりは無いということだ。
彼女自身は未だ混乱している様ではあったが、それが有り有りと伝わって来る感覚に妓夫太郎はますます言葉を失ってしまう。

これまでにも、妓夫太郎に対し何かと覚えがある様な戸惑いと、その度決まって都合の良い勘違いだと苦笑する彼女を見て来た。
の記憶の扉は開きそうで開かない、それはわかっている。しかしこんなにも想定外のことを異国の地でぶつけられ、動揺せずにいられる筈が無い。

互いに頭がふらつくような混乱の中、やはり立ち直るのも覚悟を決めるのも早いのはの方だった。
日頃鍵盤を明るく彩る細い手が膝の上で硬い拳となり、潤んだ瞳が妓夫太郎を捉える。

「まだ私の家族も紹介してないし、二人共学生だし、こんなの順番がおかしいのはよくわかってるんだけど・・・卒業して、生活できる基盤が出来て、ちゃんとお互いの家族の了承を得られたら・・・」

彼女が細く息を吸い、白い息が漏れ出す。緊張と不安に揺れる黒い瞳が光る。
静寂に満たされた公園の中、それは信じ難いほどに美しい光景だった。

「私と、夫婦になってください」

完全に置き去りとなっていた身体に、ゆっくりと血が通っていく。
指先ひとつ動かせなかった状況から、時が少しずつ動き出す。
悔しい様な、それでいて仕方がないと諦めてしまう様な、複雑な感情はそれでも妓夫太郎の心臓を熱く包み込んだ。

のままだ。
記憶があろうと無かろうと、根元の部分は一切変わっていない。

「・・・お前ってやつはよぉ」
「あ、あの・・・」

忘れない。何もかも、忘れない。
こちらの想像を遥かに超える規格で飛び込んで来て、すべて包み込んでしまうのがだ。
よく知っている、全部覚えている。だからこそ。

「・・・妓夫太郎、くん?」

極度の緊張から潤む瞳を美しく思うと同時に、これだけ傍にいながら不安を覚える要素が何処にあるのだと少々腹が立ってしまう。無論、苛立ちをぶつけたりは決してしないけれど。
代わりにこれくらいは、許されるだろう。
華奢な肩に腕を回し退路を断ち、妓夫太郎は半ば身を乗り出す様にしての呼吸を飲み込んだ。

それが数秒だったのかそれ以上に及んだのかは定かでは無い。
この公園に人気があろうが無かろうが、そんなことは最早どうでも良かった。
名残惜しくゆっくりと離した柔らかな熱と同時に、至近距離で呆然と見開かれた黒い瞳が妙に可笑しく、悪戯に音を立てて再度短く啄むと漸くの瞳から緊張が和らぐ気配がした。
それだけで世界が色を変える。これだから、敵わないのだ。

「全部俺の台詞だろうが、ばぁか」

何故だろう、こういう時は正面から抱き合えば良いものの、ふたりはこうして隣あったままだ。
右にが、左に妓夫太郎が。ピアノを弾く時と同じ並びで隣り合い、身体を傾け合う様にして抱擁を交わす。
多少身体が捻じれても良い、格好がつかなくとも構わない。思わぬタイミングで幸せの絶頂が更新されたことで、の笑顔が花開く。
鼻先の触れ合う距離で示された幸福そのものの様な笑みを、堪らなく好きだと妓夫太郎は心の奥底から実感した。この先何度でも、同じことを思いながら生きていく。

「私、妓夫太郎くんにばぁかって言われるの、好き」
「言ったなぁ、一生言い続けてやるからなぁ」

遠くから音楽が聴こえてくる。
ああ、二人でピアノが弾きたい。

いつの間にかの様なことを考え始めた自分自身に気付き、妓夫太郎は緩く笑いながら華奢な身体を強く抱き寄せたのだった。


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