その讃美歌はふたりを結ぶ




窓の外からは、変わらず沢山の音楽が流れ込んでくる。

今自分が何をしているのか。咄嗟には理解が追い付かず妓夫太郎は瞠目した。
何故、今この腕の中にを閉じ込めているのか。
傍にいたいと泣いて主張する声を聞いた瞬間、何もかもが頭の中で白く弾け飛んだ。

隣り合って座っていた状態で横から強引に掻き抱かれ、バランスを失ったは身を固くはしているものの拒絶の素振りを見せない。
華奢な身体も、彼女の匂いも、何とも表現し難い柔らかさも。あまりの懐かしさと尊さに眩暈がする。
傍にいたいのはこちらの台詞だ。ここまでの積み重ねは何の為か、全て打ち明けられたならどんなに良いか。
妓夫太郎は下唇を噛み締め、浅い呼吸のまま柔らかな髪に鼻先を擦り寄せる。
夢ではないかと思う程に、身体の奥底から満たされる思いがした。

「・・・お前の、好きにすりゃあ良い」
「謝花、くん」
「これまで通り、俺をお前の弾きてぇ曲に使え。呼び出されればすぐ行くし、好きな時に家に来りゃあ良い。梅も喜ぶ。さっき話した考え方は曲げねぇが、お前が言うなら極力荒事にはしねぇ様に努力する」

考え得るすべてを並べた。
の望みであれば何だってする、何だって出来る。
暫しの沈黙の末、肺から細く吸い込んだ空気が苦しい。

「けどなぁ、今こうしてることだけは・・・忘れてくれねぇか」

言葉が、震えた。
腕の中の華奢な身体が静かに息を飲む気配がする。
例え彼女の心が離れようとも信念を曲げないと決めた矢先、傍にいたいと願って貰えるならばこんなにも幸福なことは無いだろう。

しかし、ここより先へはどうしたって進めない。

「お前の傍にいられるなら、俺はそれだけで十分なんだよなぁ」

以前の記憶を有しているのは妓夫太郎ひとりだ。それでも変わらず梅が妹として存在し、再びの傍にいることが叶っている。
願った以上の奇跡を手にして尚、更に多くのことなど望める筈が無い。

「これ以上欲をかいたら、代わりに何かを取り零しちまう様な気がして・・・怖ぇんだ」

二度と大切なものを喪わない。その為だけに生きていられるなら、それだけで良かった。
の隣にいる時間が長くなるにつれ少しずつ余計なことを欲し始める自分自身に、そして明確な好意を秘める黒い瞳に、気付かぬふりをしていた。

この手に抱えられるものは限られている。
人生はそう順風満帆にはいかない。
これ以上を望めばきっと何か取り返しのつかないものを取り零す。

万が一、この甘美な思いと引き換えにを再び取り立てられたならば。
過ぎた幸福と自己肯定感の低さが、途方も無い恐れとなって妓夫太郎に圧し掛かる。

そんな時だった。

「・・・私も、ずっと怖かった」

腕の中で大人しくしていたが、僅かに身じろぐ。

「もし謝花くんと気まずくなって、傍にいられなくなったらどうしようって、それがずっと怖かった」

妓夫太郎の胸板に手を置いて小さく距離を置く彼女は、顔を見合わせて話をしようと試みるのみで腕の中から出ていこうとはしなかった。
未だ涙の名残がくっきりと残る顔が痛みを伴い胸に迫る。
しかし、強く何かを訴える黒い瞳から目が逸らせない。

「でも、私今、心臓飛び出そうなくらいドキドキしてるけど、信じられないくらい幸せなの。きっと、今までのどんな瞬間よりずっと、幸せなの」

が小さく鼻を啜り、薄い涙の膜を残したままの目尻が和らぐ。
彼女の涙など見たい筈も無い。しかし、目の前の光景が何より美しいものに思えて仕方が無い。

「・・・この気持ちも、忘れなきゃ駄目、かな」

抗えない。
こんなにも真っ直ぐな思いを目の前にして、突き放せる筈が無い。
何かを発しようとしては声にならず、小さく口の開閉を繰り返した後、強く目を瞑った妓夫太郎は縋る様に再度大切な体温を腕の中へと閉じ込めた。




* * *




主よ、人の望みの喜びよ。
バッハの中でも好きな曲が開いた窓から風に乗って聞こえて来る。
高鳴る鼓動とは裏腹に、外の音をしっかりと聞き取れる不思議にはそっと微笑む。
いつぞやの様に事故ではなく、はっきりと彼の意思によって抱かれ覚えた気持ちは幸福としか呼べない。

限りなく近い距離を過ごしながらも、どこかで気持ちがすれ違ったらと思うと怖くて仕方が無かった。臆病さに反して日々主張が強くなる二文字を、どうしたら隠し通せるものかと悩んでいた。
そんな折に起きた初めての喧嘩は幸運なことに翌日解消となったが、思わぬ側面から如何に自分が大切に思われていたかを明かされた時の気持ちは忘れることなど出来はしない。
例えそれが彼自身からの願いだとしても、応じることは出来なかった。

一度目の不意打ちとは違い、隣り合いながらも身体を傾け合う様にして受けた抱擁は驚くほどにしっくりと来た。
まただ。妓夫太郎を相手にすると度々感じてしまう、初めてではない様な錯覚。どこまで都合の良い勘違いをすれば気が済むのだろうと、は苦笑しながらも焦がれた心地よさに目を閉じる。
行き過ぎた勘違いも、燻り続けた恐怖も、何もかも今この瞬間の幸福を前にしては些細なことだ。強過ぎることの無い力で抱き締められ、片方の手で絶えずゆっくりと髪を撫でられる感覚が、くすぐったくも嬉しい。
忘れろと言われて尚、唯一の枷であった恐怖を取り払われたは好意を隠すことを止めた。擦り寄る様に頬を押し付けると、瞬間身を固くした妓夫太郎が空白を挟んで深くため息を吐く。
その間僅かに腕の力が強まったことも、髪をくしゃりと撫でる手に一層優しさが増したことも、にとっては嬉しい追い風に他ならなかった。

「私、謝花くんのため息が好き」
「・・・なんだそれ」
「困らせたい訳じゃないよ。でも少し困ってる時の謝花くんが眉間に皺を寄せて、でも最後にはしょうがないって、切り替えてくれる時のため息が好き」

涙は止まった。きっと彼は、忘れろという問いに否を返したことを仕方無しにでも受け入れてくれていると、それが本能的にわかる。

「少しだけ眉が下がって、小さく笑ってくれる。優しい表情も好き」

今にも溢れそうだった思いは、蓋を取り去った今一瞬で彼女の世界を変えた。
自分に素直になることは、勇気を出せばこんなにも視界を色鮮やかにしてくれる。

「勿論謝花くんのピアノも好き。でも私にとって謝花くんは、もうとっくにそれだけのひとじゃないの」

の方からもう一度彼の胸に手を置いて、二人の間に隙間が生まれる。
瞬きを忘れたかの様に唖然と見開かれた青い瞳が、堪らなく綺麗だった。

きっとこの瞬間を忘れない。

「――謝花くんが、好き」

本来なら静まり返った筈の練習室は、外からのバッハの曲で満たされている。それも自分たちらしいのではないかと、は目を細めて笑う。

「傍にいたいの。ピアノもそれ以外の時間も、ずっと謝花くんの隣が良い。あっ、勿論梅ちゃんとも仲良しでいたい」

気持ちを伝えることには確かに勇気が要った。けれど思い切ってみれば、心が軽くなった様な気さえする。
動揺に揺れている妓夫太郎を思うと、少々申し訳無くなってしまうほどに。
は薄い苦笑を浮かべ、そっと彼を励ます様に一度頷いて見せた。

忘れることを拒絶した、秘めた思いを聞いて貰えた。
妓夫太郎が望まぬことなら、それ以上は無理強いをしたくはない。

「聞いてくれて、ありがとう。謝花くんがこのままでいたいなら、それでも良いの。頭の片隅にでも、私の気持ちを覚えておいて貰えたら、」

傍にいられるなら、それで良い。ニュアンスは違えど同じ様な台詞は、しかし途中で遮られてしまう。

再度閉じ込められた腕は、小さく震えていた。

「・・・俺なんかで、本当に後悔しねぇか」
「え・・・?」
「こんな俺が、これ以上、お前に・・・もし、何か取り返しのつかねぇことがあったら・・・」

後悔などする筈が無い。正面から好意を伝えて尚、妓夫太郎は何かを恐れている。

怖い。
彼の口から初めて聞いた言葉を反芻し、は改めて自分からその背に腕を回した。

「怖くないよ」

ぴたりと身体中の隙間が埋め尽くされる。
一番近くで届けたい。何故か強くそう感じた。

「二人の気持ちが一緒なら、どんなに欲張ってもきっと怖くないよ。もし謝花くんが何かを零しちゃったら、私が必ず拾うから」

自惚れでなければ、きっと気持ちは同じ筈だ。全てを理解出来ずとも、今なら何かを支えることは出来る筈だと、は信じている。

「俺なんかとか、こんな俺とか、言わないで」

音楽の神に感謝したい程の素晴らしい連弾パートナーは、少しずつ傍にいる時間が増え、距離が近付く度に胸が熱くなる様な思いをくれた。
都合の良い運命だと錯覚してしまう程に、かけがえの無い存在だ。
彼が自身を否定するならば、自分が何度でも肯定して見せる。その一心で、は告げる。

「謝花くんはたったひとりしかいないんだよ」

彼の震えが、ほどなく止まった。どちらともなく隙間が開き、至近距離で視線が絡まる。
まさしく先程好きだと告げた、困った様に小さく笑う優しい表情を目の前にして、思わずは嬉しさに頬が緩んでしまう。

「・・・敵わねぇんだよなぁ」

気持ちに応えるとも、関係を変えようとも彼は言わなかった。
しかしその一言と優しい表情は、説明が不要な程確かな安堵を届けてくれる。

一息距離を詰めれば呼吸が混ざり合う隙間を飛び越え、は妓夫太郎の首元へと強く抱き着いた。
背に回された腕は変わらず優しい。幸せなため息が溢れ出た。
今、どんな時より通じ合った様な心地がする。

「ね、謝花くん。次は、」
「・・・バッハかぁ?」
「ふふ、正解」

互いの温もりが心地良い。
窓の外は変わらず音楽に満ちていた。


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